七
件の騎士隊長を無事に副都へ連れて帰った、その次の日。ルージャはレイから、一人でお使いを命ぜられた。行き先は、副都近郊の、少し遠いところにある村。その場所を守護する騎士隊長に手紙を届けることが、今回の任務。勿論、ルージャに異存はない。ライラを副都に置いて行くのは心配だったが。
「ライラには、本の中にある魔法の勉強をして貰う必要がある」
レイにはっきりとそう言われて、頷かざるを得ない。ルージャ自身も、闘い方とか、探索の方法とか、騎士になる為に学ばなければならないことはたくさん、ある。それを暗に指摘されたような気がして、内心面白くなかったが、……仕方がない。ルージャ自身、自分はまだまだ未熟だと思っているのだから。
村へ行く道では、幸い、何も起こらなかった。だが、副都への帰途。
「有り金全部置いてけっ!」
突然、明らかに盗賊然とした男達三人に囲まれる。利益は少なそうだが、一人なら多勢に無勢で何とかなるだろうとの判断か。バカにしている。ルージャはちっと舌を鳴らすと、目の前の男の急所を何の前触れもなく蹴り上げた。
「いてっ!」
「このっ!」
抵抗されるとは思っていなかったのか、目の前の男が尻餅をつくと同時に、両側に居た男達が短刀を閃かせ、顔を真っ赤にして一斉にルージャに向かって襲ってくる。右側からの攻撃は何とか避けたが、左側からの攻撃は避けきれず、制服の袖が広く割けた。
「つっ」
傷の痛みに、思わず呻く。だが両側にいる男達は左右を入れ替え、再びルージャに向かって襲ってきた。今度は、両方ともちゃんと避けて、後退る。男達の背後に、黒い染みが見える。『悪しきモノ』、だ。ルージャの心臓が、飛び上がる。『悪しきモノ』に対しては、今のルージャでは何もできない。とにかく逃げた方が良い。ルージャの思考はそう、告げていた。
と。
「はいはい」
不意に、ルージャの前に赤い小柄な影が立つ。
「弱い者虐めはやめようね」
「ラウド!」
ルージャの前に立ったラウドは、ルージャににこりと笑いかけるなり、三人の男達の最中に飛び込む。あっという間に、大柄な男達はラウドの剣の下で伸びていた。
「ま、こんなもんだろう」
振り向いたラウドの顔色が悪いことに、驚く。しかし。
「『悪しきモノ』の影響は、小さめだな」
そう呟きながらルージャの傍に戻ってくるラウドに、劣等感を覚えてしまう。自分は、また、ラウドに頼ってしまった。ラウドに頼らなくても、自分一人で様々なことに対処し、ライラを守るようになれる日が、来るのだろうか? 永遠に来ない気がする。
「何悄気てんだ?」
不意に、ラウドがルージャのぐしゃぐしゃの髪を更にぐしゃぐしゃにする。
「おまえが騎士見習いになって何日経つ?」
ラウドの問いに、ルージャは日にちを数えてみた。……レイに連れられて副都に来てから、まだ一月も経っていない。短い期間なのに、色々なことが有り過ぎたので長く感じてしまっていたようだ。
「そんな短い間に騎士になれるわけないだろう? 騎士になるには長い研鑽が必要だ。俺だって、見習いの頃は怒られてばっかりだった」
「本当に?」
「ああ」
ラウドの言葉は、俄には信じられない。だがラウドは、次に驚くべきことを言った。
「女王にも、一度、騎士叙任を拒否されている」
「え?」
騎士叙任の際の女王の質問に、ラウドは「新しき国に復讐したい」と答えた。それで公衆の面前で不合格を貰ってしまったのだと、ラウドは笑って、言った。
「なんで」
「俺の、左肩の痣は知っているよな」
ラウドの言葉に、こくんと頷く。ライラと同じ場所にある、ライラと同じ獅子の横顔の形をした痣のことは、忘れてはいない。
「その痣の所為で、殺したい程憎い奴が、新しき国にいる」
不意に、ラウドの声が変わる。その声の凄惨さに、ルージャは息を呑んだ。ラウドが、憎む相手とは、一体? しかしルージャの疑問に、ラウドは一切答えず話題を変えた。
「そいつが憎いことは、今も変わりはない。でも、その憎しみの所為で自分が大切に思っている者や場所を壊すわけには、いかなかったんだな」
だからラウドは、次の騎士叙任の時に「大切な人を守りたい」と答え、無事騎士叙任を受けた。
ラウドの言葉に、考え込む。女王に対するルージャの解答が、騎士として間違っていることは、分かっている。だが、それ以外の目標が、ない。父や伯父伯母を殺した犯人の見当も、未だついていないのに、それ以外の目標を、どうやって探せというのだろうか? 分からない。ルージャは首を横に振った。
そして。
「その痣を、レイも持っていることを、ラウドは知ってる?」
思い出した質問を一つ、ラウドに投げかける。
「ああ」
レイは、獅子王レーヴェの血を引くから、持っている可能性はあるだろうと思っていた。ラウドは事も無げにそう、言った。
「最初に逢った時は、そんなことは分からなかったがな」
レイも、ルージャ達と同じように、まだ見習い騎士であったころに『肝試し』として廃城に入っている。そしてそこでラウドと出会い、レイの騎士としての素質を見抜いたラウドはレイを女王の謁見の間に案内した。しかしレイは、「私は新しき国の騎士だ」といって見習い騎士の証である椿の留め金を受け取ることを拒んだらしい。レイらしい。ラウドの話に、ルージャは心の中で笑った。
そして更に、もう一つ。
「ライラの痣は、どうなんだ?」
左肩の獅子の痣が獅子王の血を引く者に表れ、そして獅子の痣を持っている者だけが新しき国の王になる資格がある。それならば、ライラにも王となる資格があり、それ故に、王位継承権を持つ他の者によって、ライラを守ろうとした父と伯父伯母は無惨にも殺されてしまったのだろうか。心の奥底にしまっていた懸念を、ルージャはラウドに問うた。
「あー、それは……」
ルージャの問いに、何故かラウドは言い淀む。
「まあ、ライラが獅子王の血を引くことは確かなんだけど」
おそらく、ルージャの住んでいた集落が襲われた原因はそうではないだろう。ラウドはゆっくりとそう、言った。現在の獅子王の息子の内二人は、殆ど原形を留めていないらしいが『獅子の痣』を持っている。副都の太守の娘であるレイとその末妹もいるので、王位に関しては女性であり、誰とも知れぬライラには何も権利は無いだろう、と。
「それよりも」
そう、前置きして、ラウドはある意味恐ろしいことをルージャに告げた。
「ライラが、『古き国』の女王の血を引いていること。それが、原因だと俺は思う」
「は、い?」
ラウドの言葉に、ぽかんと口を開けてしまう。ライラが、『古き国』の、女王の血を、引いているだって?
「その、木剣」
ルージャの驚愕には構わず、ラウドはルージャが剣帯で吊り下げている木製の剣を指差した。
「君の腰以外の何処かで見たことが無いか?」
ラウドに言われて、思い出す。確か、廃城に居た、古き国の女王の腰にあったのも、同じ形の剣。
「その木剣は、女王の『徴』である三つの宝物の内の一つだ」
女王がその『力』を発揮する為の三つの宝物、王冠、首飾り、そして剣。その三つがあって初めて、女王は『悪しきモノ』を封じる力を持つ騎士を任命することができる。ライラは確かに、この剣を持った時に光を発し、ルージャ達を殺そうとした騎士達を滅した。それが『女王の力』だと、ラウドはルージャに答えた。
「残念なことに、新しき国は予言に惑わされ、女王を殺そうとしている」
『古き国の女王が、新しき国を滅ぼす』。何時からか言われ続けている予言に従い、代々の獅子王は、元々『古き国』に仕える辺境伯の一人だったにも拘らず、『古き国』を攻め、そして併呑した。新しき国の支配者の考え方は、『古き国』が滅びた後であるルージャの時代でも変わらないだろう。そう、ラウドは言った。
「だから、ルージャ、君は、命懸けでライラを守らなければならない」
ラウドの言葉に、当たり前だというように頷く。しかしラウドは更に、冷たく思える言葉を叩き付けた。
「君の為ではない。この地に生きる人々を助ける為に、ライラを守らなければならないんだ」
『悪しきモノ』から人々を守る為に。ラウドははっきりとそう、言った。
「『悪しきモノ』とは、一体何だ?」
そのラウドに、問う。
「俺達とは違う生き物で、俺達に害を為すものを、俺達はまとめてそう、呼んでいる」
ラウドは少し考えてから、ルージャに向かってそう答えた。
この世界には、人間とは違う生き物達が多く暮らしている。そのもの達の営みは勿論、人間の営みとは違うわけだが、人間に害を為すような営みを行うもの達も、この世界には確かに存在する。それが、『悪しきモノ』。『悪しきモノ』が生じる原因は、分からない。だが、この大陸に生じていた『悪しきモノ』を、女王と『血の盟約』を結んだ辺境伯達と、女王が任命した特別な騎士達とで封じた初代女王以来、『古き国』の女王より叙任された騎士達の血と力によって『悪しきモノ』を鎮めることができることは分かっている。
「だから、古き国の騎士達っていうのは、『悪しきモノ』に対する生け贄、というか、まあ言われているほど格好良い存在じゃないってことさ」
『古き国』自体に、領土的野心は無い。新しき国が良い政治をするのであれば、『新しき国』が『古き国』に取って代わっても全然構わない。ラウドははっきりとそう、言った。但し、女王は必要。
「なるほど」
『古き国』の女王も、ラウドのような『古き国』の正式な騎士もいない現在、『悪しきモノ』から人々を守る為には、『古き国』の女王の血を引くライラが三つの宝物を得て女王となり、『悪しきモノ』を祓ったり封じたりすることができる騎士を叙任することが必要なのだ。ルージャはそう、理解した。その為に、ライラを守らなければならない。その為には、今は、ライラが女王であることを隠さないといけない。例え、自分の身が滅びても。全身が、震えるのを感じる。恐怖、だ。心に渦巻く感情を、ルージャはそう、分類した。
だから。
「ラウド」
その震えのまま、ルージャはラウドに最後の質問を投じた。
「ラウドは、その、自分の未来を知っているのか」
ルージャの問いに、ラウドはルージャを見、そして頷く。
「怖く、ないのか?」
「正直に言えば、怖い」
そう言ったラウドの顔は、先程よりも更に蒼くなっているように見えた。
「大丈夫か?」
思わずそう、尋ねる。ルージャはラウドを覗き込むように見詰めた。
「ああ」
その蒼い顔のままで、ラウドはこくんと頷く。悪いことを、聞いたかもしれない。答えは、分かり切っていた筈なのに。自分が情けなくなり、ルージャは下を向いた。
「大丈夫だよ」
そのルージャの方を、ラウドが優しく叩く。
「痛いのは、慣れてる」
最近も、戦闘中に後ろから矢を複数浴び、致命傷になる一歩手前だったし。事も無げな口調に戻ったラウドに、ルージャは再び顔を上げた。まあ、治癒の魔法を十分に使ってもらったから、大丈夫だよ。ルージャの眼前でラウドはそう言い、普通ににやりと笑った。
その笑顔に、救われる。それでも、ルージャは泣きそうになり、思わず下を向いた。
どのくらい、下を向いて歩いていただろうか。ふと、顔を上げると、ラウドの姿は既に無かった。おそらく、過去に帰ったのだろう。ラウドのように、強くなりたい。ルージャは心からそう思った。
副都の城壁が、大きく見える。辺りは既に夕方の黄色に染まっており、ルージャの周りにも、街道を急ぎ足で副都の方へと向かう商人や旅人が多くなっているのが、見える。早く帰って、ライラに今日のことを話そう。ルージャは足を速めた。
と。城壁から少しだけ離れた、木々の間に、見知った影を二つ見つける。一つはレイ。そしてもう一つは。
「ライラ!」
叫んで、走る。レイとライラの周りにいたのは、夕方の光でもはっきりと判別できる黒い影を纏った、新しき国の騎士達。『悪しきモノ』から、ライラを守らなければ。ルージャは全速力でライラと敵の間に割って入ると、相手の武器を短刀で叩き落とした。
「ルージャ!」
驚いたようなライラの叫びに、にやりとする。しかし次の瞬間。
「レイ!」
ライラの悲痛な叫びに、ルージャは思わずライラを背後に隠した。
レイが、大柄な男二人に羽交い締めに去れ、その首筋に短刀を突き付けられている。
「その娘と、この騎士を交換しろ」
そう言いながら、レイを掴んでいる男の一人が、ルージャを見て嫌な笑みを浮かべる。レイの白い首に血の筋が走ったのが、夕日の中ではっきりと、見えた。
「レイ!」
ルージャの前に出ようともがくライラを、何とか押し止める。レイも大事だか、ライラも大事だ。二人を助ける方法は。ルージャの頭脳は高速で回転を繰り返していた。
と。不意にライラが、ルージャの腰の木剣を掴んでルージャを押しのける。
「ライラ! ダメだ!」
前に出たライラに襲い掛かる男達からライラを守ろうと、ルージャはライラの腰を掴んだ。
次の瞬間。目が潰れるほどの光が、ルージャを包む。眩しさに目を閉じ、そして開くと、ルージャの腕の中でライラがぐったりしているのが見えた。そして、黒い靄を纏った男達は、一人もいない。
「ライラ!」
腕の中のライラを、強く揺さぶる。
「……ん」
すぐにライラは、眠りから目覚めるように目を開けた。
これが、女王の力。しばらく呆然としていたルージャは、しかしラウドの言葉を思い出し、はっと辺りを見回した。……大丈夫だ。気を失って地面に倒れているレイの他には、誰も居ない。ライラに潜む女王の力は、誰にも見られては、いない。
ルージャはほっと息を吐いた。
しかし、その夜。
「ルージャ!」
装備も解かずにうたた寝をしていたルージャは、ライラの怯えた声にはっとして飛び起きた。
「玄関に、騎士達がたくさん来てる!」
何時になく蒼い顔でノックもせずにルージャの部屋に入ってきたライラに頷いてから、耳を澄ます。確かに、玄関ホールの方からいがみ合う声が聞こえてきていた。何が、あったのだろうか? 嫌な予感に囚われ、ルージャはライラを背後に隠すようにして部屋を出ると、廊下を歩き、玄関ホールの吹き抜けの周りに設えられた廊下の一歩手前の壁際に陣取った。
「謀反人だの『古き国』だの、戯言はいい加減にしてくれ」
吹き抜けに反響して、レイの声が少しびりびりした調子で響く。
「こんな夜更けに、言いがかりをつけに来たのか?」
「いいえ」
レイの声に答えるのは、高慢を絵に描いたような声。顔を半分ほど出して玄関ホールを窺うと、明らかに他の騎士達よりも飾りの多い制服を身に着けた大柄な人物が、傲慢な顔をレイに向けているのが見えた。あの顔は、一度だけ街を歩いているのを見たことがある。副都周辺の警備を担う責任者である、現在の獅子王の第三王子ジェイリだと、その時誰かが言っていた。
「先程言った通りですよ。あなたが謀反人を匿っているという通報がありましてね」
謀反人? ジェイリの言葉に、思わず首を傾げる。盗賊や獰猛な動物、そして悪霊や『悪しきモノ』達は跋扈しているが、現在の獅子王に反逆し新しき国を滅ぼそうとする輩のことは聞いたことが無い。ルージャが知らないだけだろうか? だが。
「『古き国』と『新しき国』との因縁は知っておられるでしょう、レイ殿」
ジェイリの言葉に、はっとする。まさか、この男は、ラウドのことを謀反人だと言っているのだろうか? 確かに、『古き国』の騎士であるラウドは常に、『古き国』の騎士の装いをしている。その、新しき国とは異なる、緋色と黒の制服を見れば、『古き国』の騎士を装った者が新しき国を滅ぼそうと画策していると見えないこともない、と思う。ルージャはとっさにそう、考えた。『古き国』の騎士を名乗る盗賊の件もあるのだから。しかしながら。
「『古き国の女王が新しき国を滅ぼす』。この予言のことも」
続けて放たれた言葉に、冷水を浴びせられたようになる。ラウドだけでは無い。ジェイリは、『古き国』の『女王の力』を持つ者、ライラを探しに来たのだ。夕方にライラが使った『力』を見た者が、それが『女王の力』だと見抜いてしまったのだろう。とにかく、早く逃げなければ。そう思う前に、ルージャはライラの手を引っ張って廊下を走り抜けていた。
階段を降り、裏口に近い窓から外を見る。裏口には予想通り、騎士らしき影が居た。だが彼らが宿舎全体を取り囲んでいるわけではないことが、ぐるりと見回すと分かった。それならば、脱出可能。玄関と裏口の中間地点にある窓から、ルージャは辺りの様子を確かめて誰も居ないのを確認すると、ひらりと窓から外へ飛び出した。続いてライラも窓枠に足を掛ける。多少バランスを崩して窓から外へと飛び降りたライラを、ルージャは身軽に抱き締めた。
「何処へ、逃げるの?」
「城へ」
ライラの問いに、間髪を入れずに答える。古き国の廃城より他に、逃げ込める場所をルージャは思いつかなかった。
ライラの手を引き、薄い星明かりの下を早足で進む。松明やランタンは、他人の気を引くから使えない。夜目が利くことを、ルージャは感謝した。
そしてそのまま、すっかりお馴染みになった入り口に、飛び込む。次の瞬間、斜めになった床に足を取られ、ルージャとライラは一緒によろめいた。入り口傍に、斜めになった落とし穴がある。そのことを思い出したのは、穴に滑り落ち始めた時。
「ライラ!」
斜面が急過ぎて、落ちるしか無い。それでも、ライラは守らなければ。ルージャは無意識に、ライラを守るように抱き締めた。
「……ージャ? ルージャ!」
ライラの言葉に、飛び起きる。
微かに光る空間でライラがほっとした表情を浮かべているのが分かった。
「大丈夫? どこか痛いところない?」
ライラの言葉に首を横に振る。ライラ自身も、何処にも怪我をしていないようだ。そのことが、ルージャをほっとさせた。落とし穴のことを忘れていたなんて、バカ過ぎる。ルージャは自分を責めるようにふっと息を吐いた。しかしライラも自分も無事で、良かった。後は。
滑り落ちてきた斜面を、見上げる。ずっと上の方に、おそらく落とし穴の入り口であろう、小さく切り取られたような四角が見えた。
〈あの場所までは、登れない〉
斜面の急さと、出口の遠さに、諦める。他に出口は無いのか。ルージャは注意深く、ぐるりと辺りを見回した。すぐに、人一人が通り抜けられそうな亀裂を見つける。大丈夫だろうか? その隙間の向こうの、不思議な程重たげな闇に、ルージャは思わず身を震わせた。しかしながら。……この道を採るより他、無いだろう。
落ちていた小さな木切れに、チュニックの裾を細く破ったものを巻き付け、即席の松明を作る。幸いにも所持していた火打石で火を付けてから松明を隙間の向こうに差し込むと、松明は闇の中で頼りなく燃えた。空気は、大丈夫そうだ。
「行こう、ライラ」
ライラを、というより自分自身を励ますようにそう言うと、ルージャは先に立って亀裂を超えた。そしてそのまま、手を伸ばして辺りを探る。どうやらルージャとライラは、石作りの壁に囲まれた細い廊下にいるらしい。その廊下を、ライラを守るように後ろに従えて、少しずつ進む。地下らしく、辺りは少し湿っている。足下は、障害物が無いので歩き易い。問題は、廊下がすぐ、右へ曲がったり左へ曲がったりすること。十字路やT字路も当たり前のように出てくる。まるで迷路だ。出られる気がしない。不意に弱気になり、ルージャは慌てて首を横に振った。落ち着け。曲がった回数は、ルージャとライラで数えている。十字路やT字路には爪で印をつけた。戻ろうとすれば、戻れる。ルージャは立ち止まり、ゆっくりと息を吐いた。
と。
いきなりの攻撃が、横からルージャを襲う。ライラを庇うようにして何とか避けたが、ルージャの身体ギリギリを通り抜けた拳が纏っていた重さに、ルージャはびくりと身を震わせた。まさかこいつが、あの案外博学だった騎士隊長の部下の一人を全身打撲にした張本人か? 崩れた体勢を立て直しながら、ルージャは松明の外の闇を見透かすようにして相手を捜した。次の瞬間。あっけなく、ルージャの腕は、闇から伸びてきた太い腕に捕まる。松明を取り落とした腕を背中側に捻り上げられて、ルージャは痛みに大声を上げた。
「ルージャ!」
尻餅をついていたライラが、両手と足で地面を蹴って起き上がるなりルージャの後ろへ飛びかかる。だがライラがルージャの傍に来る前に、闇から伸びてきたもう片方の腕がルージャの腰にあった木剣を奪い取り、ルージャをライラの方へ投げ飛ばした。
「きゃあっ!」
ライラの悲鳴が、すぐ側で響く。
「ごめん」
ルージャに突き飛ばされるように再び床に倒れるライラの様子を確認する間も無く、ルージャは木剣を掴んだ影のような背の高い男の方へ体勢を崩したまま飛びかかった。ライラも大切だが、ライラの『力』を証明する女王の宝物、木剣を奪われるわけにはいかない。だが、ルージャのがむしゃらな攻撃は、今回も効かなかった。飛びかかったルージャの身体を、男は木剣を持っていない片腕だけで無造作に止める。そして暴れるルージャを総無視して、男はじっと手にした木剣を眺めていた。
そして。全く唐突に、男はルージャから手を離すと、木剣をルージャに返した。
「え?」
その行動に、ルージャは全く動きを止めてしまった。
「え?」
驚いたのはルージャだけではない。ルージャと同じ言葉を、男に優しく助け起こされたライラも呟く。その二人を、男はその鋭い目でじっと見つめると、二人に向かって手招きをした。
「どうする?」
ルージャの方へ近寄ってきたライラに怪我が無いことを確かめてから、男に聞こえないような小さな声で尋ねる。
「出口を、教えてくれるかもしれない」
ライラの言葉に、ルージャは同意するようにこくんと頷くと、落とした松明を拾い、ライラの手を再び掴むと男の後を見失わない程度に少し離れて付いて行った。
細い廊下を、何度か左右に曲がる。
しばらくすると、少し遠くに、明るい場所が見えた。
その明るい場所の方へ、影のような男は無言のまま進んで行く。その沈黙が重苦しくなり、ルージャは何度か声を出して息を吐いた。その度に、前を行く男がルージャを睨むが、息苦しいのだから仕方がない。
そうこうしながら辿り着いた場所は、炎とは違う色が灯るランタンに照らされた廊下と、その先にある黒っぽい扉。その扉を、男は静かに叩いた。
「何?」
すぐに、細い声が聞こえてくる。男が大きく扉を開けたので、ルージャにもすぐに、声の主が見えた。
「どうしたの、サク? こんな夜更けに?」
ルージャとライラの前方に居たのは、濃い色の髪を綺麗に切り揃えた小柄な少年。少し白っぽい光の所為か、少年の顔色は病的なまでに蒼く見えた。
「誰?」
少年は、ルージャとライラを見て、その黒曜石のような瞳を大きく見開いた。
「珍しいね。サクがお客さんを連れて来るなんて」
少年の言葉に、サクと呼ばれた男性が不意にルージャの肩を掴む。
「おい!」
ルージャの驚きには全く関与せず、サクはルージャを少年の方へ押しやると、ルージャが抵抗するより早く腰の木剣を取り上げ、少年の方へ恭しく差し出した。
「これは……」
ルージャの木剣を見詰めた少年の瞳が、再び見開かれる。少年は座っていた大きな椅子から立ち上がると、ルージャに木剣を返し、そして傍らの棚の上に載っていた簡素な箱から何やら円環のようなものを取り出した。
「これを」
そしてその、キラキラと揺らめくように見える円環を、ライラに向かって厳かに差し出す。
「被ってみて」
ライラはルージャを見てから、恐る恐る少年の手から円環を受け取り、おっかなびっくりとした調子で頭に乗せた。
次の瞬間。
「えっ」
辺りの光量が倍以上に増えた気がして、思わず目を瞬かせる。ライラ自身が、輝いているのだ。それが分かるまでにしばらく掛かった。
「やっと、見つけた」
その声と共に、光が収束する。目をぎゅっと閉じて光を追い出してから再びライラを見ると、ライラの傍で少年が円環を持ってにこりと笑っているのが、見えた。
「僕の名は、リヒト。君たちは?」
ライラを見、ルージャを見てから、少年が名乗る。
「ライラ」
「ルージャだ」
礼儀正しく、二人もそれぞれ自分の名前を名乗った。
「ライラ。君は『古き国』の『女王の力』を受け継いでいるね」
リヒトの問いに、ルージャとライラは同時に頷く。昼間ラウドが話してくれた言葉を、ルージャはライラに伝えていた。最初は驚いていたライラだが、木剣と、自身が二度行った『奇跡』のことを思い出したのだろう、最後には、ルージャに向かって頷いてくれたことを覚えている。
「そして『力』の源である『剣』と『王冠』が揃った。言い伝え通りに」
「言い伝え?」
首を傾げたルージャに、リヒトは再びにこりと笑った。
「この場所には、『古き国』の歴代の女王と騎士達の記憶と想いが眠っている」
リヒトの言葉に、辺りを見回す。この部屋の全ての壁には床から天井まで本棚が設えられており、どの棚も様々な色の背表紙で一杯だった。その本の中から、一冊をリヒトが抜き出す。
「最後の女王の言葉にある。『剣と王冠が揃う時、後継の女王が生まれる』、と」
あれ? リヒトの言葉に、違和感を覚える。確か、ルージャが見た女王は、王冠を被り、剣を剣帯で腰に佩き、そして血のように濃い赤色の宝石が嵌った首飾りをしていた、筈だ。
「首飾り? うん。女王になる為には首飾りも必要だよ」
この地に蔓延る『悪しきモノ』を封じ、初代の女王となった者の記憶を記した本にはそう書いてある。ルージャの問いに、リヒトはあっさりとそう答えた。
「でも、最後の女王は、剣と王冠だけで良いと言っている」
そこが、分からないんだけど。リヒトの声が、急に小さくなる。
「おそらく、君たちが過去に行くか誰かが過去から現れるかして、首飾りのことは何とかなるのかもしれない」
それならば、納得がいく。ルージャはこくんと頷いた。
「『悪しきモノ』を封じる為に、女王はどうしても必要だからね」
リヒトの言葉に、ルージャもライラも大きく頷く。『悪しきモノ』が憑いた所為で味方に襲い掛かる騎士、そしてついさっきまで部下だったその者を倒した、レイの震える唇。それを思い出すだけで、十分、『悪しきモノ』に対抗する為に『女王の力』が必要なことは、分かる。そして。ライラが女王であることに、ルージャは誇りを感じていた。
「あの」
不意にリヒトが、ライラに濃い赤の本を差し出す。
「新しい女王に逢ったら、ぜひ知っておいて欲しいと思っていた物語があるんです」
言葉を改めたリヒトから本を受け取ったライラの横から、本の表紙をまじまじと見詰める。革で表装された表紙には、何も書かれていない。これは一体何の本だろう? ルージャは訝しく思い、リヒトの方を見た。
「ラウドの運命は、知っていますね」
リヒトの言葉に、ライラと同時にこくんと頷く。
「これは、もう一人の『傍系獅子』、リディアの物語です」
リディア。確か、夢の中でラウドの背後に居た、背の高い断髪の女の人。
そのことを思い出す前に、ルージャの意識はすっと遠くへ、飛ばされた。