九
肩を叩かれる衝撃に、はっと目覚める。
「大丈夫?」
リヒトの尖った顔が、ルージャの視界に大写しになっていた。
ゆっくりと、横になっていた床の上に座る。そうだ、確かリディアという人の『物語』を体験して、そして。頬が濡れていることに気付き、ルージャは慌てて目を拭った。そうだ。ライラは? 慌てて辺りを見回す。いた。最初にリヒトが座っていた大きな椅子の腕乗せを枕にして眠っている。ルージャはほっと息を吐くと、ライラの横に座り、ライラの頬を伝う涙を自分のチュニックの裾で拭った。
「これを昇れば外に出られる」とリヒトに教えられた、螺旋階段を、ライラの手を引いてゆっくり昇る。リヒトが住まう部屋は廃城の地下にあり、いざという時には女王や騎士達が隠れられるようになっていたらしい。リヒトの言葉を、ルージャは疑問と共に聞いていた。……逃げる場所があるのに、何故、女王は逃げなかったのだろうか?
ルージャの後ろを歩くライラの足取りが、普段よりずっと遅い。リヒトに見せられたリディアという人の人生がライラの心を悲しくさせているからだろう。そう思ったから、ルージャは殊更しっかりと、ライラの手を握っていた。ルージャ自身、リディアの生き様に衝撃を受けていたのだ。但し、『悲しい』という感覚は、感じていない。リディアという女性の、強く脆い生き方に、ルージャは尊敬と、そしてもどかしさを感じていた。
しばらく昇ると、天井が低くなる。天井に手が届くようになった地点で、ルージャはライラの手を離すと、天井を両手で探り、リヒトに教えられた通り天井の窪みに椿の留め金を差し込んでから、天井に手を掛けてそっと押した。
音も無く、天井が横に滑って開く。朝近くの鮮烈な空気が、ルージャの肺に入って来た。どうやら一晩、地下に居たらしい。
用心しいしい、頭を半分だけ外に出し、辺りを探る。少しだけ明るい、誰も居ない、だだっ広い空間が、外には広がっていた。ここは、……女王の謁見の間、だ。誰も居ないなら、大丈夫。ルージャは身体を押し上げるように外へ出ると、螺旋階段を上がり切るライラに手を貸した。
と。
「来たな」
静かな声が、ルージャの耳を打つ。びくりとして振り向くと、『古き国』の女王が玉座に座り、疲れた目をルージャに向けていた。
「もうすぐ、妾を殺そうとする者達が来る」
衝撃的な言葉を、淡々と、女王は綴る。そして女王は、すっくと立ち上がると、立ち尽くすルージャの傍に滑るように歩み寄った。
「今一度、問う。ルージャ、そなたは騎士になって、何がしたい?」
女王の言葉に、考えるように俯く。父親と伯父伯母の敵を討ちたいという感情は、ルージャの中では小さくなっていた。彼らのことを大切に思う気持ちが、無くなったわけではない。だが、あの時、自分にもう少し『力』や『知恵』があれば、父親も伯父伯母も、ライラと一緒に助けることができたかもしれないと、今のルージャは思っていた。そして。これまでのことが、走馬灯のように蘇る。リディアという人も、そしてラウドも、自身に降り掛かる物事を運命として受け止め、そしてある意味『諦めて』いるようにルージャには、思えた。それが、ルージャの中のもどかしさ。だから。
「俺は、これ以上の悲しみを、作りたくない」
女王に答える、というより、自身に言い聞かせるように、そう、口にする。
ルージャの言葉に、女王は笑みを浮かべた。
「宜しい。そなたを我が騎士として認めよう」
跪くが良い。女王の言葉に操られるように、冷たい床に膝をつく。項垂れたルージャの右肩に、女王は腰の剣をぴたりと当てた。
「『古き国』の騎士として、その血と力で以て、この世界を守れ」
三度、剣で肩を叩かれる。叩かれる度に、言い知れぬ力がルージャの中に入って来るのを、ルージャは戸惑いと共に感じていた。
「立つが良い」
女王の言葉に、顔を上げる。女王はルージャに笑いかけると、今度はライラの方を見て言った。
「次の女王は、そなたじゃ」
そう言って、女王は首から重い宝石の付いた首飾りを外すと、ライラの首にその首飾りを掛けた。赤く光る首飾りを見、そして女王を見詰め、こくんと頷くライラ。そのライラの表情に決然とした表情を読み取り、ルージャははっと息を吐いた。
不意に、視界が半透明に染まる。響いてきた鎧の音に、ルージャは慌てて、傍のライラを自分の方へ引き寄せた。
白い服の上に銀色の鎧を纏った、新しき国の騎士達が次々と、女王の謁見の間に入ってくる。彼らはルージャとライラを無視し、真っ直ぐに女王の方へと向かった。
そして。金の髪を揺らした、威圧感のある巨漢が、女王の細い腕を強く掴む。そしてそのまま、巨漢が女王をバルコニーまで引き摺っていき、そこで女王の首を刎ねるのを、ルージャはライラの震えを感じながらただ呆然と見詰めて、いた。
「……終わったかい?」
足下からの声に、ふと我に帰る。
下を向くと、ルージャ達が上がってきたのと同じ螺旋階段を、リヒトが上がって来るのが見えた。
同じ朝だが、謁見の間の様子はがらりと変わっていた。先程までしっかりと壁に掛かっていたタペストリーが、今は全て破れ朽ち果てている。自分達の時代に帰ってきたのだ。ルージャはふっと息を吐いた。そしてまだ震えているライラをそっと抱き締める。
「過去のことだから、どうしようもない」
ライラを、いや自分を説得させる為に、言いたくない台詞を、吐く。ライラはルージャを見て、悲しそうに目を伏せた。
「女王になったんだね、ライラ」
そのライラに、リヒトはただ静かに、持っていた女王の王冠を渡した。
「私を、騎士に任命して欲しい」
その言葉と共に。
ライラは、どうするだろうか? そっと、ライラを見詰める。リディアやラウド、そして先代の女王のような悲しい目に遭わせたくないという理由で、拒否するだろうか。それとも。
「良いわ」
ライラはリヒトに向かって強く頷くと、ルージャに笑いかけた。
「私は大丈夫。剣を、ルージャ」
勿論、ライラが良いのなら、ルージャに異存はない。
リヒトから受け取った王冠を被り、ルージャから受け取った木剣を掴むと、ライラは跪いたリヒトに尋ねた。
「リヒト、あなたは騎士になって何がしたいの?」
「私は、全ての思いを次へ繋ぎたい」
リヒトの言葉は、澱みがなかった。
「良いわ」
ライラはこくんと頷くと、先代の女王がルージャにしたように、リヒトの右肩を木剣で三度、優しく叩いた。