四
崖下に点在する青と白に、胸が悪くなる。
対岸に倒れているのは全て、新しき国の騎士達。敵である筈の者の遺体に無惨さを覚えるのは、彼らの命を奪った者が誰であるか、知っているからだろうか?
探索を主な任務とし、『古き国』を守る『狼』騎士団の長、ラウドは、『古き国』を支配する女王から城の背後を守る砦を守るよう命ぜられた直後、「探索」の名目で部下達全てを戦場から遠ざけた。既に大陸の殆どを新しき国に奪われ、残っている領土は女王の住まう王城とその僅かな周辺のみ。そういう状況だから、ラウドは部下達を生き延びさせる為に探索を命じたのだろう。「どうしても一緒にいる」と駄々をこねた自分以外。それは、理解できる。しかし、……『古き国』が滅びることは時間の問題であるこの時期に、このように、敵の命を大量に奪うことに、意味があるのだろうか? もう一度、崖下を見て、出て来るのは溜め息ばかり。
ラウドは、砦の対岸を守る部隊の大将がまだ若く経験不足であることを見て取るや否や、部隊所属の騎士達が補給に立ち寄る村々や商人街に「部隊の大将は小さな砦一つ落とせない無能だ」という噂を流した。そして、大将が激高し、雨降る闇夜に大軍を引き連れて、谷に掛かる吊り橋を渡ろうとしたところで、橋を支えるロープを切って敵軍を折から増水した川へ落とした。そのことは、すっぱりと切られた面を見せて微風にゆらゆらと揺れる吊り橋に残るロープを見れば容易に推測可能。しかし、その作戦を冷静に完遂したラウドは、砦にも、吊り橋の残骸の傍にも見当たらない。一体、何処へ? まさか、自分が落とした橋と一緒に川へ落ちてしまったのか?
崖下に注意しながら、走る。白と青の制服を着ている新しき国の騎士達と違い、ラウドは『古き国』の、緋色のダブレットと黒の脚絆を身に着けている筈だ。色が違うから、簡単に見つかる筈。そう考えながら早足で川が下る方向に向かうと、予想通り、対岸に赤と黒を見つけることができた。しかしその影は、微動だにもしない。まさか。不吉な予感に胸を締め付けられながら、走る。幸い、川の水は既に大分引いている。多少足が濡れるかもしれないが、川を渡るのは簡単だろう。そう思い、崖を下り切った次の瞬間。
「なっ……」
仰向けに横たわるラウドの横に、白い服の大柄な影を認め、思わず叫ぶ。その影の主、新しき国を支配する獅子王レーヴェは、ラウドを一瞥するなり腰から抜いた剣の切っ先をラウドの首筋に叩き込んだ。
溢れ出て、川の水と混じった血の赤に、息が詰まる。
そして。あまりのことに動けないまま、ルージャの意識は闇に包まれた。
はっとして、目覚める。
やっと見慣れてきた天井に、ルージャは大きく息を吐いた。
〈夢、か……〉
ゆっくりと、起き上がる。脂汗に濡れた頬を拭うと、頬に何かが流れるのを感じた。
しかし、本当に、現実味が有り過ぎる夢だった。もう一度、安堵の息を吐く。何かを振り払うように腕を動かすと、固いものがルージャの手の甲に当たった。
今日は朝から雨が降っていたので、ルージャは中庭の軒下で弓の練習をした。そして昼御飯の後に自分の部屋に戻り、レイが読むように言って半ばルージャに押し付けた新しき国に関する歴史の本を、最初はベッドに座って、そしてその内にベッドに横になって読んでいた、筈なのだが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
手に当たったその本を、取り上げる。眠りに落ちる前に読んでいたのは確か、支配力を失っていた『古き国』を滅ぼし、大陸を統一した『統一の獅子王レーヴェ』の業績の部分。そこまで思い出し、ルージャは乱暴に本を置いた。そうだ。ラウドは、……獅子王レーヴェに殺されたのだ。そして、『古き国』に仕えていた、ラウドの部屋で楽しそうにお菓子を頬張っていたあの人達、も。
「ルージャ、夕御飯だって」
不意に、ノックの音と共にライラの優しい声が耳に響く。
ライラが勝手にドアを開けない、礼儀正しい女の子で良かった。ルージャは大慌てで両の目をごしごし擦ると、無理矢理気持ちを飲み下してベッドから滑り降りた。
その晩のレイは、何時に無く苛ついているように、ルージャには見えた。
「父に、北方への遠征命令が来た」
賄いの小母さんがテーブルに並べてくれたパンを無造作に齧りながら、独り言のようにレイが言う。
「兄弟達も、連れて行くそうだ」
「あらあら」
叩き付けるようなレイの言葉に反応したのは、賄いの小母さん。
「それじゃあ、副都の守りはどうするの?」
小母さんの言葉に、レイは顔を歪めて舌打ちした。
「第三王子とやらが来るそうだ」
「副都に割と近い場所に領地を持っているからだろうな」
素行はあまり宜しくないという評判だが。ルージャの横で黙々と夕食を食べていたレイの従者である爺が、呟くようにそう付け加えた。「第三王子」と呼ばれてはいるが、王家に代々伝わる『徴』を持っていないため王位継承権を剥奪されているとも。
「全く、父上は何を考えているんだか」
レイは苦い顔でそう言うと、少し乱暴に夕食のスープに手をつけた。
レイの言葉は、理解できる。先輩である見習い騎士達が皆副都から去ってしまい、旅人の護衛や街道の治安維持などといった見習い騎士の職務をライラと二人で遂行できるのか、ルージャ自身不安なのだ。『古き国』の騎士を名乗る盗賊の件も、人に取り付き狂わせる得体の知れない黒い『影』のこともある。父と伯父伯母を無残に殺した奴らの行方についても、未だに手掛かりすら掴めていない。
「面倒なことが起こらないと良いのだが」
そのルージャの横で、爺が呟く。爺によると、レイの騎士団に所属するルージャとライラの他、レイの父が指揮権を持つ幾つかの騎士隊は、第三王子と彼に指揮権がある騎士団に副都とその周辺のことを案内するよう命じられているそうだ。副都の騎士達と、第三王子の騎士達が衝突しなければ良いのだが。爺の言葉に、徒党を組んで威張りながら都を闊歩していた騎士達の背中を思い出し、ルージャは背筋が震えるのを感じた。とにかく、ライラがごたごたに巻き込まれないようにしなければ。
「まあ、第三王子の騎士達がどのくらい仕事ができるか分からないが。……ルージャ」
不意にレイが、ルージャを見詰める。
「君の父親を殺した奴らの手掛かりが、見つかるかもしれないな」
レイの言葉に、ルージャの全身は固まった。ルージャの隣に座っているライラも、震えているのが分かる。
副都の騎士と、王都に近い場所で王に仕えている騎士とでは、制服の着こなし方や制服全体のシルエットが多少違うらしい。レイはルージャにそう、説明した。だから、副都では手掛かりすら掴めなかった敵のことが、何か掴めるかもしれないと。
「まあ、期待はしない方が良いと思うが」
それでも、何故父と伯父伯母が殺されたのかが全く分からない今のイライラする状態よりはマシになるかもしれない。ルージャはぎゅっと奥歯を噛み締めた。
だが。
「……暑い」
石の多い川原にへたり込むように座り、雲一つない秋空を睨む。ルージャの横では、ライラが青い顔で俯いていた。
レイや爺の言う通り、使えない奴らだな。イライラを込めてそう呟きながら、ルージャは振り向いて川沿いの街道を見やった。ルージャより裾の短い制服を着た、第三王子付属の騎士達は、まだ見えない。何をやっているのだろう。ルージャより大柄なくせに体力が無いのか? 考えるだけでイライラして、ルージャは手近の石を川に投げた。
第三王子が連れて来た騎士達の一隊を案内して、街道の治安維持に当たっているところである。だが、暑いだの飯が不味いだの良い女がいないだのとぐちぐち文句を言いながらだらだらと歩き、街道脇に小鬼の小集団がいても剣すら抜かない彼らに、ルージャは既に愛想を尽かしていた。挙げ句の果てにライラにちょっかいを出そうとするのだから、尚更。
ライラは、大丈夫だろうか? そっと、隣を見る。青い顔をしているのは、小鬼を倒す時に魔法を使い過ぎたからだろうか、それとも、騎士達から引き離す為にルージャが早足で引っ張ったからだろうか? ルージャがそう思った、丁度その時。
街道からの叫び声に、はっと立ち上がる。ルージャの背でも、騎士の一人が街道を走ってこちらに向かっているのが見えた。
「何かあったのかしら?」
立ち上がったライラが、ルージャの脇に立ち、魔法使い用の小さな杖を握り締める。ルージャも弓を構えると、騎士の後ろを注視した。だがすぐに、弓を短刀に変える。黒い靄のようなものが、騎士の背中で揺らめいている。逃げた方が良いか? そう考える間もなく、ルージャの目の前に、黒い影を背負った騎士が立ち塞がった。
「ルージャ!」
叫ぶライラを突き飛ばすなり、騎士の急所を蹴り上げる。ルージャの蹴りが的確だったのか、騎士は声も上げずに川原に倒れた。
「大丈夫?」
ライラの声に頷いてから、倒れている騎士を見る。「影に取り付かれたものは、殺さなければならない。さもないと他の人間を襲う」。そう言いながら、レイはさっきまで一緒に歩いていた者の身体に剣を突き刺した。自分も、そうしなければならないのだろうか? 震えが、ルージャの全身を襲った。
と。
「ルージャ!」
悲痛なライラの言葉に、はっとして顔を上げる。ルージャが逡巡している間に、他の騎士達がルージャとライラの周りを取り囲んでいた。皆、背後に黒い靄のような影を付けている。ルージャがそれを確かめるより早く、剣の切っ先がルージャの眼前を切り裂いた。
「ルージャ!」
その切っ先を、危ういところで躱す。躱しながらライラを自分の背中の方へ隠すと、先程までライラが居た空間を別の剣が薙ぐのが見えた。ルージャだけでなく、ライラも守らなければ。左腕と背中でライラを庇い、右手の短刀で自分を守りながら、ルージャは考えに考えた。しかし短刀しか使えないルージャ一人に、相手は三人。どうすれば? 解決策が思いつかない。
だが。ルージャが絶望するより早く、目の前の騎士が呻きながら倒れる。その騎士の背後に居たのは、緋色の制服の青年。
「ラウド、さん?」
ライラが青年の名前を呼ぶ前に、ラウドはライラとルージャを引き離そうとしていた騎士の脇腹を蹴り上げ川原に沈めると、最後の一人の腹に肘を入れて気を失わせていた。
ラウドの、鮮やか過ぎる手並みに、呆然とする。自分も、このくらい戦えたら。ルージャは初めてそう、思った。
「大丈夫か?」
そのルージャの目の前に、ラウドの顔が現れる。背格好といい、顔立ちといい、この間廃城で見た通り、ラウドは全く騎士には見えなかった。
「怪我は、してないな」
そしてラウドは、川原に転がった四人の騎士達を見て溜め息をついた。
「『悪しきモノ』だな」
「あしき、もの?」
ラウドの言葉を、繰り返す。そんなもの、聞いたことも無い。首を傾げるルージャには構わず、ラウドはいきなり何も身に着けていない左手甲の皮膚を噛み切ると、流れ出た血を倒れている騎士達に振りかけた。
「『古き国』の騎士の血と力で以て命じる。『悪しきモノ』よ、去れ!」
静かな声が、川原に響く。騎士達に憑いていた黒い靄のようなものがゆっくりと消え去るのを、ルージャは瞠目して見詰めていた。
「これで、良し、っと」
「ほ、本当、に?」
にっこりと笑うラウドに、尋ねる。
「ああ」
まだ『悪しきモノ』が憑いて間も無いようだから、これだけで大丈夫。気絶から覚めれば、ルージャ達を襲ったことなど綺麗さっぱり忘れているさ。ラウドは事も無げにそう言った。
「……こ、殺さなく、ても」
「『古き国』の騎士の血と力で『悪しきモノ』は祓ったから、平気さ」
後で『悪しきモノ』の本体を探し、『核』を叩いておかないといけないけれども。ラウドの言葉に、ルージャはほっと胸を撫で下ろした。
と。不意にライラが、ルージャとラウドの間に割って入る。
「ラウドさん、怪我、してる」
ラウドが身に着けている鉄の肩当てを左側だけライラが外すと、確かに、緋色のダブレットが黒く染まっているのが見えた。
「おれがやる」
ラウドのダブレットのボタンを外そうとしたライラの手を掴み、脇へ寄せる。ライラに、男性の服を脱がせるようなことはさせたくない。そう思いながら、ルージャはラウドのダブレットのボタンを半分ほど外し、左肩部分だけ脱がせた。
「……あ」
見えたものに、はっと息を呑む。ラウドの左肩にあったのは、獅子の横顔に見えるはっきりとした、痣。
「戦闘中にこっちに飛ばされて来たから、たぶん向こうでの傷だな」
傷口に手を当てて治癒の魔法を唱えるライラと、それを見守るルージャに、ラウドはそう言って笑う。しかしルージャも、そしてライラも、傷よりも痣の方を見詰めていた。
そして。
「あの」
治療が終わり、ダブレットに再び腕を通したラウドに、ライラが意を決したように口を開く。
「その、左肩の痣」
「ああ、これ。生まれた時からあるんだ。厄介な痣さ」
ラウドの言葉に舌打ちが混じったように、ルージャは感じた。
だが。
「あの、……私にもあるんです。その、同じ痣」
ライラの告白に、ラウドが改めてライラをじっと見詰める。そしていきなり、ラウドはライラをぎゅっと抱き締めた。
「きゃっ!」
「ラウド!」
戸惑うライラとルージャの声が、川原に響く。
「ごめんごめん」
ラウドはすぐにライラを放すと、照れたように頭を掻いた。
「でも、嬉しかったから」
ラウドの言葉の響きが、ルージャには奇妙に思えてならなかった。