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「それじゃあ、帰ります」
泣いた顔をばしゃばしゃと洗って、完全なすっぴんになってしまったけれど、何度も葉山さんには見られているから抵抗はあんまり無かった。
前田さんからはまだ起きていると数分前にメールが入っていて、心置きなく帰れそうだ。
物言いたげな視線を向けてくる葉山さんに敢えて気付かないふりをしつつ、ぺこりと頭を下げる。
「帰る場所はここだけだ。前田の家には“行く”と言え」
「そんなに違いは無いような……」
「あるだろう。それより、一ヶ月後だ。忘れるなよ」
「はい!」
「お前……こんな時だけ返事が良いな。一ヶ月、会わない訳じゃないからな?」
「え!?」
まさかの後出し発言に物凄く驚いた。
一ヶ月、甘えてしまわないように会わないつもりでいた私。聞き捨てならない台詞である。
「食事くらい付き合え」
「前田さんと食べるので……」
「お前な、いよいよハリセン出すぞ」
「いやいやいや、意味が分からないんですが!」
「全く会わないつもりだったのか?」
「だって……」
「何だ」
「会ったら甘えたくなるじゃないですか」
がっと伸ばされた葉山さんの腕は、私の肩に触れるか触れないかの所でぴたりと停止して、力なく下ろされた。
「いいか、お前は発言に気を付けろ」
「……なにを言ってるんですか葉山さん」
「何でもないッ!」
「うわ、怒鳴った……!」
じりじりと距離を開けた私に、葉山さんが鋭い目線を向けてくる。怖い怖い怖い。顔が怖い。
「甘えを出さないのも修行だと思って俺に会えば良いだろう」
「それは、一理有りますが……」
「そうだ。そうしろ、良いな?」
「でも、やっぱり会わない方が辛いので修行になりそうです」
「……喜んで良いのか悲しんで良いのか分からない返答をするな」
はあ、と溜め息を吐いた葉山さんは、何故か私の頭に手を置いた。
「シャワーを浴びてくる。送るから少し待て。……待てるな?」
「待てます、けど、でも送って貰わなくても大丈」
「大人しく待ってろ」
そういえば、葉山さんも時々口調が乱暴になる。何となく気が付いて、取り合えず素直に言われた事に頷いた。
浴室へ向かう葉山さんの背中を見送って、私が使っていた部屋を覗いてみる。
芹澤さんが詰めてくれたという荷物は最低限の物だけで、ちらほら私の私物が部屋の隅に置いてあった。
ベッドに座って、一息吐く。
何だか急に結婚が身近に降ってきて、余り実感が湧いてこない。
葉山さんと、結婚。
その未来が実現に近付いたという事実が、私をむずむずした照れ臭い気持ちにさせる。
怒らなかった。
葉山さんはちゃんと私の話を聞いてくれて、頭ごなしに怒ったりしなかった。そして、条件付きだとは言え、待つと約束してくれた。
責められる、別れを切り出されると身構えていた私をあっさりと裏切って、前田さんが言うように「心配ない」事態になった。
流石恋愛の先輩前田さん。もう前田さんが恋愛のスペシャリストにも思えて来た。
それから、芹澤さんのこと。
葉山さんは殆んどそれに触れなかった。スペシャリスト前田さんは
――それで良いのよ。芹澤くんだってそうやって佐藤さんを傷付けないようにしたんだと思うわ
と、言っていた。
それはつまり、私からは持ち出さない方が良いという風にもとれる。
――予防線を張って、傷付かないようにするの。もし自分の気持ちが相手と通じなくても苦しくないって思う為に
予防線を私が壊すのは、きっと望ましくないんだろう。
私にとっても芹澤さんにとっても。
きっと、苦しくなってしまう。
考える時間はそんなに長く続かなかった。シャワーを浴び終わった葉山さんは、やっぱり三十路を過ぎているようには見えなくて格好良いなと思わされる。
「そんなに見るな」
「……すみません」
「俺も見るぞ」
「止めてください」
どんな拷問だ。すっぴんをまじまじと見られるなんて恥ずかしくて堪らない。
前田さんのマンションまで送ってくれた葉山さんは、車を降りる前に一度だけ私にキスをした。
離れたくない、と少しだけ浮かんだ気持ちを振り払い車を降りて葉山さんに頭を下げる。
「ありがとうございました」
「美月、着信拒否は解除しておけ」
「はい」
「それから――WLでちょっかい掛けた男には油断するな」
「もうしません……」
「なら良い。おやすみ」
「おやすみなさい」
階段を登りながら、前田さんにどう話そうか考えた。
きっと、目を輝かせて待っているだろうな……と半ば確信に近い予想を抱きつつ、ちらりと後ろを振り返る。
葉山さんと目が合った。
何となく恥ずかしくて、浅く頭を下げて早足に階段を登る。
前田さんの自宅に入った瞬間、バタバタとリビンクから慌ただしい音がした。
「おっかえりー!」
出てきたのは前田さんだけではなく、後ろに芹澤さんと梶川さん。いろいろな事が頭を過り、咄嗟に反応が出来なかった。
「おかえり、佐藤ちゃん」
「おかえり、美月」
「た、ただいま帰りました……」
芹澤さんのあまりにも普通な態度にどぎまぎしながらリビンクに入る。
三人共私を囲むようにして座り、期待しているような目で私を見ていた。
「あの、これはどういう……?」
「佐藤さん、キスしたこと葉山さんに言ったのよね?」
「……はい」
「何て言われた?」
前田さん、梶川さんと続いて尋ねて来る異様な雰囲気にたじろぎながら、言われた事を思い出す。
結婚しよう、と甘く響くあの声が蘇って来て急激に転げ回りたくなった。
「やだやだ!顔赤くなっちゃってるー!かーわーいーいー!」
ぎゅう、と前田さんに抱き締められて、仄かに香った香水にうっとりしそうになる。甘くて、少しだけフルーティーで良い匂いだ。
「美月」
「はいいい……!」
「前田さんが気持ち良いくらい豊満なのは分かったから、先を話して。兄貴なんて言ってたの」
「えっと、その……」
言い辛い。芹澤さんに言っても良いのかすら分からない。ちらりと前田さんを見たら、前田さんは芹澤さんの頭をはたいた。
「芹澤くん、先に自己申告しなさい。佐藤さんはピュアなんだから」
「ああ、ごめん。美月の事は好きだよ」
「……え!?」
「好きだけど、兄貴の物だから手は出さないよ。恋愛じゃなくても良いんだ。傍に居るだけで楽しいし」
「芹澤さんって不思議ですよね……」
梶川さんがまじまじと芹澤さんを見つめて息を吐く。
「美月を彼女に出来たら嬉しいとは思うけど、泣かせたい訳じゃないし。美月が俺を好きになってくれるなら大歓迎だけど……無いでしょ」
「……はい」
「だから諦めるよ。美月が余りにも兄貴に一直線だから少し妬いただけ。吾妻ってヤツもキスしたとか言うし」
芹澤さんは無表情でそう言いながら、手に持っていた麦茶のグラスを煽った。
こくりと喉を鳴らして、浅く息を吐き話を続ける。
「今は美月が好きでもそのうち変わるだろうし、あんまり気にしなくて良いよ」
こんな時、自分の目敏さを恨みたくなる。
芹澤さんの瞳が切なそうに微かに揺れた。
締め付けられるような想いと優しさに今すぐ謝りたくなるけれど、これが“大人”の優しさなのかも知れないと思うと頷く他に私がするべきことはなかった。
芹澤さんは、私の為に。
もしかしたら自分の為に。
こうしてわざわざ言ってくれた。
言葉が全て本心だとは思えない。
切ない瞳がそれを私に教えてくれている。
だけど、私はその優しさを受け入れる事しか出来ない。
もしも私が恋愛に慣れていたら、傷付けずに済んだのかも知れない。
「……はい」
「じゃあ報告を聞かせて貰おうか」
終わったんだ。
芹澤さんと私の間でふらふらと浮かんでいた物は今この場所で消されたのだと、痛いくらい身に染みた。
ありがとうございます、と内心だけでお礼を言って。花開かなかった関係が綺麗に消え失せ無くなった。
もしかしたら、葉山さんは知っていたのかも知れない。芹澤さんがこんな人だと、知っていたから敢えて何も言わなかった。
そんな気がした。
「で、葉山さんは狼になった?」
前田さんの問い掛けに首を捻ると、前田さんはあからさまにがっくりした。
「なーんだ。葉山さんの紳士気取りめー」
「じゃあ、責められなかった?いいよって言ってくれたの」
芹澤さんの問い掛けもまた何やら限定されているような気がするけれど、取り合えず首を横に振る。いいよ、とは言われていない。
「責められは、しなかったです」
「プロポーズされた!?」
梶川さんが身を乗り出して来て、びくっと身体が一瞬跳ねた。
「は、はい……」
「うわー!梶川にしてやられたわ!」
「へぇ!兄貴意外と焦ったんだ」
「さささ佐藤ちゃん!俺マジで感動した……!葉山さんすげぇ!」
盛り上がり方が以上な三人に引き気味になりながら、前田さんがぱぱっと出してくれたドリアのスプーンを手に握る。
「頂きます」
「どうぞー。それにしてもプロポーズか……葉山さんやるぅ!ちょっと芹澤くん、意地悪なご両親とかじゃないわよね?」
「寧ろ真逆。母さんも父さんもにこにこしてる感じ」
「無表情兄弟と真逆……!佐藤ちゃんよかったね!本当よかった!」
もくもくとドリアを食べながら会話の渦から離れておく。何やら盛り上がっているらしいので、取り合えず逃げておこう。
前田さん作時短ミートドリアはとても美味しかった。




