00.駆け落ち
晩秋の雷鳴とどろく中、
頼りない木枠のガラス窓を風雨までもがガタガタと小刻みに揺らす。
辺境のエルード地方にあるエルード女子修道院も、
今宵は無遠慮に猛威を振るう師走直前の嵐に見舞われていた。
全身黒ずくめの質素な修道着を身にまとう院長のマーラは、
居住部分の院長室でふと窓を叩く以外の音を聞き分け、
おもむろに窓外へと目を凝らす。
見れば、雨風に打たれながら外套を着込んだ誰かが門前に立っていて、
扉を叩き中へ入れてくれるよう必死に懇願していた。
(――こんな夜に訪れるなんて……)
マーラは急ぎ玄関間の扉口を抜け、
風に煽られながら今にも朽ち果てそうな丸型の木の門扉を開放しに向かった。
「夜分すみません、修道女様。今夜一晩泊めていただくことは叶いますでしょうか?」
全身ずぶ濡れになりながら、どこか気品漂う三十代に差しかかった頃合の男が、
同じく外套を着込んだ小柄な同伴者の肩を抱いて訊ねる。
もう一人は明らかに女性だったが、
小刻みに身を震わせながらもフード越しに垣間見えたその類いまれなる美貌に、
思わずマーラは息を呑み込んだ。
二十代後半に窺える彼女は、
疲労感と寒さに耐え兼ねるように蒼白した面持ちをしていたが、
男性に励まされて何とか意識を持ち堪えている極限状態だ。
門前払いをするわけにもいかず、取り敢えず二人には中へ入ってもらうことにし、
冷えてはいたが寒々とした外よりは断然ましな応接間へと通した。
そこで毛布を手渡しながら暖炉の前で二人には椅子に腰掛けてもらい、
マーラは手際よく薪をくべ火を熾す。
「今、温かいスープを御用意致します」
そう言って彼女は厨の方へと姿を消した。
やがて室内が温まり始めた頃、
湯気と香ばしい匂いを漂わせたお椀を二つトレーに載せて彼女は戻って来た。
「生憎、あり合わせのものしかございませんが……」
「いいえ。見ず知らずの我々に心温かいお気遣い、深く感謝申し上げます」
爵位を賜るであろう紳士然とした青年が外套を脱いだその下からは、
シルクスカーフや上等な上衣を身に着けた高貴な出で立ちが現れる。
彼の容貌は鳶色の瞳と鳶色の髪、
どことなく愛嬌を感じさせる温厚な面差しをしていた。
毛布にくるまれて寄り添う碧眼の女性の方も、
ふんだんにレースをあしらった豪奢なドレスの裾が見え隠れしている。
両者共に、やんごとなき身分の方々だと瞬時にマーラも把握していた。
漸次、身体が温まって落ち着きを取り戻し始めたのか、
先ほどまで険しかった貴婦人の顔にも赤みが差して、
今や穏やかな表情を浮かべている。
(――夫婦、あるいは恋人同士でしょうか……)
とにかく、わけありの二人であることは、
この嵐の夜に迷い込んで来たという事実だけで充分物語っているのだが、
四十年以上ここに身を投じてきたマーラがその件について触れることはついぞなかった。
人にはそれぞれの事情、
悩みや苦しみを抱えて生きていることを彼女自身がよく知っている。
ゆえにマーラは、いつものように慈悲深い相槌を打ちながら、
やんわりと助言を述べるに留めたのだ。
「お気になさらず、ごゆるりとお寛ぎ下さい。
こうして出会えたのも、きっと女神ジブエの思し召し――」
そう労いの言葉をかけられると、
二人もようやく安堵の息を漏らして笑みを浮かべて見つめ合う。
ふと、辺りに視線を巡らせた彼は、
修道院といえども随分とこざっぱりした応接間の内装に疑念を抱いていた。
あまりにさっぱりした清貧な室内に、正直面食らっていると表現した方がふさわしい。
しかし、「何せこじんまりとした辺境の修道院ですから」と言われればそれまでなので、
得てしてそういうものなのだろうと、彼は自分自身に説き伏せた。
実のところ、居住部分にあった荷物は大方運び終えていて、
今ここにあるのは今夜マーラが一人過ごすための必要分しか残されていなかった。
よって、翌朝には彼らにもここを出ていってもらう羽目となるだろうが、
何も知らない彼は唐突に切り出した。
「修道女様。無理なこととは承知で、この機会に是非ともお願いがあります。
我々をここに置いては下さいませんでしょうか?
我々は命からがら逃げて来た逃亡の身、行くあてがないのでございます。
女神の御加護があるこの修道院には、さすがに『魔法師』といえども、
下手に手を出しては来ないかと鑑みて申し上げます。ゆえにどうか……!」
貴婦人も身を乗り出しながら、懇願のまなざしを必死に向ける。
ほつれ気味だった金の巻き毛が彼女の肩から零れ落ちた。
美の骨頂とも呼べる宝石細工のような碧玉の瞳も潤んでいる。
切実な二人の真摯な訴えを無碍に退けるほど、
マーラは無慈悲になれなかった。
――だが、この古い修道院は老朽化と修道女不足に伴い、本日を以って閉鎖される。
訪れる旅人さえいない殺風景なこの僻地には、住民も数える程度しかいない。
年老いた彼女も翌早朝にはこの地を発つことが決まっていた。
慣れ親しんだこの地を離れることに、勿論、迷いはあった。
(この嵐も、この者たちが今になって訪れたのも、
きっと偶然ではない女神の悲しみの発露だとするのならば――)
マーラの胸が締めつけられた。
「……わかりました。いいでしょう。
ですが、このエルード女子修道院は今夜限りで閉められ、
翌朝私もここを出ていきます。
幸い、一日分あるかないかの食材と僅かながらの毛布等が残されていますが、
後ほど知り合いの者に頼んで食材や他の物資も届けさせます。
特に衣類……、現在あなた方が身にまとう御衣装は、
ここでは逆に悪目立ちしますからね。
それと、ここを貸し出すことを一応上に報告もしないといけませんから」
「報告……!?」
「御心配には及びませんよ。
あなた方の名は伏せますから……私も訊かないでおきます。
知人にしばらく修道院を貸すことになったと、
その旨だけを伝えておきます。
そうでなくとも、ここは遥か昔から放棄されているも同然。
許可があろうとなかろうと、
居住部分だけは好きに使っても問題視されることもないでしょう」
「そうですか……助かります。何から何まで」
意を決する修道女の寛大で慇懃なもてなしに、
感謝の念を禁じ得ない若い二人は喜び勇んで強く抱き合う。
「あの、お礼の印にこれを……」
貴婦人は、洗い物すら経験したことのないような白く細い指で、
この辺りの民が一生働いても手にすることの叶わない、
目も眩むきらびやかなダイヤモンドの首飾りを外そうと、
自分の両腕をうなじへと回していた。
男性にも手伝ってもらいながら無造作に取り外すと、
彼女は頓着せずに両手でマーラの眼前に差し出すが、
刹那に目を眇めさせたマーラはそれを片手で制する。
「この先、本当に困るようなことがあった場合に備えて、
それは大切に持っておくべきです。
但し、むやみに行商人に売ってしまうことのないようお気を付け下さい。
易々(やすやす)と騙されてしまう可能性もある上に、
ゆくゆくは追っ手にも気付かれてしまうでしょうから」
「追っ手は……、おそらく私共がここいることに気付いているでしょう。
何故なら向こうには――」
貴婦人の手が男の手の甲に重なり、彼に目配せをした彼女は頭を左右に振った。
男が先ほどさりげなく口にした言葉を反芻するならば、
彼は声音を落としながらも『魔法師』――と言っていなかったか……。
マーラは嘆息して言を継ぐ。
「私が援助できるのは僅かばかりのものです。
それでもここに住むとなれば、基本自給自足。
今後もそれなりの覚悟が必要となってくることでしょう。
――その御覚悟は本当におありですか?」
「――はい」
二人は居住まいを正しながら声をそろえて力強く首肯したが、
それなりの覚悟がなければこんな嵐の夜にやっては来ないであろう。
改めて確認してみたまでだ。
「それから貯蔵庫には、
かつて造られていた葡萄酒の余りが幾つか残ってありますが、
使い道は御自由になさっていただいて結構です。
――それから……、
『開かずの扉』とも『禁断の扉』とも呼ばれるいわくつきの扉もありますが、
決して開こうとだけはなさらないように。
災いが降りかかるかもしれませんからね」
「まぁ、災い……!?」
「とは申しましても、
女神がお許しにならなければ扉は開かないとも言われていますので、
特に心配することもないでしょう」
「……心得ておきます」
「では、あなた方に女神の御加護があることを――」
マーラは神妙に目を閉じ、
胸の前で火を司る女神ジブエを敬う意味の炎の形を描く動作をしてから、
両手を組んで床に膝をつけた姿勢で祈りを捧げ出す。
祈り終えると深呼吸をしてその場に立ち上がり、
駆け落ちして来た二人を残したまま応接間を退室した。
だが、マーラは悟っていた。
今夜など目にも暮れない嵐が、いずれ訪れるだろうと――