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結局、限界は約二週間。
葉山さんと離れられた期間は数えてみると案外短い。この期間の間に起きた事が沢山有りすぎて、妙に長く感じていた。
前田さんの家まで後少しで着くと言った葉山さんに嬉しいような怖いような気持ちになりながら、マンションの階段を降りる。
別れを切り出されるかも知れないとうじうじしながら青い顔をしていた私に、前田さんは大口を開けて心配ないと笑い飛ばした。
ただ、真面目な顔をして――葉山さんがグラついているようなら話を切り上げて帰っておいでとも言った。
階段を降りきった先に、停められた黒い車
――と、ワイシャツ姿の葉山さん。
車を背凭れにして、葉山さんは煙草を燻らせていた。
きゅう、と締め付けられた胸が鼓動を早くして煩くなる。葉山さんは私に気が付いて、ポケットから携帯灰皿を取り出した。
その場から動けない私に、低くて懐かしい葉山さんの声が響く。
「――乗れ」
短く告げられた言葉に、ヒヤリと背中に嫌な汗がつたった。
おずおずと助手席のドアを開け、乗り込んでシートベルトを着ける。
中々顔を上げられない私に葉山さんからの溜め息が届いた。
「元気にしてたか」
「……はい」
「帰ってから話は聞く。……別に、怒ってない」
「すみません……」
「謝る必要もない」
帰ってから、ということは葉山さんの家に行くのだろう。
何をどう話せば良いかと思案している間にも、マンションへは着実に近付いていた。
膝の上でぎゅっと手を握り拳を作っていると、信号で停まったタイミングで葉山さんが私の手の甲に触れる。
びくりと肩を震わせたら、その手はすっと引かれてしまった。
「悪い。……余り強く握るな」
「あ……はい」
心配して、くれたのだろうか。手のひらを開いてちらりと葉山さんを見る。
キリッとした顔立ちは、少し強面で無愛想だ。凛々しい眉が更に強面を際立たせ、神経質そうにも見える。
だけど、割りと几帳面なだけで神経質とまではいかない。一緒に住んで知り始めた葉山さんは、見た目と違って然り気無く優しかった。
***
二十三時を過ぎる頃、私は葉山さんと住んでいたマンションに到着し、テーブルで向かい合っていた。
ホットミルクを作ってくれた葉山さんにお礼を言って、話し始めるタイミングを模索する。
「……あの」
「長かったな」
「え?」
「長い家出だったな、と言ったんだ」
「家出というか、修行というか……」
「崎山の事が原因か?」
切っ掛けはきっとそうだ。こくりと頷いた私に、葉山さんが眉を顰める。
「どうして待たなかった」
「私と葉山さんの予定は、プライベートだったからです。でも崎山さんは……」
「あの場に居たのか?」
鋭い指摘に言葉が詰まる。
知られたくない。浅ましい考えを抱いたことを、葉山さんに知られたくは無かった。
だけど、それを話さなければ私が待たなかった理由はハッキリしない。
「居ました。車の、影に」
「何で出てこなかったんだ。崎山には佐藤と付き合っている事を知られていると話した筈だが」
問い詰める、というよりは、疑問に満ちた問いかけだった。分からないと顔に書いてある葉山さんを見て、そろそろと口を開く。
「知り、たくて。――葉山さんが、崎山さんに何て答えるのか知りたかったんです」
一思いに口に出してみれば、心臓は分かりやすくドクドクと鳴り出した。
「……美月」
呼ばれた名前は甘く響いて、私の耳を刺激する。
そんなに優しく呼ばれたら、また涙が出そうになる。
カタン、と音を立てて椅子から立ち上がった葉山さんは私の方へ近付いた。
「そんな顔をするな。怒ってる訳じゃない。不甲斐無いのは俺の方だ」
手を引かれて席を立つ。
そのまま引っ張られて向かったのはソファーで、葉山さんと隣に並んで座らされた。
「ゆっくり話を進めて行こう。怯えられたままじゃロクに話が出来ない」
そう言って伸ばされた腕は私の背中に回って、ほんの少しの力を込められ葉山さんに傾いた。
「おかえり」
「……た、ただいま、帰りました」
あわあわと動揺する私もお構い無しに、葉山さんは抱き締めた腕を外さない。
「あの、葉山さん」
「結構堪える」
「堪える?」
「――戻って来ると、こんなに嬉しい物なんだな」
確かめるようにキツく抱き締め、私の肩に顔を埋めた葉山さんは、まるで子供のようだった。
またしてもきゅんとした自分自身を慌てて戒めるように口を開く。
「黙って出ていってごめんなさい……」
「キスして良いか」
「……駄目です」
「……」
「それから、私……」
「待て、この歳でこう言うのも何だが」
――今我慢するのは辛い。
呟かれた言葉を聞き終わるなり、即座に触れた唇は温かい。
柔らかい感触と、間近に迫った葉山さんの顔。
強引なキスを受けて思わず身体が後ろに下がろうとしたけれど、がっちりと掴まれた腕が回避を阻んで動けなかった。
触れるだけでは終わらず、入ってきた舌の感触に痺れるような甘さが爪先まで響き渡る。
「――葉山さんっ」
逞しい胸板を押して、葉山さんの身体を押す。
崩れかけのオールバックがたっぷりと色気を醸し出していて、不覚にも数秒見惚れた。
「帰って来た実感がまだ無い」
「だからキスして良いって訳じゃ」
「もう一回させろ」
「駄目です!」
「何でだ」
「話が先!」
「……」
火照る頬を手のひらで覆い、少し葉山さんと距離を取る。これじゃあいつまで経っても話が進まない。
「そうだな。まずは真琴の話を聞かせて貰うか」
「……芹澤さんは、色々な事を教えてくれました。男の人に油断しちゃいけないって事や他にも隙があるといけないって……」
「何でそんな話になった?いきなり真琴がそんな話をするとは思えないが」
一番危ない話題を選んでしまった。
だけど、絶対に言わなくてはならない話だ。
ごくりと唾を飲み込んで、佇まいを正座になおす。いきなりソファーの上で正座した私に葉山さんは目を見開いた。
「私、浮気をしました」
「……」
「葉山さん以外の人と、き、キスを」
「したのか」
「……はい」
「そうか。それは悪い事だな」
考え込むように目を細めながら、葉山さんが私を見つめる。
「美月」
「はい」
「誰とした?」
「我妻さ……WLに居る、社員さんと」
物凄く罪悪感が襲い掛かって来る。
今まで感じていた物よりも何十倍も激しい罪悪感。葉山さんを目の前にしての申告に自責の念は強くなる一方だ。
「すみま」
「事情は分かった。それを話したら真琴がアドバイスをしたという事なんだな?」
「……はい」
「それで、ソイツが好きなのか」
「いえ!全く!……あ、いえ、えっと、恋愛感情は有りません……」
咄嗟に否定した私を見て、葉山さんがくつくつと笑う。怒りの余り笑いが出たのか、それとも前田さん達が言ったように「心配ない」ということなのか分からなくて、ひたすら葉山さんを見つめる事しか出来なかった。
「まぁ、何だ。……腹は立つが、どう考えても合意の上じゃ無さそうだな」
「……合意の上じゃ、有りません」
「だったら許す、と言いたい所だが――」
長い指が私の右耳を悪戯に擽る。
身動ぎして逃げると、葉山さんはぐいっと身体を抱き寄せた。
「良い機会だ。籍を入れるか」
「せき?」
「……惚けるな。分かってるだろう」
「無理です!」
「即答するな」
「葉山さんっ!」
「それで、崎山の事はどう思った」
「話を反らさないで下さい!」
「俺の態度に前田は苛々していたな。真琴も随分と睨んでいた」
もがいても中々離してくれず、挙げ句の果てには話しを摩り替えようとする。
久々の意地悪で強引な葉山さんは、あくまでも今は話を変えさせたいらしかった。
「崎山の必死な姿が美月と似てると思ったのは確かだ。それが切っ掛けで面倒を見てやろうと思った。真琴はやけに辛辣だったからな」
「……好きな子を苛めるってあんな感じかなと思いました」
「好きなのは美月だろう。少なくとも俺はそう思ったから崎山を好きだと言った時に驚いた」
「えっ!?」
思わぬ所で葉山さんは鋭かった。唖然としながら黙って先の話を聞く。
「美月が真琴の手に渡ってから、数日して気付いた。前田の弁当、あれを作ってたのは美月だろう?」
「気付いて、たんですか」
「ああ。確信は無かったが、美月を連れていった割りに真琴は普通だったからな。あいつは顔に出ない分、態度に出やすい。だから、同居は無いと思った」
同居、を強調しながら葉山さんは憶測を語る。
温もりに慣れて来ると、離れようと言う気持ちが薄れてされるがままに引っ付いたままで聞いていた。
「今日の噂を聞いて真琴を問い詰めたら、妙に黙りを決め込んだから……美月に不利な話があるんじゃないかと思い至った。それが何か分からなかったから多少苛立ったが……どうせ、浮気をしたと悩んでいたんだろう」
「悩んでました……」
「だろうな。だから前田にも美月の事を聞いたが、一緒に住んでるとしか言わなかった」
一つずつ、ゆっくりとほどいて話してくれる内容に耳を傾けながら、葉山さんの背中にそろりと腕を回す。
抱き締め返しても良いんだろうか。
恐る恐る背中に腕を回しながら、様子を窺うと葉山さんは微かに肩を揺らして笑った。
「心配するな。何も変わってない。崎山を見て美月を思い出していたのは事実だが、好意を抱いた事は一度も無い。――不安にさせて、悪かった」
「……葉山さんが、崎山さんを送っていったとき、嫌だなって思いました」
「ああ」
「寂しいとも、思いました」
「悪かった」
「不安でした……」
「二度目は無い」
はっきりと告げられた言葉が、私の中の不安を溶かす。会えないと頑なになっていた癖に、会った途端にホッとして。
「――帰って来い」
「それは無理です」
「……」
「まだ、WLで及第点を貰えていないんです。これじゃ出ていった意味が」
「帰って来てくれ。俺は自分で思っているほど寛大じゃないと気付いたばかりだ」
三十路を越えたおじさんが、懇願するように私を強く抱き締めた。
ぴったりとくっついたせいで、心臓の音が聞こえてしまうと恥ずかしくなってしまう。相手はおじさんなのに、おじさんだと思わせない。
おじさんと言うより、やっぱり「葉山さん」で懇願を孕んだ声に思わず頷きそうになる。
こんなの卑怯だ。
年上の人が私みたいな年下に“お願い”するなんてとんでもなく卑怯な行為だ。
だって、そんな風に言われたらどうしたって断れなくなる。




