後編
30分ほど歩いただろうか。
俺達は、池のある大きな公園に辿り着いた。
このエリアは閑静な住宅街で、武家屋敷みたいな高い塀に囲まれた大きな家が立ち並んでいる。
何気に医者とか、弁護士なんかが多く住んでいて、地価も高いお金持ちエリアだ。
その中の一軒の家の前で、愛美は立ち止まった。
オレンジ系の明るい茶色の高い塀に囲まれて、大きな門があった。
その表札には、オシャレなローマ字で『Kato』と書かれている。
門の鉄格子の隙間から敷地の中を覗いてみると、南フランスやスペインとかの城みたいな、あちこちからバルコニーが突起している真っ白い建築物が見えた。
これはもはや住宅とは言えないような凝りっぷりだ。
きっと、この家の住人は夏になったらハンモックを吊るして本でも読んでるに違いない。
経済格差を目の当たりにして、俺は石を投げてやりたい衝動に駆られた。
愛美は、門の鉄格子越しに屋敷の様子をじっと伺っている。
その真剣過ぎる顔は、もはやストーカーの領域に達していると言っていい。
愛美の頭の天辺を見下ろしていると、いきなりヤツは顔をグリンと上げて俺を見た。
「ここ・・・直樹君の家なの。あたし、どうしても今日直樹君に会わなくちゃ・・・彼に会いたいの!」
愛美は俺を見上げて切ない声でそう言った。
大きな瞳は潤んで、今にも涙が零れ落ちそうだ。
女の涙がメチャクチャ苦手な俺は、これ以上のメロメロ展開を阻止すべく、愛美の細い肩をバンバン叩いて空笑いしてやる。
「オッケー、オッケー!そりゃ、ドタキャンした男にリベンジはしてやりたいよな!?よし!俺はここで待っててやるから、行ってビンタの一つもかましてやれ!ただし、殺すんじゃねーぞ?いくらお前が未成年だって言っても、殺したらお前の将来に傷がつくからな」
「分かってる。康平、ここで待っててくれる?私ね、ちょっと彼に会うのかちょっと怖いんだ・・・」
愛美は縋るようなウルウル目線で、俺を見つめる。
地味で垢抜けない女子高生だと思ってた愛美が、こんな色っぽい目つきができるなんて今まで知らなかった。
何故か高鳴る胸の鼓動には気づかないように、俺はわざと乱暴に返事をする。
「ああ、いいぜ。ここで待機してるから安心して殴りに行ってこい。男になんかされそうになったら、デカい声で泣き喚いて窓から俺を呼べよ。すぐに乱入して返り討ちにしてやるからな」
「ありがとう、康平。私、勇気出して行ってくるね」
愛美は安心したようにニッコリ笑うと、門の鉄格子をグイと押すとあっさりと中に入った。
金持ちの家なのに、女子高生がひと押ししただけで簡単に開いちゃう門ってどうよ!?
と、俺は唖然としながら、カラン、コロン、と敷地の中に入ってゆく愛美の後ろ姿を見送る。
その細い後ろ姿は、夜の闇に溶けるようにだんだんと遠ざかって行った。
愛美が敷地の中に入ってから、何もする事がなくなった俺は、門の前でアホみたいに座り込んでいた。
タバコでも持ってりゃ良かったけど、生憎、タバコもケータイも愛車の中に置きっ放しだった。
俺は、コンビニにたむろう地元ヤンキーさながら、門の前で座り込んで愛美が戻って来るのを待った。
門の前で座り込んでから、30分くらいたっただろうか。
城壁の中の屋敷からは何の音もしない。
愛美は確かに玄関から家の中に入って行った筈だ。
大方、痴話喧嘩でもしてんだろうけど、あまりにの静けさに、俺は何だか胸騒ぎがしてきた。
と、同時に、尋常でなかった愛美の顔の白さが脳裏に浮かぶ。
あれは完全にイッちゃってる時の表情だ。
長年の付き合いの俺には、馴染みのある顔とも言える。
いつもは気が弱いくせに、一度切れると、あいつはぶっ飛んじゃうクセがあるんだ。
突然切れて反撃するいじめられっ子みたいに。
そう言えば、あいつが小学校の時、同じ通学団の男子がからかって愛美の上靴を取り上げた事があったっけ・・・。
確か、あの時もあいつは今みたいな真っ白い顔で、そいつに向かっていきなりカッターで切りつけた。
愛美の本気の攻撃は、躊躇う事なくそいつの二の腕にカッターを突き立て、男子が悲鳴を上げて逃げ出しても執拗に追い回した。
思い込みが激しいと言うか、愛美には確かに少し病んでる部分がある。。
その時の愛美の白い顔を急に思い出して、俺はハッとして立ち上がった。
嫌な予感は的中した。
真っ暗な外壁の中で、突如「ぎゃあああああ・・・!!!」という男の叫び声が響き渡ったのだ。
何かが起きてしまった。
俺は門の扉を乱暴に押し開くと、芝生が敷き詰められた敷地内を屋敷に向かって猛然とダッシュした。
屋敷のエントランスの前だけが、小さな外灯がついて明るい。
俺は蛾のように、暗闇の中をその光目指して走った。
「愛美!どこだああ!???」
玄関の重いドアを蹴り飛ばしながら、俺は家の中に乱入した。
一般の家庭と違う三畳くらいはありそうな広いエントランス。
正面の廊下の突き当りで、仁王立ちになっているピンクの浴衣の後ろ姿が見えた。
付き挙げられた愛美の右手に握られたものを見て、俺は蒼白になった。
どこで調達したのか、その手には刃渡り30cmくらいの出刃包丁が握られているではないか!
「ばかやろう! 愛美! その手を離せ!」
叫びながら、俺は土足のまま廊下を突進して、愛美を後ろから羽交い絞めにした。
力任せに包丁を握った右手を掴んで捻り上げると、「痛っ!」と小さく悲鳴を上げて、すんなり手を離した。
包丁は床に向かって柄から落ちると、ゴトン!と鈍い音を立てた。
羽交い絞めにしたまま、愛美を引き摺るようにその場から引き離すと、若い男が壁に張り付いて腰を抜かしている。
パーマの掛かった無造作ヘアに、女みたいな顔で、そいつは鼻水を垂らして泣いていた。
こいつが愛美を弄んですっぽかしたチャラ男だということは、一目瞭然だった。
心の傷はともかく、取り敢えず外傷はなさそうな事を確認して、俺はホッとした。
愛美が暴れないように、俺は後ろから彼女の両腕を抑えるように抱きしめて、耳元に囁いた。
「もういい。止めろ、愛美。気持ちは分かるけど、こいつを殺したって何にもならない」
「そんな事分かってる・・・それでもいいの・・・直樹君を殺したら、私も逝くから・・・」
愛美の両目から大粒の涙がぽろぽろと落ちてきて、彼女を押さえている俺の腕を濡らした。
気持ちは痛いほど分かった。
でも、俺だって、煮えくり返る思いを必死に押さえていたのだ。
「分かってるよ、愛美。もう、帰ろう? 俺がついて行ってやるから」
「・・・康平・・・うう・・・」
途端に、愛美は糸が切れたかのように、うわあああ!と泣き出した。
白い細い両手で顔を覆って、彼女は全身で俺に縋ってくる。
子供の頃みたいに、俺は愛美を抱き締めて、ポンポンと背中を叩いた。
そして、俺達の足元でへたり込んだままベソベソ泣いている男を睨みつけると、捨て台詞に言ってやった。
「これでおあいこだな、色男」
チャラ男の返事はなかったけど、こいつにリベンジする根性なんかない事は一目瞭然だった。
わあわあと泣きじゃくる愛美を引き摺るようにして屋敷を出てから、俺達は元来た道をゆっくりと歩いて戻って行った。
激しく泣きじゃくっていた愛美も、繁華街が見える頃には大分、落ち着きを取り戻し、ヒック、ヒックとしゃくり上げながら歩いていく。
その細い肩を抱き寄せたまま、俺は黙って歩き続けた。
今夜は愛美にとって、人生最悪の夜になってしまっただろう。
でも、俺は何だか、胸が温かかった。
失いかけていた大事な物が、俺の手元に戻ってきた・・・。
そんな安堵感が、俺をひどく穏やかな気持ちにさせていた。
まだ人でごった返す繁華街を、俺はゆっくりと愛美と歩いていった。
思えば、愛美と並んで一緒に歩いたのなんて、小学生の時以来だ。
このまま、ずっと歩き続けていたい。
そんな勝手な事を、俺は一人で考えていた。
「・・・康平、ごめんね」
駅前の繁華街も過ぎて、いまだにカップルで溢れる川の堤防に差し掛かった頃、愛美が突然、口を開いた。
俺の胸に顔をくっつけたまま、大きな潤んだ瞳で見上げている。
先ほどの号泣で、ツケマもマスカラも綺麗さっぱり消え去っていたが、涙に濡れた愛美の素顔は何にも増して綺麗だ。
素顔が一番綺麗なのに、どうしてわざわざブスになる為に化粧をするのか、俺には女が分からない。
鼓動が速くなったのを気取られたくなくて、俺はわざとらしくぶっきらぼうに返事をした。
「あ、ああ、気にすんな。これで気も晴れたろ?」
「うん・・・あたし、バカだった・・・最初から騙されてたの何となく気がついてたのに・・・彼が好きだったから、どうしても認めたくなかったの」
「気持ちは分かるよ。でも、まあ、これも経験じゃね? これに懲りたら、もう怖い事すんじゃねーぞ? 大体、あの包丁、どっから調達して来たんだよ?」
「別に・・・キッチンにあったの借りただけ」
「何だよ、その準備の良さは!? 全く「牡丹燈籠」じゃねーんだから・・・。これからは、喜んでお前と一緒に死んでくれるくらいの男を探すんだな」
「・・・うん」
その時、ドドドーン・・・と音がして、夜空がパアッと明るくなった。
連続して放たれる最後の打ち上げ花見に、堤防に並んだカップル達も歓声を上げる。
夏の夜空に絵の具がぶち撒けられたように、様々な色の花火が尾を引いて滝のように流れ落ちていく。
俺も愛美も、最後の足掻きのような花火の連打を呆然と眺めていた。
「・・・康平なら?」
夜空を見上げたまま、愛美が言った。
ドーンという打ち上げの音で、何を言ってるのかよく分からなくて、俺は彼女に顔を近づけた。
「何!? うるさくて聞こえねーよ」
「康平なら、あたしと一緒に逝ってくれる?って聞いたの」
にっこり笑いながら、愛美は怖い事を平然とのたまった。
花火の光に照らされた顔が、妙に白い。
・・・ヤバイ。
この顔は本気だ。
そう思った俺は、咄嗟に腹を括った。
答えなんか、ずっと昔から出ていたのだから。
「ああ、いいよ。お前が俺で良ければな」
「あたしは・・・康平じゃ嫌だな。もっとイケメンがいいもん」
「ハッ! 贅沢言うんじゃねーよ!お前みたいな病んだ女と一緒に死んでやるなんて殊勝な男、滅多にいないんだからな。顔くらい妥協しろっての!」
「・・・そうだね」
至近距離にあった愛美の顔が、花が開いたみたいな笑顔になった。
思わず見惚れた瞬間、彼女の細い両手が俺の首にスルリと巻きつくと、柔らかな唇が俺の唇に押し付けられる。
「康平・・・約束してね。あたしと一緒に逝ってくれるって・・・」
花火に照らされた愛美は光に包まれて美しかったけど、その顔は蒼白で瞳はキラキラ輝いていた。
本気の顔だ・・・。
背筋に寒いモノを感じながらも、俺は答えの代りに両腕で愛美の体をギュっと抱き締めた。
この小さな町に夏の始まりを告げる打ち上げ花火は、俺達の危うい門出を祝うかの如く、夜空いっぱいに
光り輝いた。
fin.
ここまで読んで頂きまして、ありがとうございます。
楽しんで頂けましたら幸いです。