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葉山視点

 

 佐藤が初めてうちのホテルに来た時、チーフは珍しく困った顔で派遣会社に電話を掛けた。平日の朝九時、どこからどう見ても中学生くらいにしか見えない少女は存在だけで社員一同を慌てさせる。

 問い合わせの結果、歴とした十六歳で高校には通っていない事が説明されたとかで、無闇に表に出して混乱を煽るよりは、裏で仕事をさせることにして一先ずの収拾がつけられた。


 客の前に出すにしては外見が幼すぎる。化粧をしていない佐藤は余りにも童顔だった。

 化粧をしていないことを佐藤本人から聞いたチーフは次に佐藤を寄越す際にはちゃんとした化粧をするように派遣会社に言いつけたらしく、次は幾分か高校生に見える姿で再びホテルに現れることになる。昼も夜も使って大丈夫だと言う先方にとりあえずは昼間だけと告げ、ホテル側は佐藤を受け入れた。



「おはようございます! 今日は宜しくお願いします」


 毎朝事務所に来る度に元気よく挨拶する姿は微笑ましくもあったが、社員でも半分以上は佐藤を入れるのを嫌がった。派遣社員で尚且つ中退。佐藤の立ち位置はあまりにも低い。馬鹿にしている社員も数人いて、同情的な社員も数人いた。そして、一番多くいたのは関わりたくないと思う社員だった。それでも、そんなあからさまな視線を向けられても、明るく溌剌とした態度を崩さずに一生懸命働く佐藤は、僅か一ヶ月ほどで仕事のあらかたを覚えた。

 まず、吸収が早い。そして小回りが利く。打てば響くような返事は分かりやすく気持ちが良い。困った時にはすぐさま指示を仰ぎ、自分でなんとかしようという新人にありがちな失敗をするようなこともなかった。必ず指示は仰ぐが、佐藤は自己判断も悪くない。接客で重要なことがしっかり分かっているようにも見えた。そして、佐藤は経験を重ね、前田と芹澤の目にとまった。


 叱ってもふて腐れない、絶対泣かない。注意された事は一度で覚え、失敗を着実に減らしていく。何より目を惹いたのは、素早い気配りと崩れない笑顔だった。

 愛嬌のある笑顔は美人とは決して言えなかったが、その平凡さの中に温かいものがあった。

 会食でよく現れる、セクハラをする年寄りにも嫌な顔ひとつせずにっこり笑ってビールを運ぶ。頼まれたドリンクを間違えずに届ける記憶力もたいしたものだった。

 そうやってめきめきと能力を上げていくと、派遣の主婦からは段々と敬遠され、佐藤は事実上一人でいることが増えた。

 若いから老年の男性からは受けがいい、黒服に媚を売っている。噂話は広まり当時の佐藤はひどく肩身が狭かっただろうと思う。社員が介入することはよっぽどではない限り、できない。それが暗黙のルールで、社員と派遣社員の間の大事な線引きでもあった。


 三ヶ月も経つと、顔を合わせる事が多い社員は段々と佐藤の良さに気が付いた。

 言われる前にこなし、言われたら素早く動く。社員が指示する前に的確に動ける佐藤は、八つ当たりのように理不尽に叱られてもへこたれずに丁寧なサービスを繰り返した。

 半年経った頃には、若いから、中卒だからなんて社員で言う人間はほぼいなくなった。分からない事はすぐに尋ねる。それがたとえ気の立っているチーフ相手だったとしても佐藤は怖じ気付いたりしなかった。

 俺は佐藤と組む事が他より少なく、最初の一年間は仕事以外では、ほぼ話す機会を得られなかった。前田はしきりに佐藤のことを気にしていたが、無駄話を滅多にしない佐藤は中々プライベートについて語らない。

 雑談を振られてもさりげなく回避して仕事に集中する。まるで仕事に打ち込むのが楽しくて堪らない、とでも言う風に必死でいつも全力だった。


 そんな佐藤が偶然、倉庫で踞っていたのを見た。そのとき、初めてサボっている姿を見たと俺は怒りもせずにただ驚いた。あれだけ楽しそうに仕事をしている奴でもサボりたくなるものなんだな、と。

 しかしそれはある意味当然で、むしろ佐藤がサボっているという事実に少し安堵を覚えたほどだった。人間は常に全力にはなれない。休みたいときもあるだろう。そう、思っていた。


 だが、それも勘違いだった。わたわたと慌てた様子でポケットから取り出した絆創膏を、靴擦れしたらしき傷痕に貼り付けてすぐにパンプスを履きなおす。


「大丈夫、もう少し……頑張れる」


 自分を奮い立たせるように、佐藤はパンプスの踵を床に叩く。こつ、こつ。そうして小さく鳴った踵の音はまるで佐藤のまじないのようで、そのまま倉庫の奥のドアを開けた佐藤は軽い足取りで走って出ていった。

 パンプスの高さは初めてこのホテルに来たときよりも高くなっていた。懸命に大人になろうとしているような健気さを持った佐藤がこの時、俺は初めて“可哀想”だと思った。それもまぁ一瞬の感情で、次の日には特に何の感情も持っていなかったが。


 次に佐藤について何かを思ったのは大規模な婚礼を初めて任された時だ。真剣な表情のチーフから失敗出来ないことを悟った。相当神経質になっていてかなりピリピリしていたのを自分でも自覚していたが、緊張は解けなかった。そのせいで周りを触発して、スタッフの大多数を緊張させてしまっていたのだろう。そんな中でも笑顔で料理を運ぶ佐藤が当時は本当にのん気で無神経な奴だと思っていた。


 婚礼も中盤に差し掛かって佐藤が料理をかぶったときは、それまで上手く行っていた流れを乱されたような気がして怒りのまま怒鳴りつけた。作り直しがどんなに大変かを知らないわけでも無いだろうと不注意で制服を汚した佐藤に苛立った。

 今、抜けられたら困る。

 そんな事すら忘れてただ帰れと怒鳴った俺に、佐藤はひたすら真っ直ぐな視線をじっと向けた。声を張り上げた佐藤はのん気な様子でも無神経な様子でもなく、ただ時間が惜しいと焦りを感じている顔をしていた。


 可哀想なんかじゃない。

 すぐに悟った。佐藤は可哀想な子供なんかじゃなくて、一丁前にも仕事にプライドを持っている一スタッフだと。

 許可を出す前に走り出したのは相当時間が惜しいからだ。それだけしか理由が見当たらなかった。あんなに必死な顔を見て、あんなに会場を気にするような忙しない態度を見て、何も言えなくなったのは間違いなく圧倒されたからだ。着替えてこいとも、着替えなくていいから帰れとも言えなかった。小さくなった背中を見てようやく「このやろう」と思わされた。


 なんだ、あいつ、面白い。

 素直にそう思ったときには、頭が切り替えていた。あれだけピリピリしていた筈なのに、負けてはいられないと思わされ、身体はすぐに動き始める。佐藤へ料理をぶつけたスタッフは涙目になってその場に佇んでいた。青ざめた顔色が雄弁に語っている。料理をぶつけたのは、わざとだったと。

 一方的にぶつけられたのに、あんな風に必死になれるのかと可笑しくなってしまう。嫌がらせをした張本人は俺の怒鳴り声にすっかり萎縮してしまっているのに、嫌がらせをされた当人は全く相手が眼中にない。あるのはその先のことだけ。笑いを噛み殺しながらチーフに事情を説明し、断りを入れた上で持ち場を離れ、厨房へと向かった。


 足取りがやたら重いのは料理関係で失敗したことが無かったからだ。だから、俺が厨房に頭を下げるのはその時が初めてだった。よく目にする、失敗して必死に頭を下げるなんて行為を自分がするとは夢にも思っていなかった。完璧主義な自分を誇っているつもりだったからだ。


 行った先で忙しく走り回る料理人の中から強面の料理長を見つける。声を掛ける前に存在に気付かれて、ことりと音を立てて置かれた皿は駄目にした料理の一品だった。


 ――持っていけ、急ぎなんだろ。

 つっけんどんな言い方をした深山(みやま)料理長は口調とは違い笑っていた。驚く俺にざっくばらんな説明をして、佐藤のことを思い出したのかまた豪快に笑う。


 謝りに来て、何度も何度も頭を下げた。

 それは黒服がやりたくない失敗ナンバーワンだ。まさか自分に変わってそれをするスタッフが居るとは思わなかった。



 浴室に入ってカッターシャツを脱ぎながら思い出す。


「……進んで謝りに来た派遣は久しぶり、か」


 深山料理長の嬉しそうな顔なんて初めて見た。怒鳴られる事もなく、初めて犯した失敗は佐藤の手によって回避された。苦々しい思いで会場のビール瓶を回収する佐藤を見たのを覚えている。戻って来た佐藤をバーカウンターに入れて、とりあえずは様子を見ようと思っていたのに、先にそんなことまでやってしまう仕事に対しての気の回りの良さに正直尊敬すらしてしまいそうだった。適当に学生生活を過ごして適当に就職し、適当に仕事をしてきた自分を恥じるくらいには影響を受けた。


「……これで良かったのか」


 多少強引に引っ張ってきた事を申し訳なく思っている部分はある。佐藤が複雑な事情を抱えていることは何となく社員も察していたし、事情もうっすらとだが本人から聞いていた。高校は事情があって行けなかった。ただ、それだけしか語らないが。

 両親がいないらしい、というのが本当かどうかは分からないが、手助けしてやりたくなるくらいには佐藤に心を動かされていると気付いていた。

 そして、あの目を見た日からもっと一緒に仕事がしたいと思うようになった。知れば知るほどに、無駄のないサービスを一番に心掛けていると熱烈に伝わってきてコイツは自分よりもずっと黒服に向いているんじゃないかと驚きの連続で。


 弾けるような笑顔に周りがつられて笑顔になる。誰かが失敗しても佐藤が直ぐ様フォローに回った。会場内でその失敗に気付く人間がごく僅かで済むように、いつも佐藤は周りを常に把握して。この仕事が佐藤にとって天職だと他人の俺が思うほど、会場内は居心地良く作られていく。


「あれは飛び抜けてる。派遣にしておくには勿体ないと思う」


 弟である芹澤――真琴まこととも佐藤について話したことがある。同様の意見は社員の中でもちらほらと聞こえていた。


 ならば、正社員に出来ないか。そう画策したのは俺だけじゃない。

 そんな折、佐藤が別の仕事をするから、夜は入れなくなると派遣会社からの電話がきた。出来れば佐藤を優先して入れてくれとチーフが派遣会社に希望を出していたからか、申し訳なさそうに担当者はそれを告げる。


 今日はわりと早く終わるから飲みにでも、と社員同士で言っていたところだった。引き留められないかとチーフも言っていたところを見ると、社員にしないのは能力不足というわけでも無さそうだ。


 佐藤を呼び出し話をするのには俺が進んで手を挙げた。周りにわかりにくいとはいえ可愛がっていたのは事実、佐藤が急に居なくなると困るというのは確かにあった。

 そして、都合がついた社員で居酒屋に集まり、俺は佐藤に連絡した。それからはかなり強引に、無茶なやり方で仕事を変えないようにこじつけたようなものだ。


 シャワーを浴びながら、傍若無人な振る舞いをした自分に自嘲する。今回のことで嫌われたとしても、それはそれで構わない。迷惑だと思われていたとしても、他に手段が思い付かなかった。家がないなら俺の家に住めばいい、真琴もそう思っていたはずだ。3LDKの無駄に広い新居は「遅くなったが就職祝いだ」と、父親が無理矢理に自分に贈ったものだ。このマンションを押し付けたのは不器用な愛情表現の一つだと思っている。


 ――再婚するのがそんなに息子に対して罪悪感を抱くことか。

 俺にはその罪悪感がよく分からなかった。離婚してもう何年経つと思っているのか、自分はもう子供じゃない。貰った当初は呆れた表情をしていたけれど、今は良かったと思える。おかげで、佐藤美月を引き留められるようになったも同然だからだ。


 別の仕事をさせるには惜しい存在だからなと自分に言い聞かせてシャワーを終えた。

 恋愛という枠組みに嵌めるには若すぎる。そんな対象として見られていないのは勿論、自分も無理強いする気はない。あわよくば、という邪心があるのは否定しないがあくまで向こうはまだ未成年。恋愛沙汰にするのは余りにも拙かった。


 寝間着のスラックスを穿いてバスタオルを肩に掛けたまま、上半身裸で脱衣場から出ようとして思い止まる。着衣して出る癖をつけなければ、佐藤がいつかこの姿を見てだらしないと思うかも知れない。すんでの所で思い直してシャツを着た。

 大人と呼ばれる年齢になって行く度に中身は幼くなったような違和感があった。周りはもう良い歳だと言うが、どうにも実感が湧かない。三十代半ばと言われても中身はまだ二十代のような若い考えを持ったまま、身体だけが衰退して行くのは些か気持ちが悪かった。


「……寝るか」


 下らない事を考えるのは止めにして、睡眠を貪る方へ意識を無理やりに向ける。倒れ込んだ自室のベッドがいつもより硬い気がした。



2013.09.16修正

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