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01.打倒オルハー!



ひとくくりに束ねられた栗色の長い髪が、背中で揺れている。

チュニックとズボン、柔らかい布製の軽いブーツという、

比較的動きやすい格好をした十代半ばの少年に見まがう少女が、

手製の庭箒(にわぼうき)で玄関前の庭を掃き清めていた。


トゥインガ・リーゲル、十六歳――


両手に握っていた愛用の庭箒を。

上下反対に持ち替え上段に構えると、勝気そうな(とび)色の双眸(そうぼう)を、

風にはためく真っ白な洗濯物の一枚へ一点集中させる。

そして、目を(すが)めさせて息を吸い込むなり、

「ハァ――ッ!」と庭箒を洗濯物へと振り下ろした。

続けざまに、それまで気持ち良さそうに風に身を任せていた他の洗濯物たちにも、

「やぁっ! たぁっ!」と間断なく襲いかかっていくと、

彼女の足元はみるみるうちに、

容赦なく叩き落された哀れな犠牲者たちに埋め尽くされていく。



「ハーッ! ハーッ! 打倒オルハ――ッッ!」



物騒な言葉を発しながら、

次なる標的となった掃き集めたばかりの落ち葉の山にも、

躊躇(ちゆうちよ)なく庭箒を振り下ろし、そこかしこに葉を撒き散らす。



「……フッ、完っ璧」



最高潮にまで(たか)ぶったトゥインガの闘気と怨念も、

やがてはゆっくりと霧消してゆくが、八つ当たりを食らった枯葉たちは、

ヒラヒラというよりはヤレヤレと嘆くように再び地面へと着地した。

自己流の腕前を崇高な面持ちで自賛した少女は、

頬に張り付く栗毛を右手で優雅に振り払った。

そこへ―― 



「ああっ、今日も朝から見事な暴れっぷりに私は涙がちょちょ切れる思いだよ、

 トゥインガ。お前は掃除、洗濯、家事全般を、

 『するな、触れるな、近付くな』という『三禁』を、

 一体いつになったら覚えてくれるんだね? 

 あーあ、またこんなに落として……洗い直しじゃないか」 



ガックリ肩を落とす父親のメレク・リーゲルが、

悩みを抱えた悲劇の人物のようにまろび出て来るなり、

リーゲル家の三大禁則である『三禁』を声高に訴えた。

そして、地面に散乱した洗濯物をはたいて両腕に抱えると、

もつれる足取りで落胆しながら中庭の水場へと向かってゆく。



「いいわよ、お父様。私が責任を持って洗っておくから」


「三禁!」



即、断固拒否。

余計なことや妙な真似はするなと人差し指を突きつける彼は、

たった一言で娘の行動を牽制(けんせい)した。



「お前は十六にもなって女らしいこと一つできず、

 散らかすこと以上に荒らすことだけを上手に覚えてしまった。

 何とも情けない! 

 ……いや、私が悪いのだ。男手一つで育てたせいでな。

 だが、世間知らずなところは母親似だな。

 あれの世間知らずは筋金入りだった」



だが、そんな愚痴だけを未練がましくこぼす父親を、

黙って去らせてやる娘ではない。



「そんな甘っちょろいこと言ってられないわよお父様! 

 世の中は物騒極まりないのよ! 

 我がリーゲル邸を守るには、こんな手造りの箒なんかじゃなく、

 れっきとした剣が必要よ!

 だけど元修道院だった我が家にそんなものはないし、

 第一お父様ったら剣を持とうとも持たせようともしないじゃない! 

 そんなんじゃいつ狙われるかわかったもんじゃないわ!

 特にあのセッツェン帝国なんて不可解すぎるし、

 ただでさえ近隣諸国の情勢も不安定だってのに、

 盗賊も増加の一途(いつと)だって(もつぱ)らの噂よ。

 野菜を持って来てくれた隣り村のロビンおじさんが言ってたわ! 

 ――それにあの男たち……!」



メレクと同じ鳶色の瞳が、修道院にはそぐわない剣のように鋭く光った。

実はこのところ、

黒い外套を身にまとう見知らぬ謎の男たちがたびたび屋敷を訪れ、

メレクと話し込んでいる様子をトゥインガは見ている。

その時のメレクは常時、不機嫌な顔をしていたことも知っている。

「誰なの?」と問い質してみても、

返ってくるのは「お前が気にする必要はない」の一点張り。

彼女はそれが余計に気に食わなかった。


リーゲル親子が暮らすこのリーゲル邸は、

十七年前までエルード女子修道院として使われていた建物だった。

マーラ院長より譲り受けた修道院の居住部分を、

数少ない周辺住民に協力してもらいながら修復もしている。

中にはどこの馬の骨とも知らないリーゲル家の人間を、

偏見のまなざしで嫌煙し続けている者も少なからずいたが、

おおむね村人たちにはよくしてもらっていた。

しかし――、元々身体が丈夫な方ではなかったメレクの妻ゾリーヌは、

トゥインガを産んだ僅か一年後に出産が元でこの世を去っている。



「私は平和主義者だからね。剣は持たないことにしてある」


「はん! 平和主義者だなんて、逃げているだけの口実にしか聞こえないわ!」



それを聞いたメレクは、思わず唇を引き結ぶ。



(確かに自分は逃げている。昔も今も――……)



両親の過去のことを何も知らない娘に言い諭されて、

よほど的を射ていたのか突然黙り込むと、

彼は一度遠い目をしてからおもむろに目を伏せた。

だが、横目で暗い影を落とすメレクを見ていたトゥインガは、

すげなく次の話題へと転じさせる。



「――それにこの頃、

 『憎っくきあいつ』もよく来るし……よっぽど暇なのね、きっと!」



『憎っくきあいつ』と出会ってはや十年。

当時を思い起こすのも忌々しい、

悪戯(いたずら)な笑みを浮かべる二十歳の青年の姿を脳裏に甦らせたトゥインガは、

冷ややかな目つきでゴミを払い落とすかのようにペッと振り払うと、

軽く舌打ちしてから策を(ろう)した。



「全くどいつもこいつも、この質素なリーゲル邸の何が狙いなんだか。

 だからお父様みたいに平和主義だの唱えて、

 のほほんとなんかしてられないのよ! 

 歩哨(ほしよう)みたいに常に私が守り固めていないと――あっ……!」



庭箒を片手でブンッと大きく振り回し、

その反動で手から滑り落ちた箒の柄が見事に彼女の足の上に落下する。



「いったぁ~……! あんたまで喧嘩売る気!? 折られたいの!?」



つい、罪のない庭箒にも暴言を吐き捨ててしまう。

食い下がる(すべ)を知らない問答無用の少女に、

片目を押し上げたメレクがすかさず訊き返す。



「前々から()いてみたかったんだが……、

 『打倒オルハー』ってのは一体何なんだね? 彼は誠実で親切な――」


「お父様の目は腐ってるの!? あれのどこが誠実で親切だっていうの!? 

 万年、諸国を勝手気ままに放浪して、関係を持った女は千人以上、

 隠し子は三十人以上はいるって話じゃない!」


「一体どこからそんな根も葉もない噂を……。

 『あれ』って、彼は仮にもシッカ国の王子様だよ」


「ただの女たらしよ! 隣り村のエニスおばさんも言ってたわ!」



うろんげな面持ちのメレクは、

フゥー……とやり切れない長嘆息(ちようたんそく)を大仰に漏らすと、

「おお……、ジブエの御加護がありますように」と指で炎の形を切りながら、

血気盛んな噂好きの娘の平和を切に祈った。




***




すっかり害してしまった気分を払拭(ふつしよく)するためにも、

トゥインガは丸型の古い門扉をギイィ……ときしませながら両手で開けて、

そこから見晴らせる広大で殺風景な、

荒れた土地――雑草が伸び放題の葡萄畑跡を眺めやった。



「やっぱり自然は偉大ね。う~ん……」



ここで深呼吸をしながら伸びをすると、

(わずら)わしい王子のことも忘れられ、

実に清々(すがすが)しい気持ちになれる。

シッカ国に近いとはいえ、ここはセッツェン帝国の辺境領地。

今や帝国領というには不鮮明で、

警護も許可も必要とされていない無法地帯ではあるが、

ひとたび山谷に入り込むものならば野盗に襲われ兼ねない物騒な一帯でもあった。

見放されているため、

代わりにシッカ国がこの辺りを見守ってくれているのが実情だ。 

シッカ国もかつては帝国領に含まれており、

初代シッカ国王も帝国に仕える一公爵に過ぎなかった。

何世紀も前に既に見放されて久しいこの土地と、

火の女神ジブエを祀るエルード女子修道院は、

セッツェン帝国歴代皇帝を輩出してきたスモンジェルダン派の修道院として、

建設されたものだ。

今では帝国と一切関係も絶っている閉鎖された修道院。

目下、数える程度しか入ったことのない礼拝堂にとんと興味がないトゥインガは、

未だ見ぬ本当にいるのかもわからない女神自体には興味を示していた。

伝説では、ジブエが降り立った場所に当修道院礼拝堂が建てられたのだと、

村人から聞いているが……。


そんな折、彼女の視界にとある人影が飛び込んできた。



(――ムッ! 来たわね女の敵!)



噂をすれば何とやら。

トゥインガは手前に伸びる一本道の先へ視線を転じさせる。

こちらへ向かって来る馬は二頭見えたが、

途端彼女は晴れやかだった面を刹那(せつな)に曇らせ、

先頭を駆ける馬上の男を睨み据えた。

すかさずきびすを返したトゥインガは、

朽ちかけた門扉を豪快な音をとどろかせながら締め切って颯爽と錠を下ろす。

だがこの御時世、無用心この上ないことに錠前はだいぶ前から壊れていた。

しかも、

こちらへ向かって来る二頭の馬の蹄の音に洗濯を終えたメレクが目ざとく感付いて、

すぐさま門扉(もんぴ)を開け彼らを出迎えようと門前に出てしまう。

諦めたトゥインガは、仕方なしに覚悟を決めた。



(――今日こそとっちめてやるわ)



ギュッと庭箒を握り締めながら、彼らが来るのを門の陰から待ち構える。



「メレク殿、今朝もリーゲル邸は賑やかだな」



白馬が眼前で止まるなり、

陽の下で黄金の髪を強く照らす甘い顔立ちの青年が手綱を引きながら告げた。

彼の背後には、葦毛の馬に(またが)ったお付きの従者ザッハンもいる。



「これはオルハルト王子。ご機嫌麗しゅうございます」



オルハルト・プロツェロワ―ツェス・キングス・シッカは、

第十一代シッカ国王アンモスの嫡子(ちやくし)にして、

次代の王に投ぜられるであろう第一王子。

「城にいたくない。王位継承権も欲しけりゃくれてやる」が口癖の、

臣下も冷や汗ものの迷惑極まりない王子は、

各地を気ままに放浪するのが趣味だった。

今回もその一環でここへ赴いたのだろう。

トゥインガより四つ年上の夏の(そら)よりも(あお)い瞳が、

門の陰に隠れたつもりでいる少年と見まがう少女をチラと見据えた。

ギョッと目を()いたトゥインガは更に陰へと身を隠した。



(――まさか、さっきの気合が聞こえていたっていうの? 何て地獄耳!)



すると突然、「ハッハッハー」と笑い声を上げたメレクが、

苦しい言い訳を取り繕い始める。



「きっと自然豊かな僻地ゆえ、

 稀有(けう)な怪鳥がけたたましく鳴いていたのでしょう」 


「ほぉ? 随分と元気な怪鳥がいるものだ。

 数ケル先からでも、

 あの豪快な声が響いていたが……その稀有な怪鳥とやらはどこに?」


「キエ――ッ! 誰が稀有な怪鳥よ! 

 お父様……じゃなかった、オルハー王子覚悟――ッッ!」



やぶからぼうに出て来た箒を、

オルハルトは何食わぬ顔で白馬ごと身を交わした。



「トゥインガ……」



片手で顔を覆ったメレクは、首を左右に振りながらため息を漏らす。

「王子様に向かって何と言う口の利き方を!」という無駄な言葉は、

もはや口にしようとすらしないが……。

王子を王子とも思わず威嚇(いかく)する彼女も彼女だったが、

それを全く意に介さない王子も王子。

(いと)わないどころか、逆に楽しんでいるのだから取りつく島もない。



「くっ! 逃げるのだけは素早い。ええい、素直に殴られなさいよ!」



白馬の王子を見上げ、庭箒を何度も振り落としながら挑発行為に躍り出る。

それを楽しげにヒョイヒョイと身を交わすオルハルト。



「ハハハ。これはこれは想像以上に乱暴な怪鳥だな」


「私はお父様とは違うの! 屈辱には屈辱を!」


「屈辱……? ああ、十年前のあの件か。ほんっと根深い奴だな」


「問答無用!」



不意にトゥインガの『殺意』という闘気が業火の如くみなぎった。



「こ、これトゥインガ! 暴れるのも大概にしなさい!」


「なぁに、構わんさ。最近運動不足だったからちょうどいい」



オルハルトは馬上から降りるなり、両手を広げてトゥインガににじり寄る。

先ほどよりも力を込めて庭箒を前に身構える彼女は、

唸りながら王子を()めつけた。



「――ホラ、どうした? 怖気(おじけ)付いたか? 早く俺を倒せ」


「言われなくても! ハァ――ッ! やぁっ! たぁっ!」



案の定、ヒョイヒョイと交わされ一撃も命中しない。

メレクは愕然(がくぜん)とし、従者ザッハンは複雑な笑みを浮かべ、

見世物と化した二人の――(いな)、少女の行く末を危惧(きぐ)する。



「こんのっ……、

 ネズミみたいにチョロチョロと逃げ回ってばかりいないで、

 反撃して来たらどうなのっ!」



ハァハァと息の上がる少女の呼吸が乱れている。



「俺は平和主義者なんでね。物騒な真似はしない」


「はん! そんなのはお父様だけで充分よ!」


「それに弱い者いじめも好まないしな」


「だ、誰が弱いってのよ! ゴチャゴチャ言ってないで、さっさと攻めて来なさいよ!」


「――そんなに攻めて来てほしいってんなら……」  



意表を()いて急接近する王子に彼女は慌てて箒を振り落とす。

が、パシッと無造作に片手で受け止められて、

トゥインガは腰を一気に引き寄せられた。



「……ひっ!」



萎縮(いしゆく)し、咄嗟に逃げようと彼の身体を両手で何度も押し返そうとするも、

予想外の膂力(りよりよく)に彼女の逃げ場はなかった。

顔中に朱を散らせ、一通り暴れるがそれでも自由は手に入らない。



(こいつに拘束されるなんて、不覚……!)



「――さ、三禁!」


「三禁? 何だそりゃ?」


「するな、触れるな、近付くなっ! 

 リーゲル家の三大禁則という(おきて)よ!」


「ふーん……。するって、何を?」



昊色の双眸に間近で見つめられて、

身を強張らせた少女は必要以上に狼狽(ろうばい)した。



「――しっ、知らないわよっ! そんなの、あんたの出方次第でしょ!」


「ま、俺はリーゲル家の人間じゃないから、その掟は無効だ」


「ええい、放せ馬鹿王子! これのどこが物騒な真似はしない、よ! 

 この嘘つき! 天性の女たらし!」


「攻めて来てほしいんだろ?」


「うっ……!」



笑みを浮かべるオルハルトは、

トゥインガの(おとがい)に右手をあてがうと、クイと上へ向かせた。



「いつになったらこの俺を倒せる日が来るやら。老後の楽しみだな」


「老後ですって!? 次よ次! あんたを打ち負かすのは今度勝負した時! 

 帰ったら念入りな遺言状でもしたためてなさい!」



挑発的な罵詈雑言(ばりぞうごん)に王子は口端をつり上げた。

()しくも、『打倒オルハー』を高らかに宣告してかれこれ十年。

今なお、その誓願は成就されていない。

ふとトゥインガは、体勢を低くして彼の急所に膝蹴りを食らわそうとしたが、



「――おっと、危ない」



刹那に彼が跳び退(すさ)って、

軽い口笛を吹きながら彼女の身体をようやく解放した。

自由を掴んだ少女は、避難のためか屋敷の中へと直行すると、

それから出て来る気配は二度と訪れなかった。

ヤレヤレとため息を漏らすメレクは、娘の失態を困惑気味に詫びるが、

しかし王子は「いつもの挨拶、愛情表現だ」と言ってまるで気にする様子もない。



「――それはそうとオルハルト王子。本日はどのようなご用向きでしょうか?」



急に襟を正したメレクは話を切り替えた。



「ああ、今日は噂に名高い修道院の醸造所を見てみたいと思って寄ってみたんだ。

 もし迷惑でなければ、案内してもらっても構わないか?」


「迷惑だなんて滅相もございません。

 案内というほどの説明もできませんが、それでもよろしければどうぞお入り下さい」



メレクは二人の乗って来た馬の手綱を道端の木に繋ぐと、

母屋の玄関間の隅に置いてある離れの鍵と手燭(てしよく)を手にして、

王子と従者を中へと案内し始めた。

そこは醸造所という名の地下貯蔵庫で、

かつて修道女たちが葡萄酒をこしらえていた場所である。

メレクは重々しい木の扉を開けて階段を降りていくと、

中扉を開けて客人である二人を招き入れた。

壁に(ほどこ)された小さな穴、

そこに置かれた蝋燭(ろうそく)へ次々火を(とも)していくと、

薄暗かった貯蔵庫が(ほの)かな温かい色へと染まりゆく。



「ほぅ、ここが……」



幾つかの(から)の瓶や樽が目に付くが、

古くはセッツェン帝国や領主にも献上されていた葡萄酒だ。

コルクで密封されたままの置き去りにされた年代物の紅い葡萄酒が整然と並んでいた。

ここ数年ではシッカ城にも納められていたが、

ありがたくもその代金――

寄付金でリーゲル家は食い繋いでいると言っても過言ではない。

閉鎖された修道院の廃棄された代物に、

代金をもらい受けるのを恐縮に感じるメレクだったが、

そこに暮らす者たちや女神の恩恵の葡萄酒を粗末にはできないと、

心の広いシッカ国王アンモスが取り計らった(よし)

実際にオルハルトがここへ入るのは初めてだったが、

とりわけ珍しいわけでもないどこにでもあるような、

天井の低いひんやりとした石壁と医床の地下室だった。

しかし、(くま)なく辺りに視線を(すべ)らせるオルハルトが気になったのは、

これまた何の変哲もない一枚の小さな扉。

物置きか何かに利用されているのであろうが、そこはすすけていて、

だからなのか妙に気になって仕方がない異質な一角であった。



「あの扉は何だ?」



開けたばかりの葡萄酒をグラスに注でいたメレクの手が一瞬止まる。

それまで(ほが)らかだった彼の声音も、

凍り付いたようにたどたどしい口調へと変わる。



「あ、あれは……『開かずの扉』ですよ。

 女神ジブエの許しがない限り、開くことはないといわれております」


「開かずの扉? 女神ジブエの許しだと?」


「はい。でも伝説に過ぎません。

 単に鍵が錆びたか壊れているかで、中もきっとただの物置きでしょう」


「ふーん……それにしても、やけに気になるな」


「気になさられるような代物(しろもの)ではございませんよ。

 まぁ、うちのトゥインガが何度も入ろうとして蹴ったり叩いたり、

 挙句の果てには油をかけて燃やそうとしたことはございましたがね、

 結局隙間ほども開きませんでした。

 ヤレヤレ、あの時は火事寸前でどうなることかと……」



一部が焦げているのはそのせいかと得心がいく。

と同時に、父親の心労が切々と伝わったのか、

王子と従者は苦く笑って肩をすくめてみせた。



「近頃はようやく諦めが付いたようですが、

 昔は幾ら言い聞かせてみてもあの気性ですから、

 言うことをまず聞いてくれない困った子でした……ああ、嘆かわしい!」



つとメレクは、上衣の内側から木綿の手巾を取り出して目尻に押しあてる。



「――あのわがまま振りが目に見えるようだな」


「ええ。アンモス王のご心痛も察し致します」


「……ザッハン、どういう意味だそれは? 

 似た者同士だと言いたいのか? 俺へのあてつけか?」


「いいえ。王子の幻聴でしょう。ここはいろんな音が反響しますからね」



横から涼しげな顔で茶々を入れるザッハンに、

腕を組みながら佇立(ちよりつ)していたオルハルトは、

眉根を寄せて従者を一瞥(いちべつ)した。 



「あれも小さい頃は、可愛らしいフリルの付いたドレスを着ては、

 『お父様、大好き』とよくほっぺたにキスをしてくれたり、

 女の子らしく花を愛でたりしては、

 『お父様、どうぞ』と可憐な花をくれたりしたものですが、

 今となっては……ああ、これ以上深く考えるのはよしましょう」


彼らの話が微塵も耳に入っていない独り言に忙しいメレクは、

力んだり遠い目をしたりを繰り返す絶望と落胆のため息を長々と吐き出す。

しかし唐突に顔を上げて王子に真摯な瞳を投げかけると――



「――時に王子、私から折り入って重要なお話があるのですが……」



トゥインガが引き継いだ鳶色の双眸に、

息を潜めたオルハルトの昊色の瞳が射抜かれた。







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