帝都にて(未)
只今加筆修正中です。改稿が済んだら、二部か三部に分割する予定であります。
艦隊戦の決着が予想以上に早かったために、当日の夜更けには帝都に帰還できる運びとなった。しかも、多数の降服兵と鹵獲した公国側の艦船という土産つきの凱旋である。
また陣を引き払うのも手際が良かったので、戦闘に参加した将校や兵士たちは、早々に帰還を始めることができた。アーシアたちはさらにその一足先に、船に乗ってトラシェリアの港へと向かっていた。
到着時刻は夜も遅く、さすがの華の帝都も夜のしじまの中にあって寝息を立てているようであった。上空から見れば、深い闇の中に浮かび上がる街の灯が、さながら地面に投射された満天の星空のようである。
帝都中央区画、国内最大級の港に帰港した帝国主力艦隊は、到着と同時に事後処理を開始した。下船した兵士たちは何事もなかったかのように静かに入城した。
もしこれが、帝都の外門からドヤドヤと入ったのだとしたら、住民の安眠を妨げる結果になっただろう。
しかし、空路を用いればそんな心配は要らなかった。中央区画の空港から直接入城できるのだ。
城内に待機中の兵士の姿はほとんど見えず、地上戦に備えていた中央陸軍は既に戦闘勝利の報告を聞いており、ほとんどが解散され引き上げた模様だった。
「アーシア、明日の式典では皇帝陛下直々に功労者に対する恩賞の授与がある。功をねぎらって下さるだろう。そして、戦闘の勝利が正式に発表され、都民の知るところとなる。喜ばしいことではあるが、賑やかで忙しい一日になるだろう」
別れ際、サスファウトはアーシアにそう教えた。
さて、今晩はアーシアに相応しい個室が用意されているらしい。彼女は一晩を城内で過ごすことになっているが、同様にクエインにも部屋が用意されていたのが、彼は帝都の安宿に泊まると言って聞かなかった。
「凄い部屋……」
思わず声に出してしまった。侍女に案内され辿りついた来賓用の個室、その部屋の格調の高さときたら。冒険生活の間に利用していた宿の部屋と比べるのは見当違いにも程があるとわかってはいるが、とにかく今まで泊まったどんな部屋よりもずっと豪華である。調度品のひとつひとつが、とても平民の手が出せるような品物ではないことは一目瞭然だった。
床には金糸で縁取りされた臙脂色のサルルジュレ編みカーペット(王室、皇室御用達の高級品)、天井には小さいながらも精緻な細工の施された煌びやかなシャンデリア、そして部屋の隅には王様や女王様なんかが寝ていそうな、美麗な天蓋が垂れ下がった肉厚のベッド、さらにその隣には大小様々、色とりどりの宝石を散りばめた銀細工が映えるドレッサー。それと、それと──。とにかく、枚挙に暇がない。
(はあぁ……どれも高級品ね。見とれちゃうわ)
どこもかしこも、どれもこれも、女性をうっとりさせるのに十分な、壮麗で優美な趣が凝らされていた。部屋中が幻想的な光に満ち溢れ、夢の世界にいるのではないかと錯覚してしまうほどだ。
足元に広がるのは、踏むのもためらわれるカーペット。その上をおずおずと歩き、部屋の隅々まで見て回る。──すると。
(嘘でしょう。部屋の中にお風呂がある……!)
公衆浴場とか湯浴みなんてものではない。薄手のカーテンの奥に浴室が備わっているのだ。アーシアはしばし自分の目を疑ったものの、それらが幻でないことを認めた。
「うう~ん、驚いたわ。貴族の生活ってばこんなにも贅沢なの。……ひしひしと格差を感じる瞬間だわ」
独り言を呟きながら、洗面台の鏡に映る自分の顔とにらめっこ。これは国賓をもてなすためにしつらえた部屋なのだから豪華も豪華。あてられたアーシアは帝国の心づくしで、最高級の扱いを受けている。
「まあ、いいわ。お風呂に入って今日はもう寝よう」
スルスルと衣服を脱ぎ捨て、生まれた姿のまま浴室に入った。広々とした湯船には蛇口が取り付けられていて、しかもその蛇口の栓は捻るとお湯が出るようになっている。アーシアは先に身体を洗ってからあらかじめ張っておいたお湯に浸かった。
(ふうぅ、いい気持ち。……こういう風な使われ方なら、メナスト・テクノロジーの発達も悪くはないわね)
湯船の中でしばらくぼーっとしてから、お風呂タイムを終えた。ぽかぽかする体を柔らかい布で拭いて寝巻に着替えると、途端に眠気が襲ってきた。どうやら自分が感じるよりもずっと疲労が蓄積しているらしい。不意にあくびが出て、慌てて両手で口を塞いだ。
「んぁ……眠い。そろそろ寝ようかしら」
──ところが、ここでアーシアの予想もしなかった出来事が起きた。
「──夜分に失礼致します、アーシア様。遅い時間ではありますが、お食事をお持ちしましたので宜しければお召し上がりくださいませ」
「え、えええっ。……今から食べるの?」
城付きのメイドが運んできたメニューは夜食と呼ぶには豪勢すぎた。慌しく目まぐるしい一日の中、時間の調整がうまくいかなかったとはいえ、何とも遅いディナー・タイムである。
とにかく全ての料理をテーブル上に並べてもらって、野菜の盛り合わせなど食指が動くものに適当に口をつけて、それで食事を終えようと思った。
(残すのはもったいないけど……。これ全部食べたら絶対太っちゃうしなあ……)
美麗な皿に乗せられた彩り豊かな料理の数々を見つめながら、食欲と女性として気にせざるを得ない部分とを天秤にかける。また、贅沢だとは思うが寝る前に胃に物を詰め込みたくない気分もある。
ちなみに、女性として気にせざるを得ない部分については、彼女得意のメナスト・コントロールを使い、脂肪の燃焼を高めることか出来ないだろうか、などと企て、実際に試してみたりもしたのだが──。邪念がこもっていたせいかうまくはいかなかった。そのあまりにも惨めな結果に、二度と挑戦すまいと心に誓ったのである。とてもではないが恥ずかしくて他人には話せないし、絶対に知られたくない胸中の秘密だ。
だが、それはそれ、これはこれ。享楽的で都合のよい方向に思考が働き、軽やかに箸は進んだ。山が切り崩されるように、みるみるうちに露出していく皿の底。こうして結局は完食してしまうのが紛れもない現実だ。食事を済ませたら余計に眠気が強くなって、自然と瞼が落ちてくる。
「ふぁぁぁぁぁ、もうだめ……。今日はさすがに疲れた。リシュ、おじい様、お休みなさい──」
ささっと寝支度を済ませると、やたら柔らかくて大きなベッドに身体を沈ませ、深い眠りについた。
* * *
そして、翌朝。
目を覚ましたアーシアは寝ぼけ眼で壁時計を見て──びっくり。
「あぅ! また寝坊しちゃった!」
もともと早起きは苦手とするところだが、今朝は特に慌てふためいた。大切なセレモニーがあるというのに何ということだろう。
「こういう時こそ、侍女なんかが起こしてくれるべきじゃないのかな。だいたい、このベッドの寝心地が良すぎなのよ」
なんて八つ当たりを口にしながらベッドを叩いてみたところで、時間が逆戻りするわけもなく。
「急いで支度しなくちゃ!」
素早く身支度を済ませ、部屋を出て謁見の間に向かった。
巨大な城塞都市、帝都トラシェリア。その中枢、政庁施設が集中する中央区画には、城とは別に皇帝の住居となる宮殿が存在する。この宮殿内に立ち入ることは特別な人間にのみ許される。それは国法で認められている者、皇帝の許可を得た者と彼の親族、そして宮殿内での実務や皇帝の身の回りの世話を許された官吏・女官である。そのため、式典内での表彰も城内の謁見の間で執り行わるのだが、皇帝地震が功績者を表彰すること自体が異例である。そのようなことは普通、ロシオウラが代行するからだ。
アーシアが遅れて表彰式に参加すると、謁見の間には国家の重鎮・顕官が連なり、その顔ぶれはまさに偉観というべきものであった。また、この列席者の中には影の功労者トマ・ライグェフの姿もあった。彼は国の役人だが、地方政庁の事務官にすぎない。謁見の間を満たす厳粛な雰囲気にキョロキョロと眼球を動かし、いかにも落ち着かないようであった。
表彰は進み、アーシアのように直接戦闘に参加し活躍した者者だけではなく、トマのように裏方で活躍した者たちにも、惜しみなく恩賞が与えられた。特に全軍を指揮したダコワは、海賊として重ねてきた過去の所業を許されたばかりか、この場で正式にトラシェルム空軍の提督に任命された。彼の力量と功績の大きさが認められたのである。
その後、ミュリオンは帝都第一区画にあるカーム・ルンド広場に民衆を集め、それを見渡すことのできるバルコニーから演説を始めた。初戦の結果が皇帝の口から直接語られると、凄まじい歓声が巻き起こった。
この時の演説の中身はロシオウラが書いたものではあったが、ミュリオンが国民に語りかける姿は実に堂々たるものであった。彼の気質は温厚で柔和、激しく逞しかった先帝とは真逆なものだが、帝都の民衆の大部分は王国当時から政府を慕っている。幾多の勝利を共に味わい、艱難辛苦を乗り越えて大陸制覇を成し遂げたリ・デルテア王国。帝政となり君主が変わった今でも、信頼関係は揺ぎ無いものである。
現状を維持し、さらに向上させていく。国政に尽力するロシオウラや家臣団の力は必要不可欠なものだが、生まれて間もない大帝国を団結させるだけのカリスマ性を、ミュリオンが先帝から受け継いでいることが望まれる。現時点で確かなことは、彼のような若い君主は、新進気鋭の大国家のシンボルにふさわしかいということである。
広場を見下ろすバルコニーの席上から、ミュリオンは最高の賞賛をもってアーシアを紹介した。「この者はオーファであり、わが国の守護神ネア・ミアの生まれ変わりである」と告げ国民の反応は様々ではあったが、このミュリオンの宣言によってアーシア達は忌まわしき者ではなく英雄として語られることになるかもしれない。
演説に立ち会ったクエインの思いは心の底から喜ばしく、またアーシアとリシュラナが誇らしかった。愛弟子であり愛娘でもあるアーシア達の成長ぶりは、クエインの親心に十分に応えるものであった。強大なオーファが歴史の表舞台に立つことは非常に大きな意味を持つ。世界の趨勢は超越者の出現によって激動と混迷の色を強めるかもしれない。
だが、それも承知のことである。クエインは自分に与えられていた重要な役目を果たした。アーシアの意志を尊重し、その絶大な影響力を歴史の表舞台に送り出したのだ。遅かれ早かれこんな日が訪れることを予感していた。それは彼の隠し持っていた悲願でもあった。あとは彼女達自身で考え、行動する。世界に新しい秩序が生まれる日を信じ続けるのみである。
式典の閉幕後は、凱旋パレードが催された。街頭が兵士たちの戦功を称える民衆が埋め尽くされた。帝都は圧倒的勝利を手にして帰還した誇れる軍隊を、割れんばかりの歓喜でもって包み込み、その功を労った。何しろ、帝都の総人口の約八割が旧リ・デルテアからの移住者である。帝都の民衆は王国と共に乱世を生きぬいた、真の愛国者の集団だ。
「トラシェルム帝国、万歳!」
「ミュリオン皇帝陛下、万歳!」
国歌や行進曲を演奏する楽器隊の大音量にひけをとらない群集の叫びは止むことがなかった。トラシェルム帝国成立後としては初となる他国との戦争での、しかも経験が浅い空戦での勝利に、帝都の人々は輪をかけて盛り上がった。
凱旋パレードは壮麗かつ華々しく行われ、大通りでの行進の際には、これぞ隆盛栄華の極みかとさえ思われた。
* * *
『今宵、宮殿で皇室主催の祝勝会を行ないます。ぜひご参加下さい──』
これは宮殿から諸侯に向けて通達されたものである。賓客扱いのアーシアの元にも、この招待状が届けられた。
皇帝が宮殿に諸侯を招くことは、極めて異例である。というのも、足を踏み入れる条件がとても厳しいためだ。それが今宵は多くの貴族、諸侯らに向けて広く開かれるということなのだから、この度得られた喜びと戦果の大きさがわかるというものだ。
「初戦に勝っただけでずいぶんと大袈裟な反応ね。まだ戦争は始まったばかりでしょうに」
アーシアはちょっと呆れた様子で、側のクエインに言った。
「わからんか、このくらいやった方が全体の士気が上がるし、次につながるのじゃよ。それに、帝国としては初めて大陸外の国に勝利したことになる。しかも、不慣れな空戦での勝利となれば、うかれるのも無理もないと思うぞ」
クエインが言った。帝政トラシェルムが初の大規模な会戦を勝利で終えたことは、実際の戦果以上に多くのものをもたらしたのである。それは空の戦いにおける経験とか自信、そしてアーシアやクエイン、ダコワといった新たな人材の発掘など、有形無形の様々な収穫である。今後の展開に活かされていく大きな収穫だ。
セレモニーが終わると、アーシアは再びミュリオンが用意してくれた個室に戻った。
「城の雰囲気って慣れないなぁ。なんか、堅苦しいというか」
なんて独り言を呟いてしまう。中央政府の関係者はよくもまあこんなところに居られるものだと、そんな率直な感想である。
「そういえば、祝勝パーティっていうけど、私ドレスどころか、おめかし用の服なんて持ってないわ。どうすればいいのかしら」
一応、クローゼットの中を見てみよう。そう思った矢先、再び城付きのメイドがやってきて、手際よくパーティ用の衣装を広げて見せた。
「こちらにパーティ用のドレスをご用意してございます。いかがでしょうか? もしアーシア様のお気に召さないようでしたら、衣装棚の中にもあらかじめ何点か準備してございますので、どうぞお好きなものをお召しになってくださいませ」
準備がいいというよりは、もはや用意周到の域である。招待側のの見事な心遣いには目を見張る他なかった。
* * *
アーシアはを身支度を済ませ、帝都中央区画の最奥にある宮殿へと向かった。
厳重な警備で固められた門扉を抜け、回廊を通って宮殿に入ると、その中の様子は恐ろしく豪奢であった。施された装飾は壁面から窓枠、天井にいたるまで全てが煌びやかである。調度品、美術品、設置されたあらゆる物が夢の世界を演出し、帝国の栄華に彩を添えていた。
祝勝パーティも実に華やかであった。来賓の人々は誰もが正装に身をつつみ、超一流の料理人が仕上げたすばらしい料理と上等の酒を楽しんでいた。
皇帝ミュリオンは床から数段高い位置にある玉座に腰掛けており、そこから全体の様子を満足そうに眺めるのだが、彼の眼前にきて祝辞を述べる者は絶えなかった。
そんな気品漂う会場に、アーシアは足を踏み入れたのである。今の彼女は煌びやかだが派手過ぎない、品の良い薄紫色のパーティドレスに身を包んだ、見目麗しい女性である。見た目の美しさもさることながら、単に身分が高いだけの淑女たちとは別格の、凛として気高い雰囲気が際立っている。彼女の醸し出す際立った存在感に、あれは誰だろう、他国の賓客だろうかと、興味深げに目を向ける者も多かった。
「アーシア殿ではございませんか」
会場の中ほどまで進んだアーシアを見つけ、声を掛けたのは将軍サスファウトである。鎧を脱ぎ幹部の制服を着込んだ今の彼は、高貴な美青年といった印象だ。
「将軍──」
礼と祝辞を述べようとするアーシアの言葉を、サスファウトは片手を出して遮った。
「私のことはサスファウトとお呼びください。そのかわり、貴女をアーシアと呼ばせていただきたいのだが、よろしいか?」
「ええ」
「それと、堅苦しい口調で喋るのは疲れるものだ。貴女さえよければ、砕けた言葉で話したいのだが」
「構いませ……。ううん、構わないわ──サスファウト」
礼儀作法は苦手だし、フランクな関係でいられるなら、その方
がずっと楽である。
「それにしても、美しいな。純白のドレスがよく似合う」
「そう? ありがとう」
社交辞令だと決め付ける必要はないが、例えそうでも悪い気はしない。容姿端麗な男性に褒められるのは嬉しいものだ。そのあとしばらくの間、サスファウトと取り留めのない話を交わした。
「アーシア。私との話はこれくらいにして、そろそろ皇帝陛下にお会いした方がいいな」
サスファウトがアーシアの手をとって優しくエスコートする。二人は人の隙間を縫って奥に進み、玉座まであと少しの距離まで近づいたが、そこでサスファウトの名を呼ぶ者がいたので、彼はアーシアに非礼を詫びてからその場を離れ、声の主のもとへ歩いていった。残されたアーシアは一人、皇帝の元へ向かった。
「アーシア、よく来てくれた。嬉しいぞ」
玉座に座る十代の皇帝ミュリオンは、挨拶に現われたアーシアの姿を見て、至極嬉しそうな声で言った。
「どうだ、帝都トラシェリアの賑わいは?」
ミュリオンが尋ねた。
「ここの賑わいは、私には少し騒々しすぎるかもしれません。何分、普段静かに暮らしているものですから」
アーシアは物怖じする様子もなく、はっきりとした口調で答えた。御前での無礼を顧みない言い草に対し、周囲の者が黙ってはいないだろう。……と思いきや、当のミュリオンの機嫌が相変わらずいいので、誰も咎めることが出来なかった。
ミュリオンは嬉しいのである。彼は幼くとも一国の最高権力者だ。自分に接する人間の態度がよそよそしく感じられ、上っ面の忠誠を誓っている連中ばかりだと実感することがある。寂しさを覚えることもある。自分を取り巻く人間達が、自分ではなく所詮「皇帝」という肩書とそれが持つ権威を見ているのだ、と思える。
だから、臆することなくハッキリと自分の意見を口にするアーシアの態度がとても快く、好ましいものに感じられたのである。
「そうか、そうか。ではもう少し質素にしてみるか。この宮殿も──」
「陛下──」
皇帝の軽はずみな言動を遮ったのは、彼の傍に仕える文官筆頭ロシオウラ。トラシェルム帝国の大黒柱、不世出の賢臣とされる人物である。
かつては先帝ベルギュントの側に立ち、彼の覇道を支え続けた天才軍師。大陸制覇の功労者。シーレ中でも彼の名を知らぬ者はないと言っても差し支えないほど有名な人物だ。
(この人がトラシェルム帝国の摂政、ロシオウラね……)
アーシアはここぞとばかりに彼を観察した。一見してわかる、クエインに負けないくらい高齢の翁である。しかしながら瞳に潜ませた威光、年輪が刻まれ風格を備えた理知的な顔立ちが、およそ常人離れした彼の才気を物語っているようである。表面上の静けさと、内に秘めた凄み、強さのようなものをこの人物は持ち合わせているのだと、そんな風に感じた。
「師父よ、なぜ止めるのだ。一体、何がいけないというのだ? アーシアと私が話をすることが不服なのか?」
摂政に諌められたミュリオンはこれでもかというほど不満の色を示した。
「そうではありません。君主たるもの、軽はずみな言動はお控えくださるよう申し上げたいのです」
「ううむ……あいわかった(師父は本当に石頭だなあ)」
師父がそう言うならば仕方ないと、ミュリオンはしぶしぶ引き下がった。
「オーファ殿。私ロシオウラからあなたに伺いしたいことがあるのだが?」
年齢を感じさせない澄んだ声色で、ロシオウラが訊ねた。
「何でしょうか。私に答えられることでしょうか」
「あなたと共にやってきた、あのクエインという御老人のことなのだが。話によればあなたの祖父らしいが、いったい彼は何者ですかな? 作戦中に彼が呈したという助言を耳に入れたが、察するに、並みの人物ではあるまい」
ロシオウラからの質問を受け、アーシアの背筋にぎくりと、緩やかだが確かな緊張が走った。さすが国家の頭脳、着眼点が違う。この老摂政はアーシアたちの側で最も追求されたくない部分に突っ込みを入れてきた。
「……ええ。祖父は確かに博学で優れた人物です。が、私と共に流浪の生活を送ってきた冒険者に過ぎず、特別な才能がある人間というわけではありませんよ」
動揺を悟られぬようポーカーフェイスを保ちつつ、アーシアは無難に答えた。
「いや、豊富な知識と明晰な頭脳の持ち主なのもそうなのだが、それ以上に気になることがあってな。……実は、彼のことを、以前どこかで見かけた気がするのだ。昔の記憶ゆえ、すぐには思い出せぬが……」
ロシオウラがそんなことを言ったので、アーシアの心はますます動揺し揺さぶられた。
──まずい、ロシオウラはクエインの過去を知っている可能性がある。このままでは彼の正体がばれるかもしれない。
ロシオウラは目の前で難しい顔をして考え込んでいる。状況的には追い込まれたとまではいかないが、慎重に言葉を選ばなければならない。妙なことを言ってこれ以上関心を強められては困る。
アーシア達には、クエインの素性を公にするわけにはいかない理由があるのだ。何としても、この場を切り抜けねばならない。
「失礼ながら、気のせいではないでしょうか。祖父は大の読書好きで、色々な知識を持っているので、時々それをひけらかしたくなるだけなのです。私がこんなことを言うのもどうかと思いますが、名高き摂政様が目を留めるほどの人物ではあり得ません。どこかで見た気がするとも仰られましたが、他人の空似ということも考えられますし」
「ふむ……そうか。確かに、そうかもしれんな」
最後は相手が完全ではないにしろ納得したような素振りを見せたので、アーシアは上手くはぐらかせたと安心したのだが、実は彼女の応対は功を奏してはいなかった。それどころかむしろ逆効果で、ロシオウラの好奇心とか猜疑心を焚き付ける結果になってしまっていたのである。
(あの御老人が何者であろうとも、面白い人物には違いない。真偽を確かめるためにも、ここは直接会って話してみるのが一番だな)
それがロシオウラの出した答えであった。
「では、陛下、ロシオウラ様、私はこれで。失礼いたします」
一礼を終えたアーシアは、これ以上追及されるのを嫌ってそそくさと御前を後にした。ロシオウラはそんな彼女の背中を見つめていた。彼はこの時、こんなことを思ったのである。
(はて、あのアーシアという娘のことも、どこかで見た憶えがあるような。いや、さすがに気のせいだとは思うのだが──)
宮殿を後にしたアーシアは足早に、しかも人目を避けるようにして自分の部屋へ帰った。そしてドレス姿のまま、ベッドに仰向けに倒れこんだ。
「あぁ~疲れたっ! 本当にもう、ここのやり方とか雰囲気って性に合わないわ! おじい様ってば、礼儀作法については何も教えてくれなかったしさ、どう振舞っていいのやら、さっぱりだわよ……はあ」
溜息をつき天井を見つめていると、ホームシックだろうか、ローセルムにあるマイホームが恋しくなってきた。
「そうだ、街にいるおじい様に会いに行こう。今すぐにでも、一緒にローセルムに帰りたい気分だわ」
勢いよくベッドから起き上がったアーシアは、窮屈なドレスを脱いでいそいそと風呂に入った。そして普段着に着替えると、吹き抜ける風のように城を抜け出して城下町に向かった。
* * *
──帝都トラシェリア。
ここはトラシェルム大陸のほぼ中央に位置する、人と大陸文化の集合地点。人口といい、規模といい、煌天世界全体でも一、二を争う巨大城塞都市である。
トラシェリアは、トラシェルム大陸全土を巻き込んだ戦役の最中に建造が始まった。完成後は旧リ・デルテア王国からの大規模な移民受け入れを行ない、愛国心の強い国民が集まる、新帝国トラシェルムの首都になった。
帝都の構造は防衛力が最も重視されたもので、堅牢な城壁と隔壁によって、居住区画や港湾区画、城や政庁施設施設がある中央区画など、いくつものエリアに分けられている。構造上、外敵の侵入に対しては非常に強い造りとなっている。
また、帝都の地下には『超』巨大な天然の魔晶石があり、帝都全体にエネルギーを供給している。魔晶石と直結したこれまた巨大な魔晶炉からエネルギーを得て、重要な区画を魔障壁が覆っている。これは敵勢力からの魔弾による攻撃を完全に無力化し得る防御手段だ。
外部からの攻撃に対してはこの魔障壁だけではなく、凄まじい数の砲兵器が常ににらみをきかせている。その中でも無数に据え付けられた対空砲は上空を小鳥一羽通り抜けることすら許さないと言われ、これは敵艦船にとっての脅威以外のなにものでもない。
さて、アーシアは通行許可を得て、トラシェリアの城下町にやってきた。
夜もかなり更けていたが、街の活気は全く衰えを見せない。まして戦勝の夜。パレードの熱気がそのまま持続しているようですらあった。
明かりを灯して立ち並ぶ屋台の側を通れば、その場の賑わい具合が尋常ではなく、沸き起こる歓声が止む様子は無い。
「──その時、疾風の如く現れた天下無敵の美女オーファ! 古代の術で敵の戦艦をいともたやすく撃沈さ!」
空軍士官がグラス片手に戦場のあることないことを語るたび、怒涛の歓声が沸き起こる。
誤って歓楽街に迷い込んでしまったのだろうか、と錯覚するほどの盛況ぶりである。盛り上がる酒場のオープンテラスでは、空軍士官と兵士達が戦場での出来事を酒の肴に歓談していた。
「おい、あれ見ろよ!」
「もしかして、英雄のお嬢さんじゃねえか?」
兵士達の視線が通りすがりのアーシアに集まった。
「どうも、こんばんは。楽しそうね」
「おおー! 本物だぁ!」
「こっち、こっち来なよ!」
あっと言う間に、酔っ払った兵士どもに囲まれてしまうアーシア。
「近くで見るとますます可愛いなぁ」
「ねえねえ、嫁に来ない?」
「アーシアちゃん、恋人いるの?」
「馬鹿、いるに決まってるだろ」
「お、俺とかどうっすか?」
「無理に決まってんだろォ! お前はウルネ将軍にしとけよ」
「勘弁してくれよ、あれは鬼女将軍だろ!」
四方八方から、津波のような笑いが押し寄せてくる。
「ほらほら、一杯飲んでくれよ! 俺の驕りだぜ」
「でも、私急いでいるのよ」
断っても、最後は場の雰囲気と勢いに押し切られ「それじゃあ少しだけ……」といった展開になる。盛り場の近くを通ろうものならばまず間違いなく声をかけられ、十中八九取り囲まれ。そしてその度に酒を飲まされる。酔っ払いどもの横暴な振る舞いでしかない。はっきりと断ればいいのに、アーシアも明るい雰囲気が好きだから、ついついグラスに口をつけてしまう。
それほど酒に強くないアーシアは、だんだんと思考がおかしくなってきた。
七番通りを抜け取り囲みから開放されたのはいいが、これからクエインの宿探しをしなくてはならない。
「え~と。おじい様が泊まっている宿は……と」
帝都の路地をさ迷い歩くアーシア。
「もう! どーなってんのよ、この街は!」
で、すぐにかんしゃくを起こした。こんなことになるなら、宿の名前をちゃんと聞いておけばよかったと後悔。
新進気鋭のトラシェルム帝国、その勢いを具現化したトラシェリアは栄華の結晶である。第二区画の城下町の広さは尋常ではない。街路を繋ぐゲートも数知れず、防衛する分にはいいのだろうが、初めて訪れる者にとっては非常に迷いやすい構造である。
「あ、案内用の地図があるわ。ん~と」
街路の石壁に案内用の地図が貼り付けてあった。
「現在地……現在地がここで……え~と、宿があるのは……」
網の目のように複雑に交差する道と、びっしりと書き込まれた各所の名前。こんな不親切な地図で調べたところで、うろ覚えの名前から一軒の宿を特定するなど不可能だ。酔いが回っているせいもあるだろうけど。
「さすがに歩きつかれたわ」
ずいぶんと街中をさ迷って気がする。アーシアが疲労を覚えたその時、彼女の頭脳にナイス・アイディアが降臨する。
「そうよ! リシュに探してもらえばいいんじゃない!」
アーシアは全くの私用でリシュラナに来てもらった。虚空を裂いて白銀の鎧が現れたが、いつもは凛々しい妹も、今回は心なしか呆れた様子である。
「リシュ、おじい様が泊まっている宿を探してちょうだい。宿の名前は……え~と、モラテ……いや、モリ……何だったかな」
そんな曖昧な情報で何が見つかるというのだろう。それでもリシュラナは仕方のない姉のため、帝都の夜空に消えていった。上空より眼下に広がる景色を俯瞰で確認した後、店が並ぶエリアの周辺を高速で移動し、街路を飛び回り、しばらく経ってから戻ってきた。
「どう、見つかった? え、何。そんな宿無いって? あなた、ちゃんと探したの? ……」
アーシアは立ちすくんだ。広大な帝都のいたるところ、宿は無数にあるのだ。
「も、もう一度よ……。いい、今度は視界を共有して一緒に探しましょう。いいわね」
同調し、アーシアは瞼を閉じた。この状態で、自分の視覚をリシュラナに預けるのだ。そうすれば、リシュラナの見ている全てがアーシアの脳内に流れる。
リシュラナは再び飛び立ち、さっきょりも広範囲を調査する。いくつかの宿屋の看板を見つけたが、どれもピン、とくる名前ではなかった。アーシアは思わず目を開き、愕然とした。
「やばい……。完全に迷ったわ」
* * *
──その頃。アーシアが迷子で困っている間に、宮殿パーティは無事に終わっていた。
摂政ロシオウラは平民の装いをして、こっそりと城を抜け出した。彼くらいの重鎮になれば個人的に街へ繰り出すのも容易なことではない。慎重を期して向かった先はクエインの泊まっている宿だった。
宿に着くと、ロシオウラは宿主にクエインの部屋を訊ねた。帝都でもそこそこ名の知れた宿屋モルデノ・ティシーの主人が、宿泊人の情報など教えるはずがない。だが、相手が国の役人を語るのでは断るにも断れない。平民風の身なりを装っているのがいかにも怪しかったが、役人のエムブレムは本物のようだ。
「あんまり、騒ぎを起こさないで下さいよ。評判に響くんですから」
ただでさえ競争相手が多いのに、変な噂が立つはごめんだ。宿主はしぶしぶ部屋番号を教えた。クエインは二階の隅にある個室に泊まっているようである。ロシオウラが教えられた部屋のドアをノックすると、少しばかりの間をおいた後に声の返事が返ってきた。
「どちら様ですかな」
「クエイン殿、私の声がわかるかな?」
流れる沈黙。用心深いクエインが簡単にドアを開けるものでもない。
「さあ、わからないな。すまぬが、帰っていたけるか」
「わかりませぬか。ロシオウラですよ」
「……」
ロシオウラの声には特徴がある。刺客の声マネということも考えられるが、万が一ということもある。クエインはゆっくりと用心しながらドアを開き、生じた隙間から来客の顔を凝視した。
「本当に、ロシオウラ様ではないですか……!」
「話は後です。ます、入ってもよいかな。私『も』知られてはまずい身分だ」
驚きに目を見張るクエインだったが、すぐさま冷静さを取り戻し、ドアの外と廊下の様子を確認してから、この思いがけない来訪者を部屋の中に招きいれた。
◆◆◆
変装してまでやってきたロシオウラの様子に、ただ事ではないと感じたクエイン。二人とも椅子に腰かけると、クエインのほうから話し出した。
「一国の摂政たる人が、自らおいでになるとは、どのような用件でしょうか」
「あなたを見たとき、一度どこかで見た記憶があったのだ。ようやくそれを思い出せた」
ロシオウラは、クエインの顔を見つめた。全てを見透かすかのような、摂政の透明な瞳が容赦なくクエインを射抜いた。
「あなたはハスキュアンで古代技術の研究をしていた、ヘルヴァエ殿であろう」
そう言われると、クエインの顔色が変わった。
「あなたは古代研究の権威であった人だ。それが十年前、突然姿を消した」
摂政は詰め寄るように言った。
「……」
十年以上も前の話だが、クエインはある新興国家で、コアと古代技術の研究を全面的に任されていた。クエインは古代術を心得ているが、それを隠して仕えていた。そして、彼が国に仕えた本当の理由は、最新の研究に携わることで、ロスト・テクノロジー研究の実情を知ることができることにあった。
彼は古代術及び古代技術が平和的に利用されることを願っていたのだ。
彼は研究に携わって、思った。
(魔晶石を利用した現在の技術など、メナスト・コントロールを基本とする古代技術には到底及ばない)
しかし、その古代技術を参考にして生み出された独自の魔晶技術は、兵器利用や軍事技術にも転用されている。
(もし、メナスト・コントロールやコアをはじめとする、ロスト・エラ以前の技術研究がすすんだら、失われたはずの古代技術が甦り、世界は同じ過ちを繰り返す可能性がある。人間はなんと愚かな)
──とはいえ、メナストの利用法はほぼ完全に失われているから、現代に甦らせることはほとんど不可能であろう。クエインはそうも考えたが、とにかく宮仕えには嫌気がさした。
ある日の夜、彼はコアを持ち出して逃走した。その際、家にあった古文書や術のバイブル等は事前に友人に預けておいたので、国が彼の逃亡に気付いた時にはクエインの家は完全にもぬけの殻だった。
当然、その後のクエインは逃亡を続ける身となった。様々な大陸を渡り歩き、トラシェルム大陸にも立ち寄った。その時にアーシアとリシュラナに出会ったのである。
「一体、何故ハスキュアンを去ったのです」
姿を消し、再び現れた古代研究の第一人者。その高名を知っているロシオウラが、変装してまで会うだけの人物である。
「……あなたには隠し事はできんようですな」
クエインは観念したかのように、口を開いた。
「わしは、古代技術が平和的、有効的に使用されることを願って研究を続けていた。しかし、結局どの国も、メナスト・テクノロジーを戦争利用しようとしか考えてないことを知った。だから嫌気がさしたのじゃ」
「偽名まで使って逃げていたのはなぜです」
「ただ逃げただけなら、確かにそこまでする必要はなかった。じゃがわしはそこからある物を持ち出したからのう。追われる身となった」
「ある物とはなんですか」
しかしクエインはその質問には答えなかった。ロシオウラは彼をじっと見た。
「……ロシオウラ様、先にお聞かせ願いたい。何故わしに対して、このような行為に出たのですか。ハスキュアンはわしのことはまだ忘れておらん。差し出してわしを有効に利用しようという魂胆か」
「まさか」
ロシオウラは首を横に降った。
「先生は貴重なお人だ。むざむざ殺させはしませぬ」
「では私に力を貸せ、というのかな」
「できるならば」
「……」
クエインは考えた。ロシオウラは信頼に値する人間であり、また優れた人でもある。しかし力を貸すということは、結局軍事利用としての古代技術を求められるだろう。
「悪いが、それはできんな」
「そう言われると思いました。しかし私としては、この大陸にあなたと、アーシア殿がいること、それだけでも名誉に感じます」
「世辞かの」
ロシオウラは声高に笑った。
「本音ですよ」
それから、ロシオウラは立ち上がった。
「さて、そろそろ帰らんと、いろいろ面倒になる」
「ロシオウラ様。実は先の戦において気になったことがあるのじゃ」
まるでロシオウラを引き止めるかのように、クエインが言った。
「何ですか」
「アフラニール公国の戦力と、あの好戦的な態度。あれは、あの国の体制から言っても似つかわしくないものじゃ。おそらく後ろに何者かがいると睨んでおるのですが」
「先生もそう思われますか」
ロシオウラは静かに言った。どうやら、二人の意見が一致したらしい。
「さすが摂政殿じゃ。戦場にいなくてもわかるか」
「……近年、勢力拡大目覚しい軍事国家がある。おそらく今では、シーレ一の軍事力を誇る国だ」
「ドルトス・メルセニア、ですか」
「左様。強国になりつつあるわが国に先手を打つつもりだったのじゃろう。アフラニール公国はメルセニアに体よく利用されたようじゃな。報告によると、敵の艦艇は百数十隻に及んだという。今のところメルセニアくらいしか、そんな数の軍艦を提供できる勢力はないから、間違いないじゃろう」
──ドルトス・メルセニア。北方の超軍事大国である。近年はさらにその軍事力を大幅に強化し、近隣諸国への大規模な侵攻作戦を開始した。その圧倒的な戦力で周辺国家を次々と撃破し屈服させ、今ではシーレでもっとも広い領土と制空権を持つ大国となった。最早、メルセニアに単独で対抗しうる国は世界に存在しないと言ってもよい。
* * *
さて、一方。迷子になったアーシアはどうしただろうか。
とぼとぼと道を歩くアーシア。その足元は心なしか頼りなく、ふらついているようだ。
そんなアーシアに、一人の男が話しかけた。
「アーシア様!」
なんと、トマであった。
「祝賀会はもう終わったんですか……」
そうトマが言った直後である。
「トマ〜!」
なんとアーシアが抱きついてきたのである。女性特有の、柔らかい感触。鼻を掠める香料の香り。意識せずにいられるはずはない。
「ち、ちょっとアーシア様。どうなさったんですか」
密着するアーシアから酒の匂いがする。かなり酔ってるのではないか。とにかくトマはアーシアを引き剥がした。あとで正気に戻った本人がこのことを知ったら、殺されるかもしれない。本気でそう思った。
「おじい様の、宿が見つからなくてぇ」
鬼神のごときオーファが、子供みたいに涙ぐんでいるのである。
「アーシア様、空飛べるんだから迷うことないじゃないですか」
「あれ結構疲れるのよ。それに目立って仕方ないわ」
逆に、もしこの酔ったアーシアが空なんか飛んだ日には、何をしでかすかわからなかった。結果的にはこれで良かったかもしれない。
「全く、いい歳して迷子になんかならないで下さいよ。誰かに聞いたりとか、一旦城に戻ったりとか、色々方法はあるじゃないですか」
「だって……。宿の名前も忘れちゃったから、探すにも探せなくて……。かと言って、もう城には戻りたくなかったし……。リシュも頼りにならないし……」
言い訳と言うか、わがままというか。子供みたいな彼女の言い分に、トマは深いため息をついた。
「僕が知ってますから、一緒に行きましょう。……ちゃんと歩けます?」
「うん」
半べそアーシアは素直に頷いた。
トマは、思う。
(こうやって、素直なら可愛いんだけどなぁ)
少し歩くと、そこに目的の宿が見えてきた。
「なんだ、ずいぶん近くだったのね」
すると、宿の入り口から知っている人物が出てくるのが見えた。
「あれは、ロシオウラ様……? いや、まさかな」
トマは思い直した。
宿に入ってすぐのこと、トマはアーシアに改まって話しかけた。
「アーシア様、実はお願いがあるんです」
「何?」
「僕、アーシア様の傍にいて思ったんです。アーシア様なら、本当にこの世界を平和に導いてくれるんじゃないかって。それで、役人として事務をせっせこやっててもなんにもならないって、そう感じてしまったんです。アーシア様を見ていて、本当にすべきことは何なんだろうって」
「それで?」
「決めたんです。僕、アーシア様の傍で、力になりたいって。だから僕をアーシア様にお仕えさせてください! 何でもやりますから」
「いいわよ」
「へ……」
あまりにあっけなく許可してくれた。とはいえ、結構酒が入っているから、一抹の不安がある。
「今日はありがとう。じゃ、私寝るから。お休み〜」
そう言い残し、アーシアはクエインの部屋に入っていってしまった。
「ホントにわかってくれたのかな」
と、トマは思った。アーシアには、いい加減というかざっくばらんなところがあることを彼は既に知っている。
「仕方ない。帰ろう」
かなり不安ではあったが、トマはこの宿を後にした。
アーシアが部屋に入ると、クエインが話しかけた。
「アーシア、どうしたのじゃ。城で一晩過ごすんじゃ……」
言い終わらないうちに、アーシアはベッドですやすやと眠りだしていた。
「やれやれ。ロクに飲めもしないのに、酒なんてやるからじゃ」
クエインはアーシアにシーツを掛けてやった。
……その日の帝都の祝勝ムードは、どんなに夜が更けても冷めることは無かった。
翌朝。
クエインとアーシアは、帰り支度をしていた。
街も普段の穏やかさを取り戻したようだ。宿の前の街路にはほとんど通行人の姿もなく、昨日の騒ぎがまるで嘘のようである。
「アーシア様、クエイン様」
そこへトマがやってきた。
「アーシア様、覚えてくれてます? 昨日の約束」
「全然。何かしら」
「ほら、僕を付き人にしてくれるって言う」
「そんな約束したかしら」
「しましたよ! 快諾してくれたじゃないですか。酔ってたから覚えてないのかもしれないですけど」
「でもおぬし、役人じゃろう。そっちの仕事はどうすんじゃ」
「そんなもの、辞めてやります」
「後悔しない?」
「しません」
「じゃあ、勝手にすれば。邪魔はしないでよ」
「はい! ありがとうございます」
トマの喜びようは半端ではない。
「ところで、おじい様、私酔ってたの?」
「それは本当じゃよ。部屋に着いたらすぐに寝てしもうた」
「ふ~ん。……まさか、私に変なことしなかったでしょうね? トマ」
アーシアの視線が冷たい。
「めめめ滅相もない!」
「なんでそこでどもるかな?」
トマからみるみる血の気が引いていった。
「ま、いいか。あなたにはそんな度胸ないものね」
「……」
「さぁ、ローセルムに帰りましょ」
何事も無い朝。
だが、これほど平和だと感じられる朝もなかった。