一
衝撃で、目覚める。
「やっと起きたっ!」
夢のことでまだ混乱の最中にあるルージャをベッドから引きずり下ろしたのは、伯母。
「早く逃げるんだよっ! ライラと一緒に!」
次に入って来た伯母の言葉に、戸惑いは最高潮に達する。覚束無い足でどうにか床に立ったルージャの腕に、柔らかいものと細長いものが押し付けられた。
「ほら、ぼうっとしてないで。裏口から逃げるんだよ!」
「母様?」
ルージャと同じく叩き起こされて呆然としているらしい、従妹のライラの細い声がルージャの腕から響く。何が何だか分からないまま、ルージャはライラと共に、裏の山林に繋がる小屋の勝手口から外へと放り出された。
朝霧が、濃い。戸惑いつつ顔を上げると、目を吊り上げた伯母の顔がはっきりと見えた。……分からないけど、今は、伯母の言う通りにすべきだ。ルージャはライラと包みを抱え直すと、裸足のまま、家の裏手から続く山の中へ飛び出した。
道無き道を、ライラの手を引っ張って走る。初秋の、まだ枯れていない下草が、足裏に痛い。何処まで逃げれば良いのだろう。走りながら首を傾げたルージャは、しかし、木の根に足を取られて無様に地面に鼻をぶつけた。
「ルージャ! 大丈夫?」
ルージャの上に倒れ込んだライラが素早く身を起こし、頭を上げたルージャの横に座り込んだのが見える。戸惑いと、疲れが、ライラの顔に浮かんでいるのをルージャはすぐに認めた。
「ライラこそ、大丈夫?」
幼いころからライラは華奢で、よく熱を出して寝込んでいた。強引に手を引いて走ったのでライラの疲労はかなりのものだろう。しかしルージャの言葉に、ライラは首を横に振った。
「大丈夫。でも……」
その後は、分かっている。母のことが、心配なのだろう。ルージャは思わず、ライラの結われていない白金色の髪に手を伸ばした。何が起こったのかは分からない。だが「逃げろ」と言われたということは、ルージャやライラの命に拘わる何かが起こったということ、なのだろう。そして、ルージャの父や、ライラの父母の命が危険に曝されるような、物事が。
と。鋭い風を感じ、ライラを庇うように地面に倒れ伏す。ルージャの赤い髪ギリギリを駆け抜けた冷たいものに、ルージャは戦慄を禁じ得なかった。これは、矢、だ。
「当たらなかったか」
面白がっているような、ある意味残酷な声が、霧の向こうに響く。
「射殺すより、槍で刺し殺した方が楽しいさ」
別の声と共に、鋭い光が複数、ルージャの視界に表れた。
霧の中から出て来たのは、白い服に青黒いマントを纏った、男達。皆一様に冷たい笑みを顔に貼付け、そしてそれぞれの手には、槍あるいは剣が鋭い光を放っていた。
「ル、ルージャ……」
ライラが、ルージャをぎゅっと抱き締める。ライラを、守らなければ。そう思うルージャには、彼らの刃に対抗できる武器は、無い。ただ為す術も無く、死の刃がこちらに向かって来るのを、見ていることしかできない。ルージャはぎゅっと唇を噛み締めた。
不意にライラが、ルージャが持っていた細長い包みを握る。巻かれていた布が解け、表れた中身に、ルージャは殆ど絶望した。ただの木剣。小屋の暖炉の上の壁に掛けられていた、見た目だけは本物の剣に見える、刀身に炎のような模様が彫られた飾り物の剣ではないか。こんなものを、伯母は何故、ルージャ達に持たせたのだ? ルージャが思わず地面を殴りそうになった、次の瞬間。
「え……?」
ルージャの周りが、眩し過ぎるほどの光に包まれる。あまりの眩しさに目を閉じたルージャが、しばらくして目を開けると、ルージャの周りに居た筈の刃は全て無くなっていた。ライラが、ルージャの傍で目を閉じているだけだ。
「ライラ?」
そっと、ライラの身体を揺さぶる。恐る恐る目を開けたライラは、辺りを見回し、霧しか無いことに驚いたらしく目を見開いた。
「ルージャ。これって……どうしたの?」
「ライラこそ、何か、した?」
ルージャの問いに、ライラは首を横に振った。だが、ルージャは魔法に対する素質を持っていないが、ライラは持っている。だからルージャは、ライラが何か魔法を使って、襲って来た男達を消したのだと理解した。そして。
「戻ろう、ライラ」
力強く、立ち上がる。何故伯母が「逃げろ」と言ったのかは分からない。だが、ライラの力があれば解決できるのではないか。ルージャはそう、判断した。そして。ルージャと同じ判断をしたのであろう、ライラも、多少の戸惑いの表情を見せながら立ち上がり、手にしていた木剣を握り直した。
だが。
山道を駆け下り、住み慣れた集落に辿り着いたルージャとライラを待っていたのは、煙と静寂。
山腹を切り開いて作られた小さな畑も、ルージャが父と住んでいた藁葺きの平屋も、ライラがライラの父母と暮らしていた木造の家も、全て焼き払われていた。飼っていた家畜達も全て、首を斬られた上で焼かれており、異臭と、大量の血が、小さな空き地に渦巻いていた。そして。
「母様!」
ルージャの後ろに居た筈のライラの声に、はっとする。いつの間にかライラはルージャから離れ、ルージャの小屋の前に尻餅をついていた。そのライラの前に横たわっていたのは、かつてライラの母親だったものの、半分焼け焦げた身体。その身体からは首が切り離されており、赤黒い血が、地面を濡らしていた。
「酷いな」
見知らぬ声に、はっと振り向く。次の瞬間。ルージャは集落の入り口に表れた背の高い影に向かって、拳を振り上げながら飛び込んでいた。だが、ルージャの攻撃はすぐに、影の前に居た男に遮られる。
「何だ、お前は? ……レイ様、大丈夫ですか?」
身体を押さえる男に手足を振って抵抗しつつ、ルージャは前にいる、レイと呼ばれた背の高い影を全力で睨みつけた。
「お前達が、やったんだろっ!」
ルージャを押さえつけている男も、それを見ている背の高い影も、白い上着に濃い青のマントを身に着けている。ルージャ達を襲った、あの刃を持つ男達と同じ服装。
「何のことだ?」
レイという名の、背の高い影が、ルージャの言葉に首を横に振る。
「私達は、先程ここへ来たばかりだが」
「嘘つくなっ!」
何とか、押さえつけていた男を振り切る。ルージャはぱっと跳ね起きると、レイに飛びかかった。だが、レイの方が素早い。あっという間に、ルージャは全身を押さえつけられ、再び地面を舐めていた。今度は、身動きすら取れない。
「このっ!」
先程までルージャを押さえていた男が、ルージャの脇腹を蹴り上げる。
「止めないか」
お前の押さえつけ方が甘かったからだ。レイは静かにそう言うと、ルージャを押さえつけていた力を緩め、ルージャを地面から起き上がらせた。
「どうして、私達が犯人だと言う?」
あくまで冷静な言葉に、怒りが削がれる。ルージャは顔を上げ、小さな声で言った。
「あんた達と、同じ服を着ていた」
「なるほど」
この服は、『新しき国』と呼ばれている、この国を守る騎士達が身に着ける制服。レイはそう、口にする。
「騎士を名乗る者が、こんな酷いことをするとは」
「騎士を詐称する盗賊の仕業かもしれませんな」
レイの横に居た男の言葉に、レイはルージャに向かって頭を下げた。
「とにかく、こんな酷いことになってしまったのは、警備を怠った我々の責任だ」
その言葉に、何も言えなくなる。ルージャはレイの蒼い瞳から目を逸らすと、住み慣れた集落の残骸に目を落とした。
「レイ様」
そのルージャの視界に、もう一人の、レイ達と同じ色合いの服を身に着けた男がライラを抱えてこちらに向かって来るのが見える。
「酷いもんですよ。……ほら、もう大丈夫だよ」
男の言葉に、ライラは頷くと、ルージャの横に立ってルージャの腕をぎゅっと握り締めた。
「男性が二人と、女性が一人。皆、首を斬られて焼かれてます」
耳に入る報告に、背筋が凍る。父も、伯父も、伯母も、……殺されたのだ。
「それだけか、ここに住んでいたのは?」
レイの質問に、ルージャはようやく首を縦に振った。この場所には、ルージャとルージャの父、ライラとライラの父母。たった五人しか住んでいなかった。その倹しい場所を、壊されたのだ。悔しさに泣きたくなり、ルージャはライラをぎゅっと抱き締めた。
「酷いものだ」
再び、レイが同じ言葉を口にする。濃い金色の短い髪が、陽の光にさらさらと揺れるのが見えた。
「しかしこのままにしてはおけない」
レイは小さくそう言うと、男達に、死者を埋葬するよう言った。
二人の男達を手伝って、汚れた地面に浅い穴を掘る。その穴に、ルージャは父と伯父伯母を、切り落とされた首を胴体に並べて葬った。
涙は、出ない。心にあるのは、悔しさと怒りのみ。
「お前達、他に家族は?」
そのルージャに、レイが問う。
「いいえ」
ルージャの母は、ルージャが生まれてすぐ亡くなったと聞いている。それ以外の肉親について、ルージャの父は何も話さなかった。ライラの父と母も、ライラには親族のことを話していないらしい。だから、レイの問いに、ルージャは首を横に振ることしかできなかった。
「ならば、私のところに来ないか?」
不意にレイは、思いがけないことを言った。
「私は、見習い騎士を育てることを職務としている」
レイの傍にいる男達も、レイが鍛えている見習い騎士であるらしい。レイの言葉に、ルージャはレイと男達を見、そしてレイの傍でルージャ達を見詰めているライラを見た。この場所には、この悲しい場所には、もう、住めない。頼れる肉親も、居なくなってしまった。自分はともかく、ライラは、この人に守ってもらう方が良いかもしれない。それに。もう一度、レイの服を見、そして誓う。この人と一緒に行って、父と伯父伯母を殺したあの敵を捜そう。この人と一緒に行けば、疑いを持たれること無く父達の敵を討てるかも、しれない。
そこまで考えて、やっと気が晴れる。
「お、お願いします!」
ルージャはレイに向かって、勢い良く頭を下げた。