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マンションを出て携帯のGPSで現在地を確認する。
昨夜道のりを聞いておけば良かったと後悔しながらも、ルート案内で問題なく進んで行く。
吸い込む風は少し湿ったような匂いがして、梅雨が始まりそうな天候に冷や冷やしながら先を急いだ。
到着したホテルの従業員入り口にいつも立っている警備員さんへ軽く頭を下げながら挨拶をして、いつものように控え室へと向かっていく。途中、すれ違った他の人にも忘れず挨拶をして従業員エレベーターに乗った。
事務所と控え室があるのは四階、四の数字でランプがついて少し振動し止まったエレベーターをドキドキしながら降りる。
もし葉山さんに会ったら何も思わず挨拶をした方が自然に見えるかな、とか。緊張して声が裏返ったりしないかな、とか。
無意味に自分を追い詰めながら控え室のドアノブを捻って引く。
今日も一番乗り。誰も居ない控え室は静かでがらんとしている。
手近なロッカーを開けて着替え始め、髪をシニヨンで纏めたところでドアが開いた。
「おはよう、佐藤さん」
「おはようございます」
会釈して笑顔を浮かべた私に、よく顔を合わせている派遣のおば様がにっこりと微笑んでくれた。
慣れた手つきで着替えを始めたおば様は、着替えて完全装備した私を見ながら噂話を始める。
「一昨日の夜ね、人が足りなくて私が入ったのよ。そうしたら高校生達の礼儀のなってないこと!敬語がね、なんとかっす、とか言って……」
適度におば様に相槌を打ちながら、そんな口調で話している派遣の高校生を頭の中で検索する。引っ掛かったのは新人の男の子で、確かに少し体育会系な子だったと思い出す。
「もしかして溝口くんですか?」
「そう!溝口って名札に書いてたわ。嫌よねぇ……私なんかおばさん扱いよ。使えないって思われてるのがすぐに分かるわ!」
余程腹が立っていたのか、朝から興奮気味に話すおば様に苦笑しながら溝口君に会ったら話をすることにしようと決める。
このおば様は派遣でも割りと長く、仕事もきっちりする人だ。派遣会社におば様がこの話をしたら溝口君の方がきつく注意を受ける事になる。そうなれば、溝口君が辞めてしまうかも知れない。
それは私も少し困る。人手が足りなくなって大量に新人を一気に入れられると今の私では全く捌けない。
愚痴と言う名の苦情を私に言いながら、おば様は着々と着替えをこなして髪を纏めた。
「あら!里山さん!もう聞いて~!」
続いて控え室に入ってきたおば様に話し掛けて井戸端会議のようになった室内で、マイペースにメモとボールペンを確認して後れ毛がないかどうかも隈無く探す。
一通り身だしなみのチェックが終わり、昨日メールで届いた氏名と来ている派遣を照らし合わせた。
あと一人、いつもギリギリに来るおば様が揃ったら今日のメンバーは全員集まる。
携帯をマナーモードにし鞄に入れて、ロッカーに鍵を掛ける。鍵をスカートのポケットへと入れ息を乱しながら入ってきた最後の一人を確認して、一呼吸。
「田代さん、里山さん、柳井さん、今日は宜しくお願いします。柳井さんは着替えながら聞いて下さい」
「はい、リーダー」
「宜しくお願いします」
「すいません、すぐに着替えます!」
田代さんと里山さんが切り替えるように背筋を伸ばし、最後に来た柳井さんだけがあたふたしながら返事をする。それに大丈夫だという意味を込めて頷き笑う。
「今日はこの四人で二十人の会食に入ります。役割は社員さんから説明があると思いますが、いつもと同じように焦らず気配りを忘れないようお願いします」
指導側に立ち、たまにリーダーを請け負うようになってから、生意気だとよく言われた挨拶。内容はいつも似たようなもので、口からすらすら出てくる。
今日の会食では派遣のリーダーは私、気を抜かないよう一層引き締めて連絡事項を続けていく。おば様方は内心でどう思っているかは分からないけれど、ちゃんと従って頷いてくれる。
「それでは今日も宜しくお願いします」
「お願いします」
三人が声を合わせ、全員で一礼して挨拶は終わる。
入り時間の十分前、控え室を出て隣の事務所を顔を出すとチーフがにこやかに手を挙げてくれた。
「おはよう」
「おはようございます。宜しくお願いします」
事務所の社員さん達が含みある笑みで此方を見ているのを気付かない振りでやり過ごし、ホワイトボードを確認する。
Barと書かれたところに派遣以外のスタッフの名前。今日の会食でバーカウンターに立つのはホテル直属のスタッフである青年らしい。
一通りを確認して派遣用の出勤簿に名前と入り時間を記入して、後ろの田代さんへと回す。
用意されたインカムをつけながら、手を振る前田さんに会釈をした。葉山さんは会場に入っているのか、事務所には見当たらない。
「チーフ、昨夜のことは流して頂いても宜しいでしょうか。……ご迷惑を、お掛けしました」
夜に入らないと言う派遣会社からの連絡を無かったものにして貰う為に先にチーフへ告げておく。派遣会社へは朝のうちに撤回するメールを入れておいたから、後程改めて連絡が来る筈だ。
チーフはにこやかに頷いて引き出しを開けた。
「うん、分かった。これあげるから休憩の時にでも食べなさい」
差し出された飴に苦笑してお礼を言いながら受け取る。
怒ると葉山さんより恐ろしいチーフは、平常では優しいおじ様にしか見えなくてギャップの怖さにいつも冷や冷やする。渡された四つの飴は派遣スタッフのそれぞれに行き渡り、ポケットへと仕舞われる。今から控え室に戻るのは時間が掛かるからだ。
時間を迎えてチーフが立ち上がり、今日の仕事の開始となる。説明されて行く流れにメモを取りながら、失敗がないよう綿密に注意事項を付け加えて行く。
打ち合わせと説明が終わりそれぞれ動き始めたタイミングで、今日の会食の担当となった芹澤さんに挨拶をしに行った。
使われる側と使う側の定番となった挨拶を交わして会場に向かう途中、芹澤さんから話し掛けられる。
「佐藤さん、ドリンク運んで貰っていいかな」
「分かりました」
「二人はグラスを五十磨いてバーカンにセットして。里山さんはビールの準備」
指示を出す芹澤さんに頷き方向転換する。ドリンクは三階に置いてあり、取りに行くには台車が必要だった。
駆け足で台車の方へ向かう私に何故か芹澤さんが着いてくる。
「どうかしました?」
「ベッドの寝心地どうだった?」
「ちょっ……」
さらりと言われた言葉に絶句しながらも、スピードは緩めず口を噤む。――まさかこんな所で言われる事になるとは。
「良かったです。ソフトドリンクはオレンジ三本で良いですか?」
「良いよ。熱燗が多いと思うから清酒は四本用意して。……兄貴は優しかった?」
「――そうですね」
からかわれている、と芹澤さんの顔を見て気が付いた。
そんな関係では全くないと知りながら言ってくる芹澤さんは随分と意地悪らしい。流石は葉山さんの弟だ。受け流す事にして肯定した私に、芹澤さんはくすりと一笑して仕事モードに切り替わった。