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「お疲れ様でした」


 事務所を出て、家路につく。


 今日は夜が無しだから、夕飯をゆっくり作れるだろう。ハギノと違い、WLは同じ派遣を昼と夜のどちらにも出すという事が殆んどない。


 つまり、今日は昼だけだ。それでも給料に思い切り響いていないのは、派遣会社の出してくれる交通費が大幅に増えたからだろう。


 頑張った分だけ、派遣会社は評価してくれた。それもまた恵まれている事だと思う。



 控え室に降りて、私服に着替える。



 黒いパンツに無地Tシャツ、パーカーを羽織ってシニヨンを外す。短かった髪は肩に垂れるくらいには延び、纏めていたせいで毛先が僅かに波打っていた。


 控え室を出ると、目の前に我妻さんが立っていて。


「……」

「……お前な、当て付けか」

「こ、こんにちは……」


 ぶすくれた不機嫌な我妻さんが、壁に背中を預けて私を見る。このまま会わずに帰ると思っていた分、驚きがあからさまに顔に出てしまった。


「態度見てりゃ分かるんだよ」

「……何がですか?」

「昨日の男。婚約者でも何でもねぇだろ」


 物凄くあっさり見抜かれてしまった。


 気まずく思いながらも、否定するのは難しい。前田さんが言った徹底的に無視作戦は、私には実行出来なさそうだ。


「――お前、留学してみるか。向こうの知り合いに頼ん」

「いえ、大丈夫です」

「早ぇよ」


 大袈裟に溜め息を吐いた我妻さんが、すぅっと目を細めて私を射抜く。


「それなら、WLで具体的に何をするつもりか言ってみろ。俺への当ては外れたんだろ」

「……スキルアップを」

「出来ると思うか?本当に」


 今日の我妻さんは黒だ。痛いところを突いてくる。


 WLで学べる事は沢山あると思っているのに――今日の私には何となく張りがない。


「期待が八割だったんだろ?俺に聞きたい事があった。俺に負けたくなかった。どっちも呆気なく崩れたから、今のお前は萎んでる」

「そんな事は、ありません。WLに居れば忍耐力もつきますし……」

「お前が目指してるのは何だよ。社員になる事か?それとも経験を積みたいのか?」

「どっちも、です」

「なら、WLだけに拘る必要はねぇだろうが」


 言われてみれば、そうだった。WLで学べると意気込んでいた筈なのに、スタッフの技術はハギノの方が優れているような気がしていて。


「WLはマニュアル通りの接客しかしてない。お前みたいなのがスキルアップに来るような場所じゃねーよ」


 お前みたいなのってどういう意味ですか、という意味を込めて、我妻さんを睨んでみる。


「ちょっかいかけて悪かったな。まだここに来るんなら、俺はお前にモーション掛ける。少しでも近くに居れば俺にも可能性はあるからな」


 その言葉を聞いて我妻さんの真意を悟ったような気がした。


 気まずいなら、逃げても良い。寧ろそうしろ、と言ってるのだ。


「正直、難しいと思いました……」

「あん?」

「恋愛は私の頭の中を埋め尽くしてしまうなぁって、実感しました」

「……左右されない奴の方が少ないだろ」


 違ったんだ。本当はWLに落胆したから張りが無いんじゃない。


 頭の中で一番に考えている事が、恋愛のことばかりになったからだ。


 気が反れて、見えなくなった私の大好きな仕事たち。常に優先順位が一番だったのは、いつも配膳の仕事だった。


 WLの人間関係には辟易とする。ハギノに戻りたいとも思う。だけど、それで本当に良いのか。



 ――良くない。



 だって、WLは一流だ。裏側がどうであれ、一流だと言われるだけのものがある。



 それを忘れそうになっていたのは、裏側への落胆と恋愛に左右されたからで。


「我妻さん」

「……何だよ」

「ごめんなさい。気を遣わせてしまって、すみませんでした」

「は?」

「私、頑張ります。WLにはもっと見るべきものがあるって、改めて分かりました。裏側じゃなくて、表に全てが詰まってる」



 お客さんが入った後、谷澤チーフは必ず自分の足で確認しに会場に入る。


 変更は無いか、間違いはないか。派遣の扱いがどうであれ、谷澤チーフは自分の目で必ず一度は確認に来ていた。


 無茶を言われた時の為にと、厨房への用意もお願いして。それは、アレルギーの人への配慮だったり、子供への配慮だったりと様々で。


 人間関係を見るんじゃなくて、欠点ばかりを見るんじゃなくて、お客さんからの目線でWLの接客を見る。


「お客さんがどんな風に見えてるか。それを考えながら頑張ってみます。今とは違う事が分かるはず……」

「どこでそうなるんだよお前の頭は」

「え?」

「思考回路はどうなってんだ」

「いや、え?どういう事ですか?」

「何でもねぇ!その様子じゃ、辞めないんだろ?」

「はいっ!」

「しごくぞ。前より厳しく使ってやる」

「はい」

「そこで返事するんだもんな……お前は」


 はぁ、とため息を吐いた我妻さんはゆるやかに笑みを作り頷いた。


「分かった。お前がそのつもりなら、俺もそうしてやるよ。感情は二の次にして……お前をなるべく成長させてやる」


 その言葉通り、我妻さんは次の日から私への態度を変えた。



 意地悪でもなくかといって優しくもなく、私を厳しく指導して。



 谷澤チーフの思惑や派遣の入り交じる中での動き方、言葉が通じない相手への分かりやすい対応から、終盤に掛けて起こりやすい気の緩み故の失敗、スタッフ以上黒服未満の仕事を教えられて、四日目が過ぎた頃には嫌味にもすっかり慣れてしまっていた。



 谷澤チーフは何も見ていない訳ではなく、向上心が強い人を優先的に見るタイプで精進するつもりのない人間は徹底的に邪魔者扱いをする。



 私の業務への姿勢は向上心があると言うよりも、経験の長さが動作に滲み出ている自然的なものだと我妻さんは言った。


 ハングリー精神よりも目立つ、周りへの気遣いと無難な態度。


 それは谷澤チーフの中では“向上心”と判断されなかった、ということらしい。


 改めて言われたら、WLに入る時はとにかくフォローに一生懸命になっていたと自分でも思った。



 そして、五日目の今日。



 私は事務所で目を見開き立ち尽くしていた。


「以上」


 谷澤チーフの説明が終わり、スタッフがバラバラと動き出す。


 黒服から指示を与えられて出ていくスタッフを尻目に、私は静かに深呼吸をした。


 我妻さんが私に近付く。


 ここ数日で我妻さんから“贔屓”されていると派遣の子達には影で言われ始めたけれど、我妻さんは全く気にしていない。私も私で、なるべく考えないようにして来た。


 我妻さんだって、何も考えていない訳じゃない。私以外に指示をしないという事も無いし、ただ私へ指示の他の人よりも多くて厳しいものになったというだけだ。


 スピードや完成度の重視される仕事をひっきりなしに回してくる。余計な事を考える暇もなく、走り回っているばかりだった。


「どうした?」

「いえ、何でもありません」

「そうか。披露宴は途中で抜けろよ。八時からは下の階でパーティーがある」

「分かりました」


 視界に写った背中は、見覚えのあるものだった。つり上がった強気な目、利発そうな顔立ち。高い声はよく通り、性格には完璧主義の傾向がある。


「あの、」


 聞く必要はないと分かっているのに、気になってしまう。


「さっき、最後に来た派遣会社のスタッフって……」

「ああ、噂になってるらしいな。俺も一回だけ同じ会場に入った」


 我妻さんはホワイトボードを見て、事も無げに名前を口にした。


「……えーっと、そうだ、宮坂だな」


 やっぱりそうですよね。がっくりと項垂れた私に怪訝な顔をする我妻さん。


 気持ちを切り替えながら、披露宴会場へ歩き出した。



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