八
見慣れぬ天井に、はっと息を飲む。
ここは、何処なのだろうか? 全身を巡る微かな痛みと気怠さを脇に押しやりながら、リディアはこれまでのことを思い出そうと努めた。確か、兄であるラウドの遺体が首を斬られた状態で無惨にも晒されているのに激高して、守備の任に着いていた東の塔から飛び出し、塔を包囲していた新しき国の兵達を次々と屠った所までは覚えている。深手を負ったところで部下達に塔まで無理矢理連れ戻され、騎士達が立て篭る一室で魔術師から回復の魔法を受けたことも。そして、その、後は? 何故自分は、見知らぬ部屋のベッドの上に横たわっている?
「リディア様! 気付かれましたか!」
聞き知った高い声に、ゆっくりと首を動かす。小さな顔を緋色の頭巾で包んだ少女が、リディアの方へ腫れた瞳を向けているのが、見えた。この、子は。ラウドの従者だった。
「アリ」
何とか、唇を動かす。
「貴方は、無事だったのね」
リディアの小さな声に、アリはこくんと頷き、そしてうわっと泣き出した。
「良かったです、リディア様、気が付かれて。もう、このまま目覚めないのかと……」
そのアリの、頭巾が乱れて白金色の髪が垂れている頭を、リディアは軽く叩いた。そして訊きたいことを尋ねる。
「ここは、何処なの?」
リディアの問いに、アリは唇を噛んで下を向いた。
どうしたのだろう? アリの態度をリディアが訝るより先に。
「意識が戻ったのか?」
低い声が、耳を打つ。ほぼ同時に視界に入って来た人影に、リディアははっと飛び起きるなりアリを庇うようにアリと人影の間に立った。途端、全身に痛みが走る。それでも何とか、リディアは傍らのベッドを支えにして足を安定させ、目の前に立ち塞がる大柄な人影をきっと睨んだ。肩で揺れる濃い黄金色の髪、リディアを睨みつける冷たい眼光、そして全身を覆う威圧感。この場所に武器が見当たらないのが口惜しい。剣があれば、こいつの身体を叩き斬ってやるのに。ラウドの敵として。
「元気だな。塔の倉庫で見つけた時には死体と間違えそうになったが」
リディアの目の前の人物、新しき国の王である『獅子王』レーヴェは、リディアを一瞥してフンと鼻を鳴らすと、窓辺へと歩を進めた。そして手招きで、リディアを誘う。何の用が、あるのだろうか? 心の中の怒りを押さえ込み、冷静を保つよう心がけながら、リディアは身体を庇うようにゆっくりと一歩を踏み出した。鎧を付けていない獅子王レーヴェが闊歩している所を見ると、この場所は彼の拠点、おそらく新しき国の首都に建つ彼の居城の中、だろう。と、いうことは、『古き国』の騎士であるリディアもアリも、彼の捕虜ということになる。何故レーヴェ王は、『熊』騎士団の副団長であるリディアを殺さず、自身の王城内で療養させていたのだろうか? その謎は、レーヴェ王の傍らに辿り着き、窓から外を見ることですぐに解決した。
リディアの瞳に映ったのは、殺風景な中庭と、大きな切り石を運ぶ、緋色と黒の服を身に着けた男女。『古き国』の騎士であった者達だ。リディアにはすぐ、見分けがついた。
「王城の周壁を直させているところだ」
おそらくまともに食べさせてもらっていないのであろう、ふらふらと重い石を運ぶ元騎士達に胸を突かれるリディアに、獅子王レーヴェの声が残虐に響く。
「だがその作業ももう終盤だ」
「何が、言いたいのです?」
身体と心の痛みに震えつつ、横に立つ王を睨みつける。獅子王レーヴェはそのリディアの視線を軽く受け流すように口の端を上げた。
「リディア。お前が私に仕えるのなら、あの者達を解放してやっても良い」
元々、獅子王レーヴェが古き国を滅ぼす決心をしたのは、『古き国の女王が新しき国を滅ぼす』という世迷い事のような予言を信じたが故。
「だが、『古き国』の女王も、女王の血を引く者も全て、この手に掛けた」
リディアの怒りを増幅させる言葉を、レーヴェ王はいとも簡単に吐いた。
『古き国』の女王であることを証明する三種の宝物、王冠、首飾り、剣は未だ見つかってはいないが、時間と人手を掛ければその内見つけることができるだろう。とにかく、『女王』となることができる者は、既にこの世に居ないのだ。予言は成就されないとみて良い。だから、現在捕虜となっている『古き国』の騎士達を解放しても差し障りは無いだろう。王は事も無げにそう言った。
「断ったら、どうされるおつもりですか?」
できるだけ平静を装って、そう、尋ねる。リディアの問いに、レーヴェ王はふっと目を細めると、リディアを見詰めたまま言った。
「明日の朝、全員処刑する。勿論、後ろの従者も一緒だ」
リディアの後ろに立ち、リディアを支えていたアリの腕が震えるのが、分かる。それならば、自分に選択肢は、無い。
「どうする? 私のものになるか?」
王の言葉に、リディアはふっと息を吐いた。この王は、……諦めていないのだろう。レーヴェ王はかつて、ラウドにも同じことを言った。「俺のものになれ」と。それが永遠に叶わなくなったから、リディアで代用しようとしているのだろう。それが何となく、……癪に触る。だから。
「ラウドの、代わりに、ですか」
意地悪な言葉が、口をつく。リディアの言葉に、目の前の王と、背後に居るアリの腕が同時に震えたのが、分かった。
「貴方が、貴方が殺したのに!」
不意に、アリがリディアの前に出る。
「アリ!」
とっさにリディアは、アリの腕を掴み後ろへ引いた。目眩がして踏鞴を踏んだが、それでも何とか態勢を立て直す。息を吐いてから顔を上げると、王の顔が怒りに赤く染まっているのが見えた。……言い過ぎたかもしれない。後悔が、胸を噛む。
「分かりました。貴方に仕えます」
静かに、それだけ口にする。
怒りを顔に浮かべたまま、それでもレーヴェ王が頷いたことに、リディアはほっと胸を撫で下ろした。
次の日。
同じ窓から、中庭の様子を眺める。
『古き国』の騎士団の制服を没収され、代わりに支給された目立たない灰色の服を来た元騎士達が、疲れてはいるがどことなく希望に満ちた足取りで都を出て行く様が、リディアの目には羨ましく映った。
「大丈夫、ですか、リディア様?」
その横で、同じ光景を見ていたアリが、小さな声で尋ねてくる。その問いに、リディアは外を見たまま首を横に振った。
例え女王が居なくなっても、『古き国』の騎士達の職務――この場所に暮らす人々を守る為に、『悪しきモノ』を、その力と血で以て封じること――が無くなるわけではない。いや、女王の『力』が無くなった今、騎士達の職務は増えこそすれ、減ることは無いだろう。
それに。アリの方に目だけを向け、少しだけ微笑む。
「私は、ラウド様に呪いを掛けられたのです」
昨晩、他の捕虜達と共に都を去るように勧めたリディアに、アリは静かにそう言った。
自分の部下である『狼』団の騎士達を、ラウドは探索を名目に自身の許から去らせていた。そして、「どんなことがあっても絶対にラウド様の傍に居ます。死ぬ時は一緒です」と言い続けたアリを無理矢理抱き、アリにラウドの子を宿させることで、ラウドはアリを生かした。
「私は、どんなことがあっても生き抜かないといけないのです。この子と共に」
アリの本名がアリアであり、『古き国』の女王の血を引く女性であることを知っているのは、当のアリとアリを育てた義父、そしてラウドとリディアだけ。その秘密を知っていたラウドは、女王の血を残す為にアリを抱いたのだろう。そして、自分は。……アリとその子供を守ることが、ラウドから託された、使命だ。レーヴェ王も、まさか自分が目の敵とする者が都の内部に居るとは思うまい。そう思ったからこそ、リディアはアリを自分の従者として側に置くことに決めた。
頼りにし、また目標としていた兄、ラウドは既にこの世に居ない。もっとしっかりしなければ。
泣きそうになるのを堪えつつ、リディアは一人、納得するようにこくんと頷いた。
ノックに応じて扉を開けると、月の光に懐かしい顔が映る。
「ルイス!」
夜にも関わらず、リディアは思わず大声を上げた。
「しっ、姉者。夜だよ」
商人風の装いをした異父弟ルイスに嗜められて、慌てて口を押さえる。
獅子王レーヴェから拝領した屋敷は、近衛兵達が多く暮らす通りの一角にある。弟とはいえ、『古き国』の騎士であった者がリディアの屋敷に現れたと知れ渡った日には、獅子王に対する反逆だとあちこちから怒鳴られることは目に見えている。心が落ち着くよう、大きく息を吸ってから、リディアは改めて弟を見た。
「無事だったのね」
「兄者に追い出されてたからね」
「そうだったわね」
ルイスは、兄ラウドと同じ『狼』騎士団に所属していた。だから獅子王レーヴェが古き国の都を落とした時、ルイスは探索を名目に都から離れた場所にいた。
そのルイスの後ろには、ルイスの妻である従妹のミヤと、ミヤの妹であるマイラが、黒いヴェールで全身をすっぽり覆った人物を両側から支えるように立っている。もう一人は、誰だろう? リディアが訝るより先に、ルイスは「入るよ」と一声掛けて後ろの女達をリディアの屋敷に入れた。
アリが用意したランプの明かりが煌めく居間で、ミヤとマイラが支えていた人物のヴェールを剥がす。
「ロッタ!」
ヴェールの下から現れた、自身の異父妹の姿に、リディアは再び声を上げた。女王の近衛である『竜』騎士団に所属していたロッタは、都が攻められる前に逢った時よりも痩せているように見える。いや、痩せて窶れているだけではない。どこかおどおどとしているような感じがする。かつてのロッタは、物怖じしない少女だったのに。
「妊娠してる」
妹を見詰めることしかできないリディアの耳に、怒りに満ちたルイスの言葉が響く。
「強姦されたんだ」
ロッタの職務は、女王の四人の妹達を守ること。『古き国』の都が落ちる前、ロッタが女王の血を引くその四人の少女を連れて城から脱出したところまでは、リディアも報告を受けていた。だが、城から幾許も行かない林の中で、ロッタ達は新しき国の兵士達に見つかってしまったらしい。少女達は無惨に殺され、ロッタは気まぐれに犯された。ルイスが現場に到着した時には既に事が終わった後。服を破られたロッタは裸のまま、少女達の亡骸を抱え、呆然と座り込んでいたという。
「まったく、酷過ぎるぜ」
そう言って、ルイスは唇を噛む。
「兄者の、扱いも」
古き国の都の背後を守る砦をまかされていたラウドは、新しき国の戦意を削ぐ為に対峙していた騎士達を罠にかけ、大量の命を道連れにした。その報復の為か、ラウドの遺体は古き国の都を守る二つの塔の目の前に晒され、戦闘が終わった後も捨て置かれた。今でも、朽ち果てた遺体はその場所に晒されたままだという。
頬を、涙が流れるのが、分かる。解体した古き都の堀を埋める為に、都を守る為に命を散らせた騎士達の遺体を使うよう獅子王が命じたとアリから聞いた時にも、かつての部下達のことを想い、泣いてしまった。兄のことも、妹のことも、本当に酷過ぎる。
「それでも、俺達は生き抜く必要がある」
ルイスの言葉に、ふと顔を上げる。
「生き残った者として」
ルイスは決然とした顔で、リディアを見ていた。
そうだ。ルイスに向かって、こくんと頷く。幾ら王が残酷でも、リディアは王に仕え続ける必要がある。……アリを、生き残った『古き国』の騎士達を、守る為に。
「俺は、今、女王が持っていた宝物を探している」
そう言ってから、ルイスは妻であるミヤの方を見、そして再びリディアに向き直った。
「ロッタを、預かってくれないか? ミヤとマイラを付ける」
確かに、宝物を探しながらロッタの世話はできないだろう。リディアは承諾の印に頷いてみせた。この屋敷なら、アリとリディアに後三人増えても十分余裕がある。しかし、懸念が一つ。
「お義父様の所には、預けられないの?」
育ててくれた義父のことが気になり、尋ねる。
「親父には、俺の子を預かって貰っている」
ルイスとミヤには、一年ほど前に生まれた男の子がいる。都で一緒に暮らしていたのだが、新しき国が古き国に対する攻勢を強めた時に、ルイスとミヤは大陸の端を支配する辺境伯である義父に子供を預けた。その義父は、新しき国の支配に移ってからすぐに辺境伯の地位を剥奪され、今はかつての支配地だった地域の隅で静かに暮らしているという。
「親父の所にロッタを預けても良かったんだけど、まだごたごたしているから」
なるほど。それならば。
リディアはルイスに向かって、もう一度強く頷いた。
獅子王レーヴェに仕えているリディアは王の傍に居ないといけない。だから、ロッタの世話は実質、アリとミヤとマイラが家事と分担して行うことになった。
ショックが身体から抜けず呆然としたままであるロッタは、屋敷の地下室に設えられたベッドの上に座ったまま、何をされても表情一つ変えない。だが、アリが食事や身体の世話をすると、少しだけ笑うように見えるという。アリも妊娠しているから、だろうか。そのことを聞いたとき、リディアはとっさにそう思った。おそらくロッタは、アリも自分と同じ身の上だと思っているに違いない。
「何だか申し訳ない気がするのですが」
ある日、ロッタのことを相談に来たアリは、リディアにそう打ち明けた。
仕方がない。リディアはアリにそう言った。命をこの世界に留める為には、騙すことも必要だ。
「そう、ですね」
リディアの言葉に、アリがこくんと頷いたのが、切なかった。
木々が疎らに生えた草地は、冷たいほど冴え冴えとしていた。
少し、寒い。思わずマントを掻き合わせる。やはりここは、あの場所より北にあるのだ。『古き国』が懐かしくなり、リディアはそっと首を横に振った。今は、感慨に耽っているときではない。
新しき国の都の郊外に暴れ竜が出たとの知らせが入ったのは、昨日のこと。獅子王レーヴェはすぐに、自ら精鋭を率いて退治に赴くことに決めた。その精鋭に、何故かリディアも選ばれたのだ。おそらく、暴れ竜だろうがゴーレムだろうが悪霊だろうが、部下への適切な指示と自らの剣の力で全て容赦なく屠ってきた兄ラウドの『名声』故のことだろうが、かなり迷惑な話である。
「リディア殿は、ドラゴンを退治したことがおありか?」
馬を降り、馬の鞍に結びつけていた投げ槍の入った筒を下ろしているリディアに、近衛の一人が声を掛ける。彼ら近衛兵達は、何かに付けて新参者であるリディアの能力を量ろうとしている。そう、リディアには感じられた。まあ、仕方の無い面もあるだろう。かつては敵方に居た自分が、王の傍近くに仕えているのだから、彼らが疑心暗鬼に陥るのも無理はない。
「私は、ドラゴンを退治したことはありません」
だから殊更丁寧に、答える。
「それに……」
リディアがそこまで口にした、その刹那。草原に、影が落ちる。暴れ竜だ。上を向いてそれを確かめるより早く、リディアは影の落下地点へ走り、その場に居たレーヴェ王の巨体を突き飛ばした。
落下してきた暴れ竜の爪は、地面に伏せた王とリディアの身体ギリギリを通り過ぎる。竜の影が再び小さくなったのを素早く確認してから、リディアは立ち上がり、掴んだままの筒から投げ槍を取り出し構えた。黒い影を背中にこびりつかせている暴れ竜は、有翼二脚。翼と腹を狙えば、何とか。再び近付いてきた竜に向かい、リディアは冷静に細い槍を投げた。
リディアが投げた槍の幾つかが、竜の翼に当たる。バランスを崩した竜に、今が好機と何人もの近衛兵が飛びかかった。だが、翼をやられても竜は竜だ。竜が繰り出す鋭い爪と吐き出す炎に、近衛兵が次々と倒れていく。その光景に、リディアは暴言を吐くのをぐっと堪えた。竜は、一筋縄ではいかない。剣だけで倒せる相手ではないと昨日散々言った筈なのに、誰も聞いていなかったようだ。それが、……悲しい。だから。
再び、剣を構えるレーヴェ王に向かう竜の横から、その黄色い腹に剣を押し込む。次の瞬間、爪か尾に引っかかったのか、リディアの身体は弾き飛ばされ、地面に叩き付けられた。しかしそれで怯むわけにはいかない。もう一度。痛む全身を宥めると、リディアは落ちていた他人の剣を拾い、再び竜の腹にその剣を突き立てた。
今度は、剣は竜の腹深くに突き刺さる。暴れる竜にもう一度弾き飛ばされ、地面に倒れ込んだリディアの瞳に映ったのは、飛び上がった獅子王レーヴェが首尾良く竜の首を掻き切った、その力強い姿だった。
「大丈夫か?」
血の滴る剣を手にしたまま、レーヴェ王がリディアの傍に膝を付く。王の問いに、リディアは地面に倒れたまま首を横に振った。怪我は、特に問題ない。ただ、悲しいだけ。
女王の近衛が『竜』騎士団と呼ばれていたように、古き国では、『竜』は気高く神聖な動物として扱われていた。その竜を殺す事は、例え『悪しきモノ』に取り付かれていたとしても、不名誉で避けるべき事柄だった。だから兄は、「竜殺し」と言われることを酷く嫌っていた。
兄のことを思い出したからなのか、リディアの頬に涙が伝わる。
そのまま、リディアの意識は闇に呑まれた。
やけに豪勢なベッドの上で、目を覚ます。
〈ここは……?〉
全身の痛みを堪えて起き上がったリディアは、自分が下履きと胸押さえしか身に着けていないことに気付き、思わず叫び声を上げた。
「気が付いたか」
その声で、隣で眠っていた人物が身動ぎする。その人物の正体を知り、リディアは再び大声を上げた。
「あ、貴方は、じ、実の妹に……」
「その痣で分かったよ」
起き上がった獅子王レーヴェは、リディアの裸の肩を指差し、自虐の表情を浮かべた。
レーヴェ王の視線に耐えられなくなり、そっと辺りを見回す。自分の服がきれいに畳まれているのを見つけると、リディアは瞬時にそれを掴み取り、身に纏った。
次の瞬間。リディアの腕が、後ろに引かれる。一瞬のうちに、リディアの身体はレーヴェ王の下に組み敷かれていた。
「なにを」
必死で、抵抗する。だが何処を押さえられているのか、リディアがどれだけ身体を動かそうとしても、身体が全然動かない。もがくリディアの顔すぐ側に、レーヴェ王の蒼い瞳が近づいた。
「ラウド、は……」
囁かれた言葉に、はっとする。王の懸念が分かったリディアは、はっきりと口にした。
「ラウドは、私の実の兄です。同母同父の」
リディアと、兄ラウドの母は、現在のリディアと同じように、近衛の一人として先代の獅子王に仕えていた。そして、先代の獅子王に愛され、子を生した。しかし、男児を生んだ母は先代の獅子王の正室に妬まれ、お腹にリディアを宿したまま、ラウドと共に新しき国を追い出された。だから、リディアもラウドも、獅子王の血を引いている。その証が、左肩にある獅子の痣。この痣を、ラウドは心底嫌っていた。リディアを身籠もっていた母と共に王都から追い出され、義父に助けられた時までに負わざるを得なかった苦難の所為だろう。普段は毛ほどにも素振りを見せなかったが、ラウドの憎しみは、『新しき国』と異母兄である獅子王レーヴェにまで及んでいたことを、リディアは知っている。
「と、すると、私は異母弟を手に掛けたわけだな」
その言葉と共に、圧迫が外れる。唇を噛み締めるレーヴェ王に、リディアの心も悲しくなった。しかし、同情してはいけない。ラウドを残虐に扱ったのも、この王だ。
「ベッドの裏に、外に出る抜け道がある」
服を着たリディアに、レーヴェ王はそれだけ言う。
自分に背を向ける王に一礼してから、リディアは静かに王の許を去った。
ロッタは、男児を早産してすぐに亡くなった。
そしてその日の夜、リディアは王の寝室へと続く抜け道をこの前とは逆に辿っていた。
「私を、殺しに来たのか」
突然現れたリディアに、獅子王レーヴェは不敵な笑みを向ける。その笑みを総無視して、リディアはマントに包んで胸に抱えて来た、生まれたばかりのロッタの息子を王の眼前に掲げた。
「貴方ね、ロッタを犯したのは」
裸の赤子の左肩にあるのは、獅子の痣。この痣を見たとき、リディアは赤子を王に押し付けることに決めた。そこに有ったのは、怒り。王の好色は、知れ渡っている。異母妹と知らないままリディアまで犯そうとしたのだから、その程度は推して知るべし。しかし何故、まだ幼いロッタまで犯したのか。しかも、ロッタが守っていた幼い者達を殺したそのすぐ後に。王の残酷さに怒鳴りたくなるのを無理矢理押さえ込み、リディアは眠る赤子をレーヴェ王の腕に押し付けた。
「痣か。確かに、今この痣を持っているのは私だけだ」
赤子を押し付けられて、それでも昂然と、王は言葉を紡ぐ。
「しかし時期からするとラウドの子ということも有り得る」
「ラウドは、妹を犯すようなことはしません」
ラウドは、貴方と違う。軽蔑の目で王を見る。こんな奴、殴るだけ無駄だ。
リディアの気持ちに気付いたのか、王はふっと息を吐いた。
「分かった、乳母御に預けよう」
レーヴェ王を育てた乳母は、新しき国の高位の貴族の妻であり、夫婦で獅子王から信頼されている。その家に預けるのなら、赤子は大切に育てられるだろう。リディアは承諾の印にこくんと頷いた。
異父弟のルイスがリディアの許に現れたのは、アリが正常出産で女の子を産んですぐのことだった。
「アリを預かる準備ができたって、親父が」
ルイスの言葉に、頷く。一時は自分が守らねばと思い詰めてはいたが、ここはやはり敵の国。悲しいことに、今では女王の血を引く者はアリとアリの赤子しかいないのだから、味方が沢山居る場所で預かって貰った方が良いだろうし、アリも赤子も幸せだろう。
そして。
「女王の宝物も、王冠と剣が見つかった」
ルイスの次の言葉に、安堵が胸に広がるのを感じる。後は首飾りさえ見つかれば、『悪しきモノ』を封じる為の『力』が手に入る。『悪しきモノ』の所為で人々の哀しみが増えるのは、嫌だから。
「宝物が奪われないように、俺は地下に潜る。……ミヤと一緒に」
「それが良いわね」
「姉者にはマイラを置いていくよ」
従者がいないと何もできないだろう? 久しぶりに見るルイスのにやりとした笑いに、リディアも久しぶりの苦笑いを浮かべる。『熊』騎士団の副隊長だった時にも、掃除や洗濯などの家事も煩雑な事務仕事も、全て部下達に任せていたっけ。「身の回りのことくらい自分でやれよ」とラウドにはいつも呆れられていた。そのラウドには、身の回りの世話をするアリが常に付いて回っていたけれども。
楽しかった昔のことを思い出すと、胸が詰まる。
リディアは俯き、落ちかけた涙を堪えた。
刺すような風に、震える。
リディアは馬の手綱を緩めて片手で持つと、空いた片手で厚手のマントを身体の周りに巻き直した。
北西方向以外を海で囲まれた大陸の、北西部分。陸続きの隣国から嫁を娶る準備の為に馬を走らせる獅子王レーヴェの供を、リディアは幾人かの近衛兵と共に仰せつかっていた。
何故自分が。そう思いながら、ずっと前を走っている王の背を睨む。大陸の南側育ちの自分には、大陸北側は寒過ぎるというのに。しかしレーヴェ王に仕えると決めたのは自分なのだ。仕方が無い、諦めねば。でも。これまで何度繰り返したのか分からない問答を、リディアは再び繰り返した。
と。王を乗せた馬の速度が、急に遅くなる。何か有ったのだろうか? リディアが訝るより先に、レーヴェ王がリディアの隣に並んだ。
「『古き国』は、隣国と交易が有ったのか?」
大声で、王が尋ねる。そのことか。リディアはふっと息を吐くと、首を横に振った。
「支配者が女性であることを馬鹿にされたので、丁重にお引き取り願いました」
隣国と『古き国』とで、獅子王が支配する新しき国を挟み撃ちにすれば、『古き国』が滅びることは無かっただろう。だが、『古き国』の女王は、その方法を採らなかった。プライドを捨ててまで組む相手ではなかったし、『古き国』の存在理由は、大陸を支配することでは、無い。そういえば。ふと、思い出す。隣国の使者が女王を言下に愚弄した時、怒り狂う騎士達を宥めたのはラウドだった。使者を丁重に隣国まで送り返したのも。おそらく、女王を侮辱されて一番怒っていたのはラウドだった。だからこそ、ラウドは怒りを顔にも出さず、使者を隣国まで送り届けたのだろう。ある意味ラウドらしい。リディアは少しだけ微笑んだ。
「そうか」
一方、レーヴェ王はリディアの言葉を半分ほどしか聞いていない様子で俯くと、それでもいつもの通り集団の先頭を走るでもなくリディアと並んで馬を走らせた。
「まだ何か御用ですか?」
その様子を訝しく思い、思わず尋ねる。王はリディアの方を見、そして前を向いて言った。
「うむ、何というか。……実は迷っている。隣国の姫を正室に迎えて良いものだろうか、と」
王の言葉に、正直驚く。女と見れば容赦なく襲う(リディアの偏見も入っているが)好色な王が、何を躊躇っているのだろうか?
「昔は、周りの辺境伯の娘を正室として迎えていた」
新しき国も、かつては女王に心服する辺境伯の一つだった。隣国と陸続きだった為、交易や戦争を経て、「国」として大きくなってきた国なのだ。そして。初代の女王が『悪しきモノ』を封じ、この大陸に新たな国を打ち立ててからずっと、初代の女王と『血の盟約』を結ぶことで『力』を得た辺境伯はその『力』を維持する為に、辺境伯は辺境伯同士で婚姻を繰り返して来たと、義父から聞いている。と、すると。王の懸念が分かり、リディアは思わず笑い出しそうになった。王は、これまでずっと受け継がれて来た辺境伯としての『力』――その中には現在の王が纏っている威圧感やカリスマ性も含まれるであろう――を失うことが、怖いのだ。
「女王を弑したのに、昔の慣習に囚われているのですか?」
揶揄するように、尋ねる。怒るかと思ったが、王はリディアの言葉に、息を吐くように俯いた。そして何も答えない。風の音だけが、リディアの耳に響いていた。
と。風の中に微かな血の匂いを感じ、思わず手綱を引く。地平線の前に、靄のような黒いものが揺らめいている。あれは、まさか、『悪しきモノ』!
「止まって!」
風に逆らうように、叫ぶ。次の瞬間、先頭に居た近衛兵が、急激に大きくなった黒い影に馬諸共飲み込まれるのが、見えた。
「何だ?」
「ここに居て下さい!」
前に行こうとした王を制し、馬を降りる。
『悪しきモノ』だけがこんなに大きくなってここにあることが、信じられない。『悪しきモノ』を見つけ、封じるのが、『古き国』の騎士達、特に『狼』騎士団の役割だった。だが、新しき国との戦いに明け暮れていた所為で、こんな国境沿いまで流石のラウドでも手が回らなかったのだろう。そのことが、口惜しい。だから。リディアは腰の剣を抜くと、手袋を嵌めていない左腕を傷付け、流れ出た血を剣に擦り付けた。
「我が血と、剣で以て、彼らを封じる。女王よ助けたまえ」
誰にも聞かれないように、いつもの呪文を唱える。そしてリディアは、裂帛の気合いと共に『悪しきモノ』の黒い影の直中に飛び込んだ。
リディアを絶好の『餌』と見て取った影達が、次々とリディアに向かって黒い手を伸ばしてくる。その細い影を際限無く切り落としながら、リディアは封じる為の『核』を探した。有った。周りより一段と濃い、どす黒い塊に、リディアは自分の血の付いた剣を突き刺した。途端に、周りの影が無くなる。普通の草原の風景が戻って来たことに、リディアははっと息を吐いた。
次の瞬間。景色が回る。リディアの視界に、空の青が遠く映った。
おかしい。動かすことのできない自分の身体に、首を傾げる。今までは、どんな戦いでも、身体が痛くなることはあっても冷たくなることはなかった。風が冷た過ぎるからだろうか? それとも。
「リディア!」
不意に、レーヴェ王の顔が大写しになる。
「リディア、しっかりしろ!」
王がリディアの上半身を持ち上げ、抱き締めたことが、微かな温かさで分かった。
そうか。視線が移動したことで見えた、大地を濡らす黒さに、息を吐く。自分は、死ぬのだ。この地に蔓延る『悪しきモノ』をその血で封じてきた、かつての古き国の騎士達のように。それならば、構わない。薄れゆく意識の中、リディアは満足げに笑った。
唯一つ、不満があるとすれば。
……リディアを抱いて、その命が尽きることを泣いているのが、ラウドだったら良かったのに。