13.裏切りと解放
城の大広間では、
辛辣な笑みを浮かべる皇帝ガインと魔法師シグネシェンが、
冷えた床に座す拉致した獲物を蔑んだ目で見下していた。
「――無様なものだな、シッカ国のアンモスよ……」
アンモス王は平静を装っていたが、胸中は怒りに満ち溢れていた。
王の背後には王妃、それに臣下たちが固まって寄り添いながら、
絶望に打ちひしがれていた。
初めて目にする恐ろしいまでの鉄の仮面の皇帝と、
常時冷笑し続ける魔法師に怒りを孕んだ目を向けるが、
目がかち合えば何をされるかわからないのでそれとなく視線をそらす。
圧倒的な威圧感に、誰もが畏怖していた。
「一体、何が目的だ? ガイン皇帝、それに魔法師殿」
低く落ち着いた、
だが今までに聞いたことのない王の感情を押し殺した重圧的な声が発せられる。
「フッ。王の好きな同盟とやらを結んでやろうか……?
我が下僕としての同盟をな」
腐すガインの卑劣な笑い声がこだまする。
「な、何たる無礼極まりない皇帝だ。
それが皇帝の口にするお言葉だとは、帝国の先も短いようですな!」
シッカの重臣の一人の口から、
我慢ならずに思わず罵倒が飛び出てしまった。
皇帝と魔法師がそれを見逃すはずもない。
シグネシェンの右腕が、重臣に向って振り落とされた。
「ぎぃやぁあああ――っ!」
彼の身体に突然激しい炎が発火し、
周りから悲鳴が上がる中を転がり出て苦悶に喘ぐ。
「うるさいネズミだ」
シグネシェンはもう一度手を開いてギュッと強く握り締めると、
業火に包まれる男をこの場から消滅させた。
「――!」
誰もが目を見開くが、
恐ろしさのあまりに悲鳴さえも喉で詰まらせていた。
***
セッツェン城にはシグネシェンの制御魔法がかかっているらしく、
ルフィネリアンとセシリージェンの魔法の効力も半減されてしまうと、
二人の小さな魔法師は言う。
それでも彼らの魔法は大きな力となって、オルハルトたちの援護をしてくれていた。
だが――、正面の南門から入り込もうと目の前まで行くと、
セッツッェンの兵士に混じって、
何も告げずにいなくなったアルディが、無表情で目前に立っているのが見えた。
「アルディ……? 何で、そんな所に……」
彼はすっかり失念した朴念仁のように、
黙して何も答えなかった。
さながら初めから縁も所縁もない、無愛想な赤の他人のように。
「お前、まさか――」
オルハルトは嫌悪を湛えた表情を露わにした。
「何もアルディオスだけが間者だったわけではないぞ?」
「アルディオス……?」
それがアルディの本名であると、オルハルトもレッグドも初めて知る。
「ザッハンも我々が送り込んだ間者だったのだ。
まぁ奴は捨て駒に過ぎなかったんだが、
何年も王子のそばにつき従うことが相叶った。
それだけは心外な手柄だったがな」
「――ザッハンもだと!?」
レッグドも愕然とするが、
何よりオルハルトが無言のままでいたことを横目で案じる。
「ザッハンとアルディオスが持ち込んだ情報は、なかなか役に立った。
オルハルト王子の戦うことを好まないめでたい性格には、
ほとほと呆れてしまったがな」
低く唸るレッグドは気が動転していたが、
睨んだままのオルハルトは努めて冷静でいた。
「それがどうした? 間者を忍び込ませようが裏切ろうが、勝手にすればいい。
俺には関係のないことだ」
レッグドたちは仰天し、オルハルトをつぶさに凝視する。
そして魔法師の二人に声をかけた。
「お前たちは、こいつらが間者であることを見抜いていたんだな」
「――はい……、ザッハン様とアルディ様の正体は、とうに見抜いておりました。
ただ、その行動を目にするまでには手出しができない上に、
また、それをあなた方に知らせてしまうことも魔法国の掟に背くことになるのです。
どうか御察し下さい……」
「秩序が乱れる、か? この場合、果たしてどっちが乱れるというんだろうな」
オルハルトが呟く。
ルフィネリアンはそれ以上何も言えなくなって口を引き結ぶ。
「何をゴチャゴチャと抜かしている。さぁ、皆の者、奴らを斬れっ!」
合図と共に、
彼らを取り囲んでいた尖兵たちが一挙に跳ね橋を駆けて来る。
すかさずセシリージェンが魔法で橋の下の水に洪水を引き起こさせた。
セッツェンの兵士たちが次々と濁流に呑み込まれていく。
それをくぐり抜けて襲い来る残りの兵士たちを、
鮮やかな剣さばきでレッグドが斬っていく。
そしてオルハルトは、敵の剣をうまくよけながら城の中へ飛び込んでいった。
――しかし、多勢に無勢……。
半減された二人の魔法力も追いつかない。
やがてセッツェンの兵士たちに、オルハルトたちは囲まれてしまう。
皇帝命令により、そのまま大広間まで連行しろとの支持を受け、
兵士に囲まれたまま一行は歩いていく。
オルハルトの前には背を向けたアルディオスが見えた。
「その冷静沈着な変貌振りは何だ。
お前らしくもない。豪快に歩いて笑ってみせろ!」
そう揶揄したのは顔をしかめる将軍レッグドだった。
彼はとりわけアルディと仲がよかったのだが、
アルディことアルディオスは振り返らず、ただ黙して前を進むだけ。
その広い背中が巨大な壁のように窺え、蔑視するレッグドは唇を噛んだ。
「黙って歩け!」
セッツェンの歩兵が横から体あたりして来たので、
不意を衝かれたレッグドはよろめいた。
そのまま倒れて来た彼を標的に、他の歩兵たちも殴る蹴るの暴行を加え出す。
「静かにせんか! お前たちも皇帝に突き出すぞ!」
隊を統括する責任者の一言に歩兵たちはたちまち鎮まり返り、
元のように無言で歩き始めた。
大広間にオルハルトたちが姿を現すと、
目を転じさせたシッカの家臣たちは一斉に歓喜に沸く。
「おお……王子! 御無事でありましたか!」
「レッグド将軍! ――!?」
見慣れない青い法衣姿の少年と少女に、各々が息を呑み込んだ。
シグネシェンと同じ青の法衣をまとっていたからだ。
待ちわびていた魔法師が子供であるという想定外の事実に、
皆、絶望感に苛まれている。
「――フッ、私も見くびられたものだ。待っていたぞ、遅かったな」
セシリージェンとルフィネリアンを直視していたシグネシェンが、
嘲り笑うのも自明の理。
ガインも待ちくたびれたとばかりに、迷うことなく前へと進み出る。
「時にオルハルト王子、アンモス王の目とよく似ているな。
諍いを好まぬ性格まで似ているとか」
「諍いねぇ……。
だが俺は人を冷やかすことや不平不満を言うことは別に嫌いではないぜ?」
己の非を畳みかけるようにオルハルトは述懐する。
その背後で、すっかり弁明の余地がないと見限っていたアンモスは、
もはや何も言うまいと仰々(ぎようぎよう)しく嘆息するばかりだ。
「――そういえばそなたとは、ブローニアとの婚約もしていたか……」
この場にいるシッカの誰もが悲嘆に暮れていたが、
物怖じしないオルハルトは嘲弄した末ガインに言い返す。
「俺は最初から相手にしていなかったし、
それでなくとも誰がこんな悪趣味な皇帝の妹と一緒になりたいと思うものか。
こっちから願い下げだ」
「――あの馬鹿……!」
敵愾心むき出しの息子に毒気を抜かれたアンモスは、
思わず額に手をあててうなだれた。
「この期に及んでいい度胸をしているな、シッカのオルハルト王子。
ふはは! 気に入った!
早速貴様から制裁を下してやろう。そこへ直れいっ!」
ガインが剣を鞘から引き抜いて、一段とオルハルトに詰め寄った。
「ああ! お許し下さい、ガイン様! 息子の暴言は、母である私の……」
「王妃様、なりませぬ!」
「エーゼット! お前が出る幕ではない!」
深謀遠慮の持ち合わせのあるアンモスに叱責されて、
家来たちに押さえ込まれた王妃は、ああっと泣き崩れてしまった。
侍女がそばで王妃を抱きしめる。
オルハルトの蒼色の瞳は、皇帝を睥睨していた。
「ククク……、いい目だ。真っ直ぐ見据えるその眼光。せいぜいあがくんだな」
そして哄笑するガインが剣を振り上げた。
その一瞬間――
ガッ!
「何ッ!?」
皇帝の手が宙に浮いたまま、身体ごと突然動かなくなってしまった。
魔法師の仕業と見て、
ガインは二人の小さな魔法師を睨みつけるが、
ルフィネリアンとセシリージェンの視線は他に向いていた。
思わず皇帝も怪訝な顔つきへと変貌する。
「――あんたの後ろにいる魔法師の仕業だ……」
オルハルトが素っ気無く言い放つとガインは目を剥き、
一寸刻みに顔だけをその方へと向けた。
そこにいるのは他でもないシグネシェンだった。
彼は、かざしていた片手を性急に横へ凪ぐ。
途端、ガインの手中の剣が生き物のように動き出し、
勢いよく飛んで遠くの壁へと突き刺さった。
「シグネッ!? どういうつもりだ!?」
緊迫した声音を発する皇帝が取り乱す。
怒りを孕んだ彼の叫び。
シグネシェンは緩慢に口火を切った。
「あなたのお役目はここまでです、ガイン皇帝陛下。
ですが、あなたにはまだやってもらわねばならないことがあるのです」
「何ぃ……? シグネ、お前っ! 最初からそれが狙いだったのか!?」
「私の狙いはもっと広大無辺ですよ」
ガインの怒りが頂点に達する。
どうやらこの魔法師に裏をかかれていたようだ。
「おのれ、おのれ、おのれ――っ!」
皇帝の右腕は、宙に静止したまま動かなかった。
「また裏切りか……何とも見苦しいな。
この帝国はどうなっている。他人は皆、敵か?」
オルハルトが火に油を注ぐような一言を注ぐ。
それがガインの怒りを買った。
「許さぬ……おのれ! 貴様ら全員許さぬわ――っ!」
「今度は八つ当たりか? さっきから見苦しいって言ってんだよ!」
突如駆け出したオルハルトは、
ガインの目と鼻の先まで間合いを詰めると、
彼のみぞおちに右の拳を食らわせた。
「ぐはっ! き…さま――……」
急所を突かれ、ガクンと意識を失う。
シグネシェンが魔法を解き、皇帝は床にうつ伏せとなって倒れた。
尻込みした兵士たちが、なだれを打って騒ぎ立てている。
剣を引き抜き立ち向かおうとする果敢な者もいたが、
ほとんどは魔法師を恐れて悲鳴を上げながら逃げ出していった。
辟易するオルハルトは呆気にとられて肩をすくめる。
「おいおい、皇帝が気を失っただけでこれか?
セッツェンの兵士は一体どうなってる?
所詮は金で雇われただけだと終いには言い逃れる、
忠誠心の欠片もない傭兵の集まりか?」
諧謔に満ちた笑みでシグネシェンを振り返る。
「――さて、真の黒幕はあんただということか。
そりゃ魔法があれば不自由だってしないだろうに、
この国に……いや、この世界に一体何を望んでいるつもりだ?」
一顧だにしないシグネシェンは、緩やかに語り出す。
「私は魔法国に、アウドリックに嫌気が差したのだ。完璧なあの国へね。
平和、善良、純粋……全てに飽き飽きした。
そんな時、この世界を見つけたのだ。
アウドリックとはまるで正反対のこの世界をな。私にはとても魅力的に思えた。
残酷で卑劣で、妬みや裏切り……それらが皆新鮮で羨ましくさえあった。
そしてこの世界に来て、
この醜い場所が更に醜悪さを増すとどうなるのか好奇心が働いたのだ。
アウドリックと古代より関わって来たこの世界を破滅に導くだけではなく、
アウドリックをも敵に回し、
幾星霜の眠りにより一入力も温存され、
神格化した魔法師ジブエを我が力と融合させるためにも――」
「魔法師ジブエだと!? ジブエは女神ではなかったのか!?」
「これだからこの世界の人間は、低俗で浅慮だというのだ。
その昔――、神にも匹敵する全能の力を備えしアウドリックの大魔法師ジブエが、
この世界へ降り立ったというのは、
そこな二人の魔法師のようにこの世界へやって来たに過ぎない。
見たこともない魔法を使うジブエを、
お前たちの祖先らが神として崇めただけの話だ。
愚かな伝説となってな。しかしジブエは他の魔法師とは圧倒的に格が違い、
魔法力の差も歴然としていた。
彼女は後に、肉体に捕らわれない永遠の命を得たのだからな。
女神と言っても過言ではない」
「お、おお、何たることか……!」
ジブエを崇拝するレッグドを含む敬虔な教徒が、
両膝を床につけて愕然とする。
「その純粋に信じる精神こそが、この世を成り立たせている事実に、
お前たちはまだ気付いていない。
その一方で、何も信じられなくなった私はもう堕ちていくだけだ。
神など存在しない。あるのは偽りだけ。
信じられなくなれば全てが反古と化す。それが真実の世界。
よって、私が信じるのは己のこの魔法力のみ。
自由自在に思うがまま操れるこの魔法以外に、何も必要とするものなどない」
それはシグネシェンの本心なのだろう。
オルハルトも乗じて言葉を紡いだ。
「俺が剣で人を斬らないでいる理由に、
どこまで斬らないでいられるかという一種の挑戦もあった。
だが一見、強さを象徴するかのような剣は、
むしろ弱いことを誇示しているように俺は感じる。
それは魔法も同じだ。ある意味最高はつまらない。
ちやほやされるのもうっとうしい。
だから、あんたのように頂点を極めたら、
今度は下落を味わってみたくなるという気持ちは俺にもわかるぜ」
「オルハー、お前という奴は……」
アンモスが再三落胆した。
――と、間の悪いそこへ、あの杖を手にしたトゥインガが登場してきた。
「あの馬鹿! 何で来たんだ!」
オルハルトは思わず舌打ちするが、彼女の傍らには――
「トゥインガ様! 今すぐザッハンから離れて下さい! そいつは敵です!」
誰が叫んだのか、その声に対してもオルハルトは舌打ちした。
レッグドだった。
「馬鹿が……」
「動かないで」
「――え……?」
ことの事情を呑み込めないトゥインガは茫としているが、
既に彼女の後ろに回り込んでいるザッハンは、
彼女の身体に背後から腕を回して顎下に何かを突きつけている。
(短……剣……?)
「ザッハン……?」
「――黙って」
短剣を突きつけるザッハンの残忍な声に、トゥインガは耳を疑った。
「何で……、これは何かの間違い――」
「それ以上しゃべると顔に傷が付きますよ」
トゥインガの喉元に、グッと短剣が近付けられた。
なのにザッハンのため息は儚く、トゥインガの耳元に甘やかに届く。
「あのまま大人しく部屋にいてくれたら、
こんなことをする必要もなかったのに……」
トゥインガの鳶色の双眸が大きく見開かれ、
ザッハンに視線を送ろうとするが、
彼の腕に固定されていて身動きができなかった。
「ザッハン、お前にそいつは斬れない」
オルハルトが言った。
ザッハンはフッと笑って、目線だけを王子に向ける。
「――果たしてそうでしょうか?」
「斬るなら俺を斬れ! まずはそれからだ」
「――……」
オルハルトは武器も持たずに、ザッハンを見つめる。
ただ真っ直ぐに彼の瞳の奥を……。
すると、しばらく気を失っていたガインが目覚め、ゆるゆると身を起こした。
だがその眼は剣呑に光り輝き、
「ウウウ……」と獰猛な動物のような唸り声を上げている。
「さぁ、遊びは終わりだ!
この魔物と化した皇帝と、存分に戯れるがいい!」
「キシャアアア―――ッッ!」
四つん這いになって襲いかかるガインの背中から、
牙のように尖ったものがメキメキと音を立てて突出した。
爪や歯も刃のように伸長する。
レッグドが剣を構えた。
アンモスも腰の鞘に手をかけ剣を引き抜く。
しかし王はオルハルトと同様、剣で人を傷つけることは好まなかった。
いざとなった場合に備えて、
皆を守るため、盾となるために引き抜いたのだ。
ルフィネリアンとセシリージェンが、
防御魔法をシッカの国王夫妻や側近たちにかけてはみるものの、
その威力が弱々しいことは誰の目にも明らかだった。
「おお、これが魔法……」
「申し訳ありません。本来の力がっ……、
半分以下に押さえ込まれているようです……」
魔法師きっての有能な魔法師とはいえ、
彼らはかつてのジブエほどの力は備えてはいない。
体力の消耗も尋常ではないようで、
双方にのしかかる負荷は相当なものだろう。
何もしていなくとも、
どんどん魔法力がどこからか吸われていくのを二人の魔法師は感じていた。
おそらく、魔物と化した皇帝によって。
「――私たちの力を吸い取って……、
あの魔物が……動いている…よう…です」
「お役に立てなくて……すみま…せんっ! こんなはずでは――」
息せき切ってセシリージェンとルフィネリアンが力尽き、
ついに両膝を折ってしまった。
翻ってオルハルトは、
皇帝の猛進する攻撃を弛まぬ反射神経でうまく交わし続けている。
「ちょこまかと小賢しい犬め」
失笑するシグネシェンは、内心で苛立つ。
「戯れろと言ったのはあんただろ?
俺が犬というよりは、皇帝自身があんたの犬だな」
オルハルトは余裕の表情で魔法師をチラと見やり、せせら笑った。
「王子、危ない!」
ビュンッと、ガインの背中から牙が飛んで来たが、オルハルトはそれもよける。
だがその牙の先には、トゥインガがいた。
「しまっ……、トゥインガ逃げろ!」
叫ぶオルハルト。しかし間に合いそうにもない。
「ひっ――!」
「うわああああ――っ!」
後からの大きな悲鳴はトゥインガのものではなかった。
誰もが信じられなかった。彼女を瞬時にかばったのは――
「ザッハン……!?」
彼の痛々しい叫び声が耳をつんざいた。
「ザッハン!」
と同時に、あろうことかシグネシェンがガインに向けて攻撃魔法を放つと、
「陛下、危ない!」
寸時に前に出て皇帝をかばったロイゼンが、
それをまともに食らい豪快に弾き飛ばされる。
「かはっ……!」
打ち所悪く、ロイゼンは即死状態だった。
呆気ない宰相の最期に、ここにいる誰もが言葉を失う。
不意に獣と化しているはずのガインまでもが微動だにしなくなっていた。
その一方、ザッハンは――
「やはり……、私はあなた方を……、
完全に裏切ることはできなかったようですね……」
腹部に突き刺さった牙から、血がとめどなく溢れ出ている。
牙は深く内腑にめり込み、即死でもおかしくない状況だ。
魔物の皇帝を振り切ってオルハルトがそばへ駆けつけると、
ザッハンの身体を抱え起こす。
「ザッハン! 死んだら絶対許さない!
それこそ俺への――最大の裏切り行為だぞ!」
苦痛の最中であっても掛け値なくザッハンは笑っていた。
「王子……、トゥインガ様にもう少し優しく……接してやって下さい……。
それとトゥインガ様も、もっと素直に……うぐっ……!」
「もういいからしゃべらないで!」
「トゥインガ様……私は……、がはっ……!」
口から血の吐しゃ物が吐き出される。
しかし彼は話すことをやめなかった。
ザッハンの手が、トゥインガの頬にそっと触れる。
「最期にもう一度……あなたの笑顔を……見てみたかっ――…」
「ザッハン!?」
『――セシリー!』
ルフィネリアンが魔法でセシリージェンの頭の中に語りかける。
彼は首肯すると、
残された余力で彼女と共にザッハンに詰め寄り治癒魔法を施し始める。
間もなくすると微かにザッハンのまぶたが動いた気がして、
オルハルトとトゥインガは安堵の息を漏らした。
シッカの面々も涙を流しながら、いや増す悲しみと悔しさと怒りを噛み締めていた。
傍観していたシグネシェンは、さも残念そうに肩をすくめる。
中断された戦いを再開させようと、彼はその片手を虚空へ伸ばした。
「この辺りでそろそろ見納めとするか」
「あっ!」
「くっ!」
突然、ルフィネリアンとセシリージェンが首に手をあてがい苦しそうに呻き出した。
もはや二人も、シグネシェンに操られた傀儡と化そうとしている。
だがシグネシェンにそのつもりはない。
今ここで二人の息を止めさせ、殺そうとしているのだ。
「もうやめて! やめてよっ! もういいでしょ! わかったから!
戦いに戦いで仕返しをしたって悲しみが増えるだけでしょ!」
泣き伏していたトゥインガが立ち上がって、シグネシェンの前に駆けつけた。
憔悴し切った彼女の顔を、シグネシェンは面白そうに眺めている。
――と、魔物の攻撃を交わしていたオルハルトが隙を衝かれて一撃を食らい、
トゥインガは悲鳴を上げた。
こうしていつまでも逃げ続けていられるはずもなかった。
シグネシェンは、混迷を極めるオルハルトとトゥインガにとどめをさそうとしていた。
だがその時トゥインガが――、
「――解けよ呪縛! 打倒、鉄の仮面! ハァ――――ッッ!!」
わき目も振らず握っていた元庭箒を、
思い切って皇帝の頭上へと振り落とした。
(目覚めてお姉様――!)
「!」
目を瞠る全員に、皇帝がゆっくりとトゥインガを振り返ると、
その場にくず折れ床に突っ伏した。
「死ね! この世界諸共!」
大鎌を持つような死神のその手が振り上げられる。
「駄目―――ッッ!! ジブエ、やめさせて―――っ!!」
ゴゴォ――――ッ……!
突然トゥインガの叫声に反応したかのように、
紅蓮の炎の如き閃光がシグネシェンへと直撃し、彼の身体を貫いていった。
魔物と化していた皇帝もフッと意識を失い、その場に昏倒する。
「!?」
普遍性を逸脱した眼前の出来事に、
皆目、何が起きたのかわからなかった。
トゥインガの握っていた杖からも閃光が飛び出していて、
そこから妖艶な美女が出現する。
オルハルトは、見たことのある姿に驚きを隠せないでいた。
ぬばたまの黒髪と陶器のような白皙の肌、
深い悲しげな翡翠のその瞳は――、
リーゲル邸が破壊されたあの晩、
出会ってすぐに消えた、まごうことなき美しいあの女性だった。
一同も騒然とする。
「あのお方は……?」
「――女神……様!」
トゥインガは忘我の心地で叫んだ。
「呼んだか娘……。よくも散々振り回しおったな」
「えぇっ!?」
どこか居丈高な口調や振る舞いが、
トゥインガの思い描いていた女神像と異なることに面食らう。
「あなたはジブエ……? ――それともブローニアお姉様……?」
「ブローニア皇女だと!?」
誰もが目を見開く。
美女はうろんげなま名指しで応えた。
「両方だ。正確にはブローニアの身体に、私の精神が降下された融合体だが、
この者の痛烈な声が祈りが私に届いておったのだ。
だがそこな娘の持つ杖に封印されていた以上、
たやすく出て来ることもままならなかったが、
この地下神殿に来てようやく解放された。
ここは強力な魔法が発揮できる大神殿だからな」
「シグネシェンは……!?」
「案ずるな。浄化たる『炎光』を受けし者は、
力を吸い取られ今や無気力と化している。
もう二度と魔法は使えまいよ。アウドリックへ転送しておいたから、
今頃あちらでは騒ぎになっているやもしれぬな」
「――大魔法師ジブエ様……」
セシリージェンとルフィネリアンが恭しく跪いている。
「汝らはアウドの末裔か。あー、よいよい。
形式張ってそのような堅苦しく頭を下げぬとも。
私は堅苦しいのは好かぬからな。……後はよろしく頼むぞ」
「ジブエ様はどうなされるのですか?」
「私はこの神殿に再び眠り、守り神としてこの世界を今後も見守ることとする。
――その杖は窮屈で肩が凝ったわ。
娘も乱暴に扱ってくれるわで、もうこりごりだ」
申し訳なさそうに引きつり顔で空笑いするトゥインガは、
しかし同時にその美しい外見がブローニアの姿でもあることに感銘し、
彼女は感極まった。
女神とブローニアを混同させて見ていたのも、
あながち間違いではなかったのだと。
ジブエがスッと掻き消えると同時に、
それまで凄烈で清冽だったこの場の空気が、
いつしか穏やかさを取り戻していた。
鉄の仮面が真っ二つに割れ、皇帝の頭部から音を立てそれが剥がれ落ちる。
そして、その下の全貌が明らかになった。
「――!」
そこには意識を失った目を伏せた女性の顔が、
今消えたはずの女神と同じ顔が現れる。
「ガイン皇帝は女……!?」
「お、女だと!? 男じゃなかったのか!?」
「ジブエとまるきり同じ顔だ。一体全体どうなっている!?」
騒々しい一帯に動揺が駆け巡った。
既に予測していたトゥインガであっても驚きを禁じ得ない。
「――そのお方はブローニア皇女様です。
とうに御夭逝あそばされたガイン皇子の、御妹君であらせられます」
現れたのは、医師ウェンリッグだった。
彼は横たわるブローニアのそばへ片膝をつくと、そっと彼女を抱き上げた。
そして背後を振り向くと、頭を下げて自白する。
「申し訳ございません……。
後日、この件について御説明致しますゆえ、勝手なこととは申せ、
今ひとたび皇女様のお身体を御静養させてはくれませんか。
ようやく解放されたのです。生き地獄の年月から――」




