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――では、乾杯。
音頭を取って会食が始まる。
大手食品メーカーの子会社である役員団体は、始まりから賑やかな雰囲気を醸し出し料理を摘まみつつ会話に花を咲かせる。次々空になっていくビールの空き瓶を回収して、賑やかなテーブルを回るのは楽しい。
既に顔が赤くなった中年男性や、料理に舌鼓を打ちながら評価を下す中年男性。お酌をする中年女性もちらほら見受けられて明るく会食は進んで行く。
「姉ちゃん! 熱燗もう二本!」
「はい! すぐにお持ちします」
熱燗を頼んだ人の顔とテーブルをしっかり覚えて裏に出る。機械を操作して熱燗を淹れながら頼まれた数より余分に二つ作っておいた。
トレイに乗せた徳利とお猪口は頼まれたテーブルへ無事に辿り着き、酔った中年男性は更に追加で一本を頼む。
「こちらに置かせて頂きますね」
余分にしておいて良かったと内心で安堵しながらテーブルに置いた熱燗はあっという間に無くなって行く。今回の会食はドリンクフリー、つまりは飲み放題のプランな訳で。熱燗が何本出ようと支払う金額は決まっている、それならば頼まれた数以上を置いたとしても構わないという事だ。
ことり、と小さく音を立てて置いた予備の熱燗に、すぐに気が付いた男性が笑顔で私を振り返る。
「おお! 気が利くねぇ!」
機嫌良く喜んで貰えただけで自分まで嬉しくなるのはやっぱり天職だからなのか。空き瓶回収の為、身を翻した私に男性から制止の声が掛かる。
「熱燗、あと三本!」
「はい! すぐに」
会場内では早歩き、裏に出た瞬間にダッシュは基本。用意していた熱燗専用の徳利をひっくり返してトレイに乗せ、割ったりしてはならないとバランスを崩さないよう気を付けて早足。
「うわっ! 佐藤さんごめんなさっ……」
突如横から出てきた田代さんを避けようとした身体は斜めになって、徳利がぐらりとトレイの上で揺れた。
――危ないっ!
「……前方不注意。気を付けるように」
突き刺さるような指摘は仏頂面の葉山さんから発されたもので、その手には私が落としそうになった徳利が二本握られていた。
「すみません、気を付けます!」
葉山さんに勢いよく頭を下げて差し出された徳利を受け取る。恐らく事情を説明しようとしている田代さんに振り返って、戻るよう目線だけでアイコンタクト。気まずそうに頷いて会場へ戻った田代さんから目を離して、立っている葉山さんにもう一度頭を下げる。
朝の緊張感は自分の失態のせいで吹っ飛んで、今はただ謝ってすぐに準備に戻る事だけ考えた。
「すみませんでした!」
「……落としたら割れていただろう。その音が中に響いたら迷惑になる」
「はい! 以後、気を付けます!」
「……もういい。行け」
「ありがとうございます!」
さっきよりも気を使いながらスピードだけは早くする。とりあえず熱燗を、この時それにばかり一直線になっていた私は、どうして葉山さんがここに居るのかなんて事まで頭が回って居なかった。
「――片付けするよ」
芹澤さんの掛け声に派遣スタッフが返事をしながら動き出す。会食は終了し、それぞれ分担して片付けに回る。
私は食べ残しをバケツに入れながら同じお皿を重ねる作業に没頭して、空いたお皿を台車に乗せながら話し掛けてくる田代さんに苦笑しつつ作業の手を早めた。
「さっきはごめんなさいね。私、突っ込んで行ってしまって……」
「大丈夫ですよ。結果、割れませんでしたし」
申し訳なさそうにしょげる田代さんは、根は良い人で少し噂話が過ぎるくらいのおば様だ。
「葉山さんもあんなに怖い顔しなくても良いのにねぇ……。あら、そういえばどうして葉山さんが居たのかしら。佐藤さん、何か知ってる?」
「いえ。……そういえば、そうですね。芹澤さんに何か用事があったんじゃないでしょうか」
考えてみると不思議でもあったけれど、芹澤さんに用事があったのならこの会場の裏に来ていても納得出来る。
なるべく田代さんのお喋りがヒートアップしてしまわないように途中で指示を出しながら作業を終わらせてしまう。
「クロス持って行きますね」
テーブルクロスを剥ぎながら丸め、両手でそれを抱えながら会場に残っている派遣のおば様方に申し出る。
返事を得られた数分後、使用済みテーブルクロスを入れるかごの前で私は立ち往生していた。
「――もう、駄目だって!」
使用済みクロスを入れるカゴの横辺りで男女が抱き合っている。一瞬にして固まった私の身体は、石のように微動だにしなかった。
邪魔する事に躊躇いは無い。と、言うよりも今まで何度かこういうシチュエーションには遭遇したのだけれど、今回は私の真横に葉山さんが居るのである。
設営で使用するテーブルクロスを取りに来た葉山さんと使用済みを置きに来た私。偶然道のりが一緒にはなったけれど、一言も話さずにここまで歩いて来た。
葉山さんの冷ややかで蔑みを含んだ視線は、おしぼり業者の男性と事務員の女性に向けられて、今にも怒鳴り声が発されそうな勢いだ。
――見つかった相手が悪すぎる。
職場でこういう密会をするのはいけないが、流石に葉山さんに発見されたとなると同情せざるを得ない。
仕事では潔癖。
葉山さんにちらりと視線を向けると、目から光線が出ても可笑しくないような形相でインカムのイヤホンを外していた。
――黒服名物、葉山の一喝。
慌てて一歩後ろに下がった私に気付いたのか気付いていないのか分からないが、葉山さんが一瞬だけ髪を揺らした。
「――お前ら邪魔だッ! 今すぐ散れ!」
何事かと慌てて顔を覗かせた事務員さんとおしぼり業者は葉山さんを見るなり顔面蒼白になって行く。
「……ひっ! は、葉山さんっ……!」
慌てて離れた二人組はばつが悪そうに俯いて足早に去っていった。
お、お見事……!と言いたくなる一喝に心の中だけで盛大な拍手を送りつつ、多分チーフに言い付けられるんだろうなぁとさっきの二人組に同情する。
ずっと抱えていたテーブルクロスを漸くカゴにおさめ、踵を返した私に後ろから怒声が飛んで来た。
「お前もだ! 佐藤っ!」
「はっ、はい! 何でしょう!」
「さっき、田代さんを庇っただろう!」
「庇ってません」
「あれは誰がどう見ても田代さんからぶつかって行ったようにしか見えないが」
それが分かってるのにさっき怒ったんですか、とは言わずに沈黙する。別に田代さんを庇ったという意識は余り無い。だから頷かずに否定した。
「お前が怒られるような失敗じゃないと俺は思った」
「……徳利を落としそうになったのは私ですが」
「そうだな。だから叱ったが、あれじゃ田代さんの為にならない」
「……すみません、気を付けます」
「会場に早く戻りたいが為にわざと自分が悪いと頭を下げただろう」
「……はい」
気付かれていた。庇ったと言うよりもその場を早く終わらせたかった私にしっかり葉山さんは気付いていたらしい。
「そのプロ意識は認める。が、次からは失敗を引き起こす原因になった人間を隠したりするな。差し出せ」
まるで獲物を差し出せとでも言うような言い方に微妙な気持ちを抱きつつ、言われた事を反芻し反省する。
確かに、会場から二人も抜けるのは良くないと田代さんに戻るよう視線を送ったのは私の我が儘に過ぎない。
田代さん本人が怒られなければ改善はされないかも知れない。だから、葉山さんの言う事は間違ってない。
「分かりました。以後気を付けます」
社会人になって一番最初に身に付いたものは“謝罪”だった。何時なんどきも頭を下げて、失敗に言い訳は必要ない。
非を認めなければ呆れられる。
それがたとえ誤解だったとしても、“弁解”は“言い訳”にしかならない。
「“――佐藤さん、もう事務所戻れそうかな? 十五時で上がって。”」
インカムからチーフの声が聞こえて、葉山さんを見上げたら浅く頷かれた。
くるりと踵を返し今度こそ事務所へ戻る道を走って歯を食い縛る。
時刻は午後十四時を過ぎ、既に四十分。
――やっぱり怖い!
さっきの葉山さんの顔を思い出して今朝の可愛さを忘れる。早足に事務所へ戻り、一回目の勤務を終えた。