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「浮気……?」
「そうなの。噂になってるのよ」
帰宅した前田さんは、げっそりとした顔で噂の内容を教えてくれた。
私と芹澤さんが二人で買い物をしていたという噂に尾鰭が付き、付き合っているのでは――と派遣のスタッフ数人が漏らしていたらしい。
否定はしておいたけど、と前田さんは言ってくれたものの、表情はあまり明るくない。
「葉山さんの耳に入っちゃって……しかも芹澤くんは否定もしないし」
「え……?」
「なに考えてるのかは大体分かるけど、葉山さんがどう受け取るかは分かんないし……あと、WLに居るって派遣会社が葉山さんに言ったみたい」
「葉山さんは、今……」
「私が預かってるって話したわ。納得したような顔してたけど――相変わらず崎山は葉山さんに付きまとってるし、それじゃ佐藤さんが帰って来ないのは自業自得よって言ってやりたかったわよ」
頬杖をついて顔を顰めた前田さんは、以前よりずっと厳しい口調でそう言った。
連絡を取りたい気持ちは強いけれど、まだまだ我妻さんからは駄目出しをされる毎日だ。
こんな形で葉山さんに会うのなら、元から家を出なければ良かったという話で。
せめて、自分が決めた目標だけは達成しないと姿を見せられない。
家出をした理由は崎山さんとの一件が切っ掛けでも、私は私なりに成長したいという意思を持って甘えないよう傍を離れた。
――だから。
「もし、葉山さんが崎山さんと付き合っても、私は……」
何も言う資格がない。
我妻さんにしごかれるようになって、自分を見直す事も少しは出来た。
勝手な理由で傍を離れ、甘えを怖れて連絡もしないままに過ごしている。
待ってくれているとも、帰りたいとも思ってはいけないのだと話を聞きながら漠然と受け入れた。
身勝手なのは私だった。前田さんから話を聞いて、私はそれを自覚した。
「私ね、葉山さんは佐藤さんに甘え過ぎてると思ったのよ。だから腹いせにアタフタすれば良いって思ったわ」
「私の方が甘えていたと思います……」
「ううん。葉山さんは配慮が足りないと思うわよ。――だけど、私や芹澤くんの最大の誤算はね、……思ってたより、佐藤さんが我慢強いって事だったの」
前田さんは、ふぅと深く息を吐く。
複雑そうに揺れた瞳は私を映す。けれど、直ぐに綺麗な微笑みに変わった。
「会いたい?」
「……会いたい、です。でも」
「会えない?」
「……はい」
少し躊躇いながら、それでも頷く。
「寂しいって感情は厄介ね。佐藤さんが逞しければ逞しい程、葉山さんは行動を間違えてるんだから。……ねぇ、佐藤さん」
「はい」
「男って、案外繊細な生き物なのよ」
目を細めて諭すように、前田さんが私の手を握った。白くて指は細い綺麗な手は爪をとても短くしていて、本当の意味で“きれい”だと思う。
「引き離した私が言うのは可笑しいけど、葉山さんに、会ってあげて」
前田さんはぽつりと溢すように話した。
私が思いの外我慢強く、予想外に葉山さんの方が落ち込んでしまったと。会えない時間が長くなればなるほどに、葉山さんは判断を誤っているのかも知れない、と。
私が葉山さんの家を出て数日、葉山さんは崎山さんを出来る限り避けるようにしていたこと。
一週間が過ぎた頃には、崎山さんを見て物憂げな顔をし始めたこと。
毎日芹澤さんに私の近況を聞いていたけれど、芹澤さんは頑なに「頑張っている最中だから」としか言わなかったということも。
そして、今日前田さんが聞いた噂を葉山さんも聞いてしまい、芹澤さんを問い詰めた時答えが否定ではなかったことに――葉山さんが拳を握り締めたということ。
「帰って来ないって、思ってるのかも知れないわ。佐藤さんは葉山さんの為に頑張ろうとしてるのにね」
どう答えて良いか、分からなかった。
葉山さんの隣に並べるように、と頑張っていたけれど、葉山さんの為かと言われたらそれは違うような気もして。
自分の為に、という方がきっと正しい。
「崎山を見て、佐藤さんのこと考えてるんじゃないかな……って思うのよ。ムシの良い話だけど、葉山さんに一度会ってあげて欲しいの」
「前田さん……」
「葉山さんに頼らないように必死になってるのは知ってる。だけど、二人の仲を壊したかった訳じゃないの」
申し訳なさそうに眉を寄せて、前田さんはテーブルに項垂れた。
二人の仲を壊したかった訳じゃない、ということは。もう既に葉山さんは気持ちが変わってしまう所まで行っているということだろうか。
崎山さんが、葉山さんの中に。
そう考えたら、どうしようもなく胸が痛い。
会いたい。
今すぐ会って、葉山さんと話したい。
なのに、心のどこかで会ったら絶対にまた一緒に暮らしたくなるからダメだと、ブレーキを掛ける気持ちがある。
「……私、まだ全然ちゃんと出来てないんです。我妻さんにも駄目出しばっかりされて、何も出来てないのに」
なに一つ完璧になれていない。
及第点にも達していない。
会うのは他の人に油断した手前後ろめたくて、別れを告げられるのが怖くて、どんな態度を取られるか不安で――
「崎山さんを葉山さんが選んでも、仕方がないって思うんです。別れようって言われても、拒否出来ないって思うんです」
だけど。
「だけど、やっぱり……」
がばっと前田さんが顔を上げた。
「あいたい……」
ごめんなさい、と謝りたい。
油断して、他の人とキスしてごめんなさい。連絡をしないまま、家を出ていってごめんなさい。心配かけて、自分勝手なことをして、ごめんなさい。
沢山話したいことがある。
葉山さんに聞いて欲しい。
胸いっぱいに広がる切なさと、顔を思い出すだけで涙が出そうになる恋しさ。
堰を切ったように溢れた寂しさは、もう押し込められそうに無かった。
「葉山さんにあいたい……」
じわじわと滲んで来る涙の向こうで、前田さんが大きく頷く。
「佐藤さんの必死の頑張りを邪魔しちゃってごめんなさい。……だけど、ありがとう。三十路も過ぎると男は変に弱気になるのよね。しかも、こんな若い子が相手だから尚更ね」
テーブル脇にあった鞄を引っ張って、前田さんは携帯を取り出した。
電話の向こうから響いた怒鳴り声は私にまで聞こえて来て、その声にまた涙が出る。
葉山さんに会ってから、随分と涙脆くなっていた。




