4−1 「導き 〜恵悟と葵〜」
一寸先もわからない暗闇の中、誰かの呼ぶ声が聞こえる。
その声は山彦のように、反響を伴って聞こえてくる。
それは聴覚を介さずに、直接自分の頭の中に響いてくる。
『こっちへ……』
底知れず深い暗闇の空間を、方向も知れないままに泳いで進む。全身を包み込む闇に抱擁されていると、この場所には僅かな光も存在せず、広がる闇には果てがないのだろうと想像させられた。
『そう。そのまま、もっと、こっちへ……』
聞こえてくる声──トーンからいって、まず女性で間違いないのだろうが、思い当たる人物はいない。
けれども、それが誰のものであったとしても、今はその声だけが頼りだ。声の主の指示に従い、俺は闇を掻き分けながら進む。
「誰、君は誰なんだ?」
『……』
こちらから投げかけた問いに答えは返ってこなかった。でも、その代わりに、不意をついて指先に触れるものがあった。初め、確かめるように一瞬だけ触れたそれは、次にはしっかりと俺の手を握ってきた。
柔らかくてしなやかな感触だ。それに、何故だかとても安らぎを覚える。
その不思議な手の感触はゆっくりと自分を引っ張って、導くように闇の奥へと誘う。恐怖心は無い。抵抗する気は全く起きなかった。
そのまま、何かに手を引かれてしばし進むと、周囲の暗黒に薄い光が差し込んでゆくのが感じられた。目の前に現れた光の帯が漆黒のトンネルを貫通し、徐々に暗闇の世界が明るくなっていく。
やがて光は、こちらを目指す光線となって降り注いだ。どうやら俺は、光に向かっているようだ。
さらに光源に近づくと、光の広がる速度は一気に増加する。夜明けの空を染め上げる、暁光の如き拡散だった。朝日が昇る瞬間の、降り注ぐ光を浴びる感覚だ。次第に全身が光の中に巻き込まれていく。眼前が眩しいばかりの光で満たされていく。
そして最後の一瞬に、女性の姿が見えた。声を届け、手を繋いで自分を導いていてくれた女性の姿がわかったところで、意識が急激にに遠のいていった。
* * *
「うう……」
うめき声を上げながら、少年は目を覚ました。
「夢……?」
確か、暗い闇の中で、女性に導かれて……。
彼の意識と眼前は、よほど長く眠っていたのか激しく霞んで、すぐにははっきりとしなかったが、徐々に様々な感覚と、思考能力が戻ってくる。少年は身体を起こし、周囲を見回した。
「どこなんだよ、ここ……」
薄暗くひんやりとした、殺風景な場所。明らかに見知らぬ、どこかの室内である。
「俺、何でこんな場所にいるんだっけ……?」
彼は途切れた記憶を遡り、現状に至るまでの経緯を思い出してみることにした。
* * *
~地球 二〇xx年 某所~
日本の季節は初夏を迎えていた。
こんもりとした春が過ぎ去り、美しい桜の花はとっくに散ってしまったが、手を一杯に広げたような木々の葉の緑、草花の瑞々しく生き生きとした伸びやかな姿が、まるでこの清清しい季節を喜んで歌っているかのようである。
◆◆
うっとおしい梅雨の訪れはまだずっと先のこと。ひどい湿気はまだないが、気温はだいぶ高くなってきた。
冬のピリッと張り詰めた緊張感とか、心身を引き締めてくれる乾いた寒さとはまた違った良さがある。
「やべぇ、こりゃあ完璧に遅刻だ」
今年で高校三年生になる栖条恵悟は、昨日の夜更かしが祟ったらしく、結構な朝寝坊をしてしまった。
とはいえ、学校までは徒歩でも行ける距離だから、全く焦る必要はなかった。……いや、そもそも彼には焦るつもりがないのである。彼はそれほど、自分のペースというものを大事にしているのだ。周囲から見れば一見、いい加減に見える性格ではあったが、自分の気に入らないことには徹底的に反抗する面もある。故に時々極端な行動に走ることもあるのだが、気のいい彼を悪く言う者はほとんどいなかった。
「ん……なんだ?」
学校に行くための近道である、よく利用している細い路地。ふと何かの気配を感じ、恵悟は立ち止まった。
ここは普段から人通りの少ない路地である。きょろきょろと辺りを見回てみたが、やはりこの時もあったのは気配だけで、人の影は見つからなかった。
「気のせいかな……」
念のため、来た道を振り返ってみた。しかし、やはり特別変わった事はなく、誰もいない。恵悟は違和感を覚えながらも、再び前を向いた。……すると。
「!」
瞬間、思わずハッとした。そこには信じられない光景があった。
女性が一人、立っているのだ。
もちろん、それだけなら普通の光景であろう。が、その女性の体は半透明で、向こう側の景色が透けて見えるのである。さらに、ゆらゆらと蜃気楼のように揺れながら、濃くなったり薄くなったりを繰り返している。
恵悟は目を凝らした。しかし、それは錯覚などではなかった。
(俺の目がイカれちまったのか? それとも……ユーレイ?)
そんなことを考えているうちに、その幻はゆっくりと消えていった。
(消えた……)
恵悟はしばらくその場で呆然としていたが、思い出したように我に返って、学校への道を歩き出した。
学校に着き、教室に入ると、とっくに最初の授業が始まっていた。恵悟はこっそりと教室に入ったけれども、すぐに教師に怒鳴りつけられた。
「……栖条。ずいぶん大胆な登校だな」
「すんません」
教室のところどころから、クスクスという笑い声が聞こえる。恵悟は頭を掻きながら、自分の席に座った。
「よう問題児、遅かったじゃん。今日は一緒じゃないのな。……そのせいで遅刻か?」
隣に座っている友人の一人がニヤニヤしながら声を掛けてきた。
「うっせ」
それから後はちゃんと授業を受けた恵悟だったが、とても集中はできなかった。朝に見たあの女性の姿が、脳裏から離れないのである。
(あのユーレイ、すげー可愛かったなあ……。あの感じだと、ちょっと年上かな。いや、同じくらいかもしんない……なぁ)
考え事をしている内に授業が終わり、休み時間になった。教室ががやがやと騒がしくなる。だが、恵悟の妄想は膨らむ一方である。
(なんつーか、こう、ふわふわした感じで……、でも目元とかはキリっとしてて……)
「ケ〜イ君♪」
(唇なんかも、ぽってりしてて……、ナイスバデーだったし……特に、あの……)
「ケイ君ってば!」
「ん……ああ。何だ、葵か」
「何だ、じゃないでしょ。何考えてたのよお」
恵悟に話しかけてきたのはクラスメイトの雛谷葵である。彼女は恵悟とは幼稚園から一緒という、近所に住む筋金入りの幼馴染であった。
葵は恵悟のことを良く知る人物である。しばしば暴走しがちな彼を抑止することがある。彼女はそれが大概の場合、彼の優しさからくるものだと知っているから、常に彼の味方に回っていた。
恵悟にしてみれば、世話好きでおせっかいなこの少女は、多少煙たい存在ではある。けれどもよく知る相手だけに別にどうこうするでもなく、二人の関係はお互いに違和感を感じさせないくらいに自然なものであった。
「今日もさあ、朝にケイ君ち行ったら、おばさん、ケイ君まだ寝てるって。それで、無理
矢理起こそうか? って聞くから、それはさすがにカワイソーかなって思って。そしたら
ケイ君、ものすごく遅刻してくるんだもん」
「あのなぁ、葵」
「なあに?」
「そういうの、やめにしようぜ。もう子供じゃないんだからさ。大体恥ずかしいんだよ。
毎日のように迎えに来てさぁ」
葵はムッとした表情をした。
「なによ。私が迎え行かなきゃケイ君、毎日遅刻してくるじゃない。まるっきり子供じゃないの」
「それがおせっかいだっての。……みんなに、からかわれるしさ」
「ふんだ。もういいよっ」
葵は鼻を鳴らしてから、拗ねた様子で自分の席に戻っていった。恵悟としてみれば別に悪気はないのだけれど、彼女に世話を焼かれると素直になれない部分がある。もちろんどんな文句を言おうともその場その時だけの台詞であって、本心からの言葉ではないし、またこういう小競り合いはしょっちゅうなので、これはこれで彼らのコミュニケーションの一環と言える。
授業は順調に消化され、問題なく今日一日の課程がすべて終わった。最後のホームルームが終わると、その頃にはもう朝のことなど記憶の片隅にもないらしく、葵はいつもの調子で恵悟に話しかけた。
「ねぇ、一緒に帰ろうよ」
「おう。そうすっか」
葵が自慢の笑顔を作ってから、二人は一緒に教室を後にした。去年は別々のクラスだったが、それでも葵はちょくちょく恵悟の所へ遊びに来ていた。今年は同じクラスであるから、そんな必要も無い。
「……今日のケイ君、なんか変よ。いつもより、ぼーっとしてる」
「そうか? 別に普通だよ」
二人は校舎を出た。校庭ではもう運動部が部活を開始しているらしく、威勢のよい声がここまで聞こえてくる。校庭は校舎の裏手なので、校門から下校するのにそこを通る必要はない。
たくさんの下校する生徒と共に、二人は校門から外へ出た。そこはもう通いなれた道である。だが、二人とも今年で三年生だから、この道で登下校するのも今年が最後ということになる。
「……ねぇ、ケイ君」
「ん?」
「進路のこと考えてる?」
「なんも」
「威張って言うことじゃないでしょ……。この時期にさあ、何にも決めてないわけ?」
葵は深々とため息をついた。
「あのさ、ケイ君、頭いいんだし進学すべきだと思うよ」
「そうかなぁ」
進路。もちろん、恵悟も考えなくはない。でも、彼の頭には何故か明確な将来像が浮かんでこなかった。何かに夢中になることはあまりないし、特別やりたいことがあるわけでもない。だから葵の言うように進学するというのも悪くないかな、彼はその程度に考えていた。
「でもまぁ、今から勉強したって間に合わないかもなあ」
「……私よりも偏差値いいくせして、よく言うよね。いらないならちょっと分けてよ」
並んで歩いていると、葵は本当に楽しそうに話をする。これは二人にとって当たり前の光景である。しかし、相手を単なる幼馴染としか見ていない恵悟と、一方の葵とでは、この光景の意味合いに相対的な違いがある。葵の心はすでに変化し、今では恵悟のことをただの幼馴染としては見れなくなってきているのである。
葵は校内でも可愛い女子として有名で、異性からはかなりモテるので、二人の関係をやっかむ者もいれば、恵悟の存在を知ってあきらめてしまう者も多い。けれどその関係を問えばどちらも強く否定する(葵の場合は意識しすぎて)ので、男子は恵悟のことを、「あんな娘を放っておくなんておかしいんじゃないか。雛谷さんと付き合いたいやつ、山ほどいるのに」という始末である。
そんな葵なので、恵悟の歯切れの悪さに、憤りを感じてしまうのは否めない。それに今日の彼は心ここにあらず、といった感じで、なんだか胸が苦しくなる一方だった。
それでも、今流れている時間は確かであり、そしていつもと変わらない日常には違いない。
何気ない会話をしながら歩いていた二人だった。
──だが、今日はやはり何かが違うのである。突然、恵悟が立ち止まった。
「どしたの? ケイ君」
葵はどちらかといえば恵悟が突然立ち止まったことよりも、彼が見たことのない表情をしていることの方が気になった。
「なぁ葵。この先にお前、何か見えないか」
「え……なに? 何のこと」
葵には彼の言っていることの意味がわからない。どう見ても、道の先には特におかしな物などはなかった。
だがこの時、恵悟の目には、再びその姿が見えていた。それは間違いなく、今朝見たあの半透明の女性の姿である。
「女が見えるんだよ。なんか今朝から変なんだ」
「えーっ! 大丈夫なの? なんかの病気じゃ……」
「ユーレイみたいに透き通ってるんだ」
「や、やめてよ」
恵悟の見つめる中で、その不思議な女性は、またゆっくりと消えていった。
「あ……、消えた」
「怖いこと言わないでよっ」
何となく、恵悟は女性が立っていた場所に自分も立ってみた。
「何かさ……、俺を呼んでるように思えるんだよなぁ」
「変なゲームのやり過ぎじゃないの。……人がいっぱい死ぬやつとか」
葵は幾分冷たい目で恵悟のことを見た。陽気も過ごしやすいし、何よりまだ昼過ぎである。こんな状況で幽霊が現れたりするわけない、と思った。
恵悟は首を振って、あたりを見回している。歩き慣れた、いつもの街路である。ちょっと坂になっていて、レンガ調のタイルが敷き詰められた歩道と、青々と葉を茂らせた街路樹が景観を彩る。
道の両端にはいくつもお店が並んでいて、おしゃれな雰囲気が漂っている。
「あっちかな」
恵悟が歩き出した。そして、道の脇の細い道へと入ってゆく。
「ちょっとケイ君、そっちは家と逆方向だよ」
「悪い、葵。先にひとりで帰ってくれ」
そう言って恵悟はどんどん先に行ってしまう。
「ち、ちょっと……。なんなのよ、もう」
葵は急いで恵悟のあとを追いかけた。気味悪いので一人にされるのが怖かったのもあった。
何かに操られるように歩く恵悟。葵はわけもわからないまま、彼に付いてしばらく歩き続けた。綺麗に舗装された通学路から、どんどんと人気の少ない道へ分け入っていく。そのうち家も少なくなって、景色が田舎じみてきた。畑があったり、遠くに山が見えたりする。映画に出てくるような田舎の風景である。彼らの住んでいる街は中心部こそ開発されているけど、少しそこを離れれば、そこには郷愁溢れる日本の風景が広がっているのである。
恵悟はなおも歩き続けた。
最初は不安がっていて葵も、多少の冒険気分を感じたのか、あるいは持ち前の好奇心によるものか、いつの間にかこの奇妙な散策を楽しんでいた。
そして、ある分かれ道に差し掛かったとき、恵悟は急に歩を止めた。
恵悟の見つめる先にあるのは、神社へ続く階段である。
「ここ、鴻ノ池神社だね。子供のころよくここで遊んだよね。今じゃ初詣のときくらいしか来ないけど。……裏の山は危ないから行っちゃ駄目よって、お母さんにいつも言われてた」
神社の裏山では昔から、迷い込むと神隠しに遭うという言い伝えがあった。実際そんな目に遭った人がいるなど聞いたことはなかったが、その話を聞いてから葵は裏山が怖くなって、なるべく近づかないようにしていた。
「呼んでる」
「え」
恵悟は導かれるかのように、神社の方へと歩き出した。葵は恵悟を放って置くわけにも行かないので、それについていく。それなりに長い階段を上ると、ひっそりと静まり返った鴻ノ池神社があった。
神社の境内は広いが、人っ子一人いない。静か過ぎて怖いくらいであった。恵悟は神社の裏手に回ると、森の中に間に分け入っていく。それは間違いなく、裏山の方角である。
「ケイ君、どこ行くのよ! 私は嫌だからね」
「だから俺一人でいいってば」
「わかった! 私のことからかってるんでしょ? 嫌いになるよっ」
だが、恵悟は答えない。彼は周囲が見えなくなるくらい何かに集中したり、思い切った行動をとることがある。それを葵はよく知っていた。だからこのときも驚きはしなかったが、あまりにも理解不能という点が今までと違う。
(おばさんに言われてるんだから。恵悟はたまに暴走するから面倒を見てやってって)
葵は恵悟の後を追った。もちろん連れ戻すためである。
「ケイ君、きっと気のせいだって。帰ろうよ」
「そうとは思えないんだよな」
二人はどんどん山の奥へと入ってゆく。
葵は怖くなってきた。もうかなりの距離を歩いている。神社の裏はどこまでも森である。この山地は広大で、もし迷ったら帰って来れないかもしれない。風に揺られて鳴る木の葉の擦れる音や、鳥の声さえも不安を掻き立てるものでしかなかった。
多少日が伸びてはいるが、時間的にはもう夕方になろうとしている。
葵は心細かったが、それでも恵悟の後姿で大分救われていた。
やがて、開けた場所に出た。このあたりだけなぜか木が少ない。
「何かしら」
土手にあったのは、大きな鉄製の扉らしきもの。そして、この扉には鍵がかけられていた。
「これって、あれじゃない? えっと……ほら、戦争の」
「防空壕?」
「そう、それ」
戦時中に使われた防空壕だと予想した葵。しかしかなり山中に分け入った場所である。こんなところに防空壕など作るだろうか。
「何か気になるけど」
扉にかかっていた鍵は南京錠である。見るからに頑丈そうで、しかも補強するかのように、閂にも幾重に鎖が巻かれている。
「さすがにこれじゃ、開かないか」
「ね、無理でしょ。もう帰ろうよ」
葵が恵悟の顔を覗き込んで言った。……すると。
「ちょっとケイ君!」
恵悟が足元にあった石を拾い、南京錠を叩き出した。今度ばかりは、さすがに葵が止めに入った。横から恵悟の腕をつかんで離さない。
しかし、恵悟は動きを止めなかった。石で錠前をたたき続けている。恵悟の腕の動きに引っ張られて、葵の体制が崩れた。振り払われそうになったが、それでも葵は諦めない。今度は後ろから両腕で、恵悟を扉から引き離しにかかった。
「やめてケイ君、どうしちゃったの! 何か変だよっ」
それは悲痛な叫びであった。
ようやく恵悟の手が止まった。
風が吹き抜ける。
葵は恵悟の背中に顔をうずめたまま動かない。
そして、ゆっくりと時間が流れる。
「ごめん、葵。俺どうかしてたよ」
恵悟はその姿勢のままで、そう言った。
「帰ろうぜ」
恵悟はそう言って地面に持っていた石を投げ捨て、振り向いた。ところが、そこにいるはずの葵の姿がない。
「……なにやってんだ、お前」
どうやら葵は恵悟の動きに合わせてそのまま向きを変えたらしい。つまり今も恵悟の背中にくっついていた。
「なんでもないよ! もう大丈夫。行こう」
彼女の目の端には、うっすらと涙が溜まっていた。それに顔全体、特に頬あたりが朱に染まっている。それがどんな理由からきたものか。嬉しさ、恐怖、不安、恋の熱……様々な要素が入り混じった結果である。
「……で、どっちから来たっけか」
「えっと、確かこっち」
二人は来た方角を確認し、この場を立ち去ろうとする。
するとその時、信じられない現象が起きた。
パキィィィン!
背後で何かが砕ける音がし、驚いて振り返った二人が目にしたものは……。
「あ……」
あの頑丈な錠前が壊れて、地面に落ちていた。恵悟が叩いたから脆くなったのだろうか。
いや、閂に巻かれていた金属の鎖まで一緒に砕けている。一体、何が起きたのだろう。
二人は全く理解不能のまま、しばらくその扉をながめていた。
「葵」
恵悟が何か言いたそうな目で見つめた。瞳が輝いている。中を調べたいに違いない。
「……ふぅ」
葵はもう、あきれるしかなかった。
「ちょっと、覗くだけだよ?」
恵悟は閂を抜いて、力一杯扉を押した。金属の扉は大きくて重そうに見えたが、意外にも恵悟一人の力で充分動かせるものだった。
覗きこんでみると、洞窟の中は真っ暗で進めそうもなかった。
「さすがにこれ以上は進めないな」
「気味悪いよ」
「ここ、いったい何なんだろうな。なんでわざわざ扉に鍵までかけて……」
「待ってケイ君。何か聞こえない?」
耳を澄ましてみる。確かに穴の奥から何かが聞こえてくる。
「風の音……かな」
「どこかに通じてるのかしら」
そう思っていた時である。
ものすごい勢いで、洞窟の中に向かって風が吹き始めたのだ。
「うわ、なんだぁ」
洞窟が、巨大な掃除機のノズルのように二人を吸い込もうとしている。まるで洞窟内に小さなブラックホールが出現したかのようである。
「きゃあ」
鉄の扉には僅かだが手を掛けられるだけの出っ張りがあった。恵悟は吸い込まれる直前にその出っ張りに手をかけて何とか助かったが、葵は抗えずに洞窟に吸い込まれてしまった。
「葵ッ」
恵悟は手を伸ばし、間一髪で葵の腕を掴むことに成功した。しかし片腕だけで扉にしがみついているのは限界がある。
「くっそぉぉ」
恵悟は力の限り踏ん張った。
「なんなんだこれはよぉぉ!」
吸い込まれたらどうなるのか? 全く予想などつかない。洞窟の闇の先は謎である。
「死んでも、離さねぇぞ」
恵悟は歯を食いしばって耐えている。
「ケイ君……」
風は止む気配を見せない。片手で二人分の体重を支えるなど到底無理な話である。扉にかけた恵悟の手が力を失おうとしていた。
「何、あれっ」
二人を襲う異常現象は吸引だけに留まらなかった。何と、今度は洞窟の奥から、眩いばかりの光が渦を巻いて迫ってくるではないか。その光はどんどん大きくなって、すぐに二人の足元へと迫った。
「うわぁぁぁぁぁ」
視界が真っ白な光に包まれていく。二人は洞窟から溢れ出すその光の渦の中に吸い込まれた。
光は二人を完全に飲み込むと、そこで成長を止めた。そしてその直後、今度は急速に収縮して洞窟内へと戻っていった。それと同時に吸引する風も止んだ。あっと言う間に、洞窟は何もなかったかのような静けさを取り戻した。それは、本当に瞬く間の出来事であった。
こうして異変は収まったが、その場所から二人の高校生の姿は失われていた。
恵悟と葵は光の渦に飲み込まれ、この世界から姿を消してしまった。