02.儚げな女神
帰り際、屋敷の窓から垣間見えたトゥインガの姿は勇ましかった。
相変わらず威勢のいい奇声を発しながら、
前後にピョンピョン飛び跳ねる独自の素振りを繰り返し暴れている。
「ハ――ッ! ハ――ッ! 打倒オルハ――ッッ!」
端から見れば実に滑稽極まりない光景ではあるが、
本人は至極真面目なのであろう。
否応に視界に入るそれを尻目に、
鼻で笑ってからリーゲル邸を後にするオルハルトだったが、
いつまでも笑いを堪えているザッハンを顧みると、
怪訝な顔つきで見返した。
「そんなにおかしいか?
あいつの喧嘩腰は、今に始まったことじゃないだろう?」
「――いえ、可愛らしい方だなと思いまして。
王子もそうお思いだからこそ、頻繁にここを訪れるのでしょう?」
そう問われ、愛馬・ガテリスの鼻面を撫でながら、
手綱を握っていたオルハルトの動きが一瞬だけ鈍る。
「可愛い? あの見えない敵と常に戦っているけたたましい怪鳥がか?」
ザッハンは思わずブフーッと吹き出した。
その直後にトゥインガのけたたましい奇声が、壁を突き抜けこだまする。
「打倒オルハ――ッ! キエ――ッッ!」
「あのぐらいの暴れっぷりなら、万が一何かあっても――……いや、
くれぐれもリーゲル邸近辺からの監視を今後も怠るな、ザッハン」
「――はい、承知しております」
オルハルトとザッハンは、今一度リーゲル邸を振り仰いだ。
そして、ここからは見えないセッツェン城の方角を――
***
「ぐふふ。お父様には諦めたように見せかけといて、
実はぜんぜーん諦めていなかったりするのよねぇ。
まーったくお父様ったら単純なんだから。
さすがは私のお父様だわ、ありがたいことに」
かつて院長室として利用されていたという、
メレクの部屋の灯りも就寝中のため消えている。
それを見計らったトゥインガは、単独の入室を禁止されている地下貯蔵庫の、
とある奥まった一角の扉の前で手燭をかざす。
彼女はその開かずの扉を『おとぎの扉』と命名していた。
外見は常に男装の彼女も、内面は乙女然とした夢見るロマンチックな少女なのだ。
この先に、まだ見ぬおとぎの国があると信じている。妄想癖も人一倍激しい。
なかんずく、小さい頃からおとぎの国がどこかにあると信じ、
素敵な自分だけの王子様もいるのだと、その日が訪れることを心待ちにしている。
――だが、そこでふとオルハルト王子の皮肉顔が脳裏をよぎり、
トゥインガはげんなりした。
自分が熱望する理想の王子様像と、
現実に存在する王子とではかけ離れすぎていて、
あまりの落差に絶望感さえ抱く。
「いいのは顔だけで、
性格はあのとおり人を小馬鹿にするのが好きなのと無類の女好き。
殊に美女好き。救いようがないわ。
国内外を放浪し、
あまつさえ至る所で見初めた美女たちを食い荒らし……という噂だけど、
ほんっと、ろくでもないわね!」
考えるだけで沸々と怒りがこみ上げるのはもはや性分だ。
身体がそう覚えてしまった。
だから悪態をつきつつ、
その憎たらしい顔を頭の中から叩き落して即行、乙女脳へと切り替えるのだ。
「――ここを開けたら災いが降りかかるですって?
いいえ、この扉の先には私の運命の相手、
優しくて素敵な王子様が待っているのよきっと!
オルハー王子とは真逆の正反対!」
拳を握って意気込んでいると、手燭の炎が不意に揺らめいた。
心なしか場の空気も変わり、厳かで異様な雰囲気に辺りは包まれる。
(――来た……!)
今宵も『女神様』が現れた。
いつものように、白い夜着に似た衣装を身にまとう女神。
トゥインガはここで毎晩のようにその女性を待っていた。
音を立てないようゆっくりと冷たい石床に座り込むと、
『女神様観察記録』と命名した数枚の貴重な羊皮紙を抱きかかえながら、
瞬きをするのも堪えて僅かたりとも見落とすことのないよう、
両眼を大きく見開く。
手燭の弱々しい灯火の中でいっそう燦然と輝く女神の金色の髪に、
羊皮紙よりも白い面差しはどこか憂いが滲んでいた。
瞬くのも惜しいほどの美しい容姿……。
しかしその輪郭は幽霊の如くぼやけてはいるものの、
好奇心旺盛な少女はこの界隈の民が敬う、
『火の女神ジブエ』であると信じてやまなかった。
高鳴る鼓動、手に汗握る瞬間――
トゥインガは何かを話しかけたくて、でも話しかけたら消えてしまいそうで、
それが怖くていつも寡黙したまま一部始終を見守っていた。
いつかはここにある葡萄酒を嗜みながら話をしてみたい――
そんな淡い夢を抱きながら……。
女神はいつも決まって葡萄酒の置かれた地下貯蔵庫へ顕現する。
気付いたら、壁際にひっそりと佇んでいるといった風体で。
トゥインガが、
『女神様』と称する儚げな美女を初めて見たのは今から一年ほど前のことだ。
ちょうど扉に油をかけて火を放った直後のことだった。
火を司るという女神ジブエが、火に驚いて思わず出て来てくれたのだと思ったが、
一瞬見かけただけで何をするわけでもなく女神はすぐに消えてしまった。
結局、駆けつけたメレクに水をかけてもらって事なきを終えたのだったが、
幾らトゥインガが女神を見たと言ってもメレクは信じてくれなかった。
それ以降も、時々こうして女神が出現してくれるようになったが、
メレクはやはり信じないまま現在に至っている。
さしものトゥインガも最初は戸惑い畏怖さえ感じていたが、
何も害は与えてこないので今ではすっかりこの光景になじみ、
甲斐甲斐しく観察記録なるものまで付けている余裕振りだ。
薄暗い中でもきらめく黄金の髪の美神は、
ただじっと突っ立ってどこか物悲しげに宙を見つめていた。
ため息が出るほど美しい容貌をしているが、
その憂いめいた双眸と重なり合うと、
思わず息をするのも忘れてその場に固まってしまう。
いつもそうだった。
それでも暫時、類いまれなる美女の動向を窺ってしまうのはもはや癖だが、
次第にその姿は音もなく闇の中へ溶け込んでいくのだ。
何かを言いたそうにしながら……。
ただ、火を司る神にしては、発する威厳もかもし出す雰囲気も随分と大人しい。
例えば夜着に似た白い質素な衣服――を呈していたが、
それでもジブエであると少女は疑わなかった。
『バラム暦五八三年 十一月二十五日 十一の刻 地下貯蔵庫に女神現る』
『本日の素振り二百回完遂、打倒オルハー』
呪詛の如く書き殴られた前者の記録の上から、
インクを滴らせた羽ペンでトゥインガは重ね書きした。
(――そもそも女神様はどうしてここへ現れるのかしら?
きっと私に何かを伝えたいんだわ。
この扉を開けて早く入って来なさいと訴えているのかも!)
しかし、あの手この手で開けようと何度試してみても結局無駄だった。
(それに、どうしてこんなに女神様のことが気になるんだろう……)
父と違って神に祈りを捧げる行為を滅多にしない自分が、
何故こんなにも神出鬼没な女神にのめり込むのかと思い巡らせてみれば、
どこかで母や姉の面影を重ねて見ている自分がいるせいかもしれないと思い至る。
顔も声も温もりすら覚えていない、
自分が一歳とならずに天に召されてしまった母と、
幼くして天に召されたという姉の存在に。
姉は美女の誉れ高かった母に似た、
それは愛らしい娘だったと過去のことを多くは語らない父メレクはいう。
もしこの美女が女神ジブエなどではなく、母か姉の亡霊だったとしても、
母にしてはおそらく若すぎるだろうし、姉であれば年上過ぎるであろう。
美女の見た目は、二十歳を越えるか超えないかのどちらかなのだから……。
トゥインガは、鏡と向き合ってもさして綺麗だと思うこともなかったので、
自分はきっと父親似なのだと幾度もため息をついたことがある。
メレクも比較的端正な顔立ちをしている方ではあるものの、
どちらかといえば「ふにゃ」と弛緩した、
精悍さに欠ける印象の面持ちをする場合が多い。
だが自分は、そんな愛嬌にも程遠いとさえトゥインガは思う。
あまつさえ、自分の本当の両親はどこか遠い所にいて、
自分は拾われた娘ではないのかと……。
(だって、お父様のような愛嬌を、私は持ち合わせていないもの――)
自覚済みだ。
かといって直そうとも思わないのだが、
無理に作り笑いで顔が引きつってしまっては、
また王子にからかわれるのが目に見えている。
トゥインガの何かと好戦的な態度と暴言は、
主にオルハルト王子に対して見られる光景だ。
十年前に受けた屈辱とやらが、彼女の隠れていた闘志に火を点けさせたのだが、
売られた喧嘩はその目的を全うするまでタダで買い続ける勢いだ。
『オルハー』と簡略して呼ぶ人物も、
シッカ国王アンモス王と彼女以外には存在しない。
普通なら大逆罪にも匹敵する侮蔑行為だが、
それすら歓迎する王子の寛大な御心によるところが大きいといえば、
大きいのかもしれない……。
***
群雄割拠の甚だしい時代――
諸侯たちの覇権争いの中、
勇猛果敢に駆け抜けたセティーエン・ジリオス・スモンジェルダンは、
数々の熾烈な戦いで敵を一網打尽にし、
数ある領土を挙中に治めヘブル島の七割を統一、
セッツェン帝国を建国した。
その辣腕振りは、まさに時代を駆け抜ける猛者であったという。
彼の没後も、後裔らによってセティーエンの血は果てることなく続くのであるが、
その数百年後、セッツェンがスモンジェルダン家の第八代皇帝ベッガードと、
従兄弟のプロツェロワーツェス家のシッカ公爵の、
政治に対する意見の食い違いで内戦が勃発。
後に当時のシッカ公爵は、新王国シッカを興す。
そして、第十一代シッカ国王アンモスの現今――
アンモス王は、
周囲に散らばる国々との同盟『ヘブル同盟』を結ぶことに精力的だった。
彼は和平を誓い合い、このまま穏やかな日々が続くことを願う平和主義者だった。
その精神は、息子のオルハルト王子にも自然と引き継がれているはずだったが……。
シッカ城の謁見の間は、別名『石の語り部屋』とも呼び、
盗聴防止にもなる分厚い石の壁でできていた。
今ここには、
へブル島周辺各国より集まった十七ヶ国の同盟国の代表者たちが集結している。
「最大の難関、セッツェン帝国におきましては、
幾ら同盟を勧めてみたところであしらわれるのが落ちです。
このまま放っておくのがよろしいかと」
「いや、放っておけば血の気の多い一族のこと、
いつかは攻撃を仕かけて来るでしょう。
そうなる前に一触即発の今こそ、同盟参加を呼びかけてみるべきです」
アンモスは、盟友たちの意見にしばし耳をそばだてていた。
セッツェン帝国は、ほとんど情報が公にされていないいわゆる門外不出の帝国で、
先皇帝ベモンドルの死でさえ数日が過ぎてから、
人々の噂を介してようやく伝えられて来たほどだ。
そして現皇帝ガインによる恣意的な命令ともいえる、
皇帝の妹君のブローニア皇女とオルハルトとの婚約。
しかしそれは既に白紙とされて等しく、
その皇女も美女というだけで他は何一つ知らされていないのも実情。
城に招待されたこともなければ、彼女の肖像画すら送られて来た試しもない。
多くは謎だらけの閉ざされたセッツェンである。
最近になって噂されていることは、
皇女は身体が病弱で部屋からほとんど出ないということ。
何故そんなブローニア皇女と、シッカ国の王子とを婚約させるというのか。
国を乗っ取るつもりだったのか、
それとも同盟を結ぶつもりなのか未だ不明瞭であったが、
誰しもがこの政略結婚のような婚約に期待はしていなかった。
殊に、当事者のオルハルトは最初から聞く耳持たずである――