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居酒屋を出てネットカフェに向かう道中、お酒を全く口にしなかった葉山さんは業務連絡を伝えるみたいな話し方で私に説明してくれた。
今、葉山さんが住んでいるのは働いているホテルまで車で十分程度の距離しかないマンションで、3LDKらしい。その広さに驚いた私に苦々しい顔で葉山さんは父親からの遅すぎる就職祝いだと告げた。どんな金持ちだ、と思ったのは秘密だが、3LDKで部屋が余っているからこそ受け入れてもいいと思ったらしい葉山さんにぎこちなくお礼を言って頷いた。家事やごみだしなんかはやらなくても良いと言われたけれど、なるべく出来ることはやりたいと志願した私に葉山さんは、詳細は自宅についてから決めるとばっさり話を断ち切った。
ネットカフェに戻った私は入り口でお金を払い一番短いコースを選ぶ。入って出るだけなんて、とんでもなく勿体ない。けれど、葉山さんが出してくれると言ったのでそこは遠慮なく甘えておいた。最初からそういう話だったからそこらへんは割り切っている。
――すみません、都合の良いときだけ守銭奴です。
手短に事情を話した私に明子さんは飛び上がって喜んでくれる。きゃいきゃいと騒ぐ明子さんに宛がって貰った仕事のことを謝ると、気にしなくていいと朗らかに笑ってくれた。聞かされてはいなかったけれど、実は明子さんのお兄さんがオーナーらしい。だから大丈夫だと言う明子さんに最後まで申し訳なく思いながら後ろ髪を引かれる思いで、外で待っている葉山さんの所へ戻った。
「荷物はそれだけか?」
「あとは……駅に、少し」
「分かった」
葉山さんが私に住居を提供してくれたのは、恐らく何とも思っていないからだ。何とも、と言うのは語弊があるが、親切心だけで恋愛感情なんてものが恐らくないんだと思う。私が葉山さんをおじさんと思っているように、葉山さんも私を小娘と思っている。態度や口調からそれを何となく感じた私は一番気になっていた事を尋ねることにした。
「あの、葉山さんって彼女は居ないんですか?」
「居たらお前を家に受け入れてない」
「ですよね……」
やっぱり、というか。たかが小娘でも一応は女。彼女が居るのならきっとこんな風に私を受け入れたりはしなかっただろう。葉山さんの期待に答えなければ、と強く思う。投資されるような価値が自分にあるとは思えないけれど、出来る限りの事はやって葉山さんの施しに見合う働きをしたい。
今以上に仕事を頑張ること、それが当面の目標だ。
「お前は?」
「はい?」
「居ないのか、恋人」
「恋人……」
葉山さんの口から恋人と言う言葉が出てくるのには何故か抵抗があった。似合わないと言うと失礼だが、そんなイメージが全く湧かない。
「居ないです」
「だろうな」
カーン!とまた第二ラウンドが始まりそうになったけれど、さっきみたいに丸め込まれては洒落にならない。
少しだけこめかみをひくりとさせながら冷静に聞く。
「だろうなってどういう意味ですか」
「居たらネットカフェで生活したりしないだろう。正確にはあそこにいつから住んでたんだ?」
「三ヶ月くらいですけど……」
こんなに会話をするのは初めてかもしれない。葉山さんとプライベートな言葉を交わすのは新鮮で、もくもくといろいろ聞いてみたい好奇心が沸いてきたけれど、機嫌を損ねたらまた怒鳴られそうで諦めた。答えた私に深いため息が落ちて、呆れた顔が向けられる。
「……お前は馬鹿なのか?」
「葉山さんって仕事以外で喋るとかなり失礼な人なんですね」
案外、無口なのかと思ったらそうでもないらしい。失礼な事をずけずけといってくる葉山さんに言い返して、シートベルトをぎゅっと握る。皺にならない程度に。
「佐藤は意外と頑固だな。素直で元気が良いのは仕事だけか」
「……別に、普段もあんまり変わりませんけど」
「さっきからむくれた顔しかしてないだろう。少しくらい笑ったらどうだ」
「楽しかったら自然に笑います」
「子供みたいな事言うんだな。ああ、まだ子供か」
神経を逆撫でするような人はたまに居る。普段はあんまり気にしない私の性格でも、今の葉山さんは意地悪に見えた。いちいち相手をするよりも受け流した方が楽だと社会人になってから思うようになったけれど、葉山さんは不思議と私をピンポイントで苛立たせるようなところをついてくる。
「私、葉山さんは無口な人だと思ってました。結構話すんですね」
「そうでもないぞ」
「え?」
「話したくないときは話さない」
「今は話したいんですか?」
「そうだな」
乗り心地の良いシートは綺麗で、車の中は整頓されていた。几帳面な葉山さんとどちらかと言えば大雑把な私。一緒に暮らすには問題が有りそうだと思う反面、ネットカフェで眠らなくても大丈夫になった安堵もある。
朧気に会話をしながらうとうとしていた私に突如衝撃が襲う。
「着いたぞ。降りろ」
葉山さんの手にはいつの間に持ったやら、ミニハリセンが握られていた。何故かハリセン好きな上司に恨みがしい思いで頷き、はっとする。
「駅は……?」
「お前のポケットから鍵抜いて俺が取ってきた」
覚醒した私の視界には駐車場が写る。まさかこれはもうマンションか。途中で荷物を詰む予定だったけれど、私が居眠りした隙に葉山さんが取りに行ってくれたらしい。
「すみません……心の底からすみません……」
「気にするな。それ持ってこい」
それ、と私のボストンバックを指差して、葉山さんは荷物の殆どを抱えて先に歩き始める。慌ててついていく私の後ろで車の遠隔ロックが掛かった音がした。
「自分で持ちます!」
「いい。八階押せ」
「はい!」
何から何まで迷惑を掛けている私に、今日初めて与えられたエレベーターのボタンを押すという仕事。取り合えず気合い充分に返事をして力の限りボタンを押す。これしか役に立っていないと思うと恥ずかしさと申し訳なさが込み上げて来たけれど、葉山さんは特に普通の真顔で私を見つめていた。
「軽く押してもエレベーターは来る」
知ってます、と生意気に返そうかと思ったけれどまた何か言われるのは嫌だ。ここは素直に頷いておく。気合いを込めたらやりきった感があるかとちょっと思っただけだ。
現状、今は葉山さんに頼りきり。何かしたいと思ってもそつなくこなす葉山さん相手に先回りは難しかった。
「家の鍵、俺のポケットに入ってる。取って開けろ」
「はい!」
よし来た!とばかりにポケットから鍵を取り出して握る。さぁさぁ何でも言って下さいといきなり使命感に燃える私に呆れた顔で溜め息を吐く葉山さん。ちょっとわざとらしかったかも知れないと反省しつつ、エレベーターが八階に到着したので降りる。
八○三と掛かれた部屋の前で葉山さんが立ち止まり、私もその部屋の鍵穴に鍵を差し込んだ。
がちゃりと鳴って、鍵が開く。
ノブを握りあける前に葉山さんを見ると、早く入れと言わんばかりの鋭い目を向けられた。
「……お邪魔します」
ドアを開けて中に入ったと同時に葉山さんが電気をつけてくれる。パッと照らされた玄関は思いの外綺麗で、フローリングの廊下も真新しい雰囲気を放っていた。
「佐藤、リビング入って右のドアがお前の部屋だ」
「あっ、はい!」
玄関で立ち止まっていた私を呼ぶ声がして、急いで靴を脱ぎ上がる。
リビングはシンプルで黒基調、汚れていない空間がモデルルームみたいで違和感を覚えた。雑貨もない、無駄のないリビング。
「葉山さん、ここって住み始めてまだ浅いですか?」
「よく分かったな。まだ一ヶ月強って所だろう」
「そんな新しい部屋に私が入っていいんですか?」
住み始めたばかりの家を他人に汚されるのは私だったら絶対に嫌だ。葉山さんは嫌じゃないのかと不思議に思ったけれど、荷物を運び終わって振り返った顔は興味無さそうなものだった。
「別にどうでもいい」
本当にどうでもいいと思っている口調は嘘がなく、気負ってしまう私には有難い。素でそう思ってくれているのなら、新居にお邪魔するという罪悪感も多少は和らぐ。
割り当てられた部屋の中を覗いて、気付いたのは既に置いてあるベッド。
「あれ、もしかして誰かと住む予定だったんじゃ……?」
「芹澤がたまに泊まりに来るから買っただけだ。前のマンションからの持ち越しだから気にするなよ」
的確かつ簡潔な回答はどこか芹澤さんと似たものを感じさせる。首を傾げた私に気付いたのか、葉山さんは首の後ろに手を宛てて言いにくそうに言った。
「芹澤は実の弟だ。親が離婚して母親に引き取られたんだ。俺は父親にな」
「弟さんだったんですか……!」
兄弟で黒服、ある意味すごい。でも何となく二人が似ているのは雰囲気でわかる。冷たい物言いや突き放したような態度、兄弟と言われたら納得出来る。
「同じホテルに入ったのは偶然だけどな。社員は全員知ってる話だ」
「偶然って……すごいですね。そういえば、芹澤さんと葉山さん似てます」
「……似てないだろう。どこをどう見たらそんな事が言えるんだ?」
「全部です。雰囲気とか、性格とか?」
兄弟同士で似ていると言うと当人同士は決まって似ていないと言うことが多いけれど、葉山さんと芹澤さんもそうらしい。端から見ると怖い所はそっくりだ。
「佐藤、お前、明日は何時入りになってるんだ?」
「明日は九時です。派遣は私含めて四人入りますけど……葉山さんは?」
「八時半。多分、会場は違うだろうな。婚礼の設営って聞いてる」
「そうですか」
明日はうちの会社の派遣から四人出る事になっている。私以外で入る三人はおばさまで主婦の派遣さんだ。葉山さんの顔を仕事でもプライベートでも見ることになると思うと、今までには無かった気恥ずかしさがある。けれど、会場が違うなら多少は顔を見なくて済むかも知れない。
ほっとした私に目敏く葉山さんが気付く。
「お前、何を考えてるか知らないが、社員は知ってるんだから今さらだろう」
「……ですよね」
もっともらしい葉山さんに頷いて、ふいに気が付く。
そういえば、さっきは居酒屋で枝豆しか食べていなかったような気がする。私はハヤシライスを食べていたからいいものの、葉山さんはおじさん、とは断じて口に出せないが大人の男性だ。
「お腹空いてませんか?」
「空いたのか?」
「私じゃなくて葉山さんです。さっき枝豆しか食べて無かったから」
「よく見てるな。やっぱりこっちに引き摺って正解だった」
「誰でも気が付くと思いますけど」
仏頂面を和らげてシニカルな笑みを見せる葉山さんは無表情の冷血漢とはまた違う雰囲気で否応なしにどきどきする。第三ボタンまで外されたシャツからうっすら覗く鎖骨が、大人っぽくで何故か不安になった。
「俺はカップ麺でも食べて済ませる。お前も食べるか?」
「大丈夫です」
「その大丈夫はどっちの意味だ」
「いりません、の大丈夫です」
「分かった。キッチンの説明をしておくから着いて来い」
踵を返した葉山さんに続いてリビングを歩いていく。
よく見た事は無かったけれど、葉山さんは細身なのに意外と筋肉質で背中はがっちりしている。歩く度に揺れるカッターシャツの下から透けたタンクトップが見えた。
父親の背中はどんなものだっただろう。まじまじと見た事は一度もなく、思い出せそうには無かった。
一通りの使い方を教わって、カップ麺にお湯を入れる葉山さんを尻目に復習する。saltが塩、sugarが砂糖、当たり前だが間違えないよう確認した。他にもお洒落に英語で書かれた調味料がずらりと並んでいる。英語は苦手なのに……!
基本的に好きに使っていいと言われ、本当にそんなに自由にさせて貰っていいのか不安を抱く。足りなくなったらその都度書い足して行けば問題ないとは思うけれど、どこのメーカーかは必ず確認しておこう。調味料を間違えて買ってしまうのは私のよくある失敗で、気を引き締めて見渡した。
一通りの調理器具も揃っていて、料理をする環境は整っているのに葉山さんはまるで適当な説明でざっくばらんにキッチンを紹介した。変だな、と思い聞いてみると、料理をするのは殆どが芹澤さんで葉山さんは店屋物や冷凍食品、インスタント食品なんかで済ませる事の方が多いらしい。
「朝と夜は葉山さんの分も作って大丈夫ですか?」
朝は食べない人や他人の作ったものに不安がある人は勝手に作られたら困るかも知れない。一応、と尋ねた私に葉山さんが今日初めて驚いた顔をした。
「料理が出来るのか?」
「……少し、くらいは」
一人暮らし歴約三年、美味しいものが作れるかと言われたら作れないかもしれないが、一般的な料理は出来るはず。たまに失敗するのはご愛嬌としても食べられないほどではないと自負している。
「じゃあ、時間が合う時は頼む。夜は……そうだな、お前残業メンバーで優先にしていいか?」
「はい、大丈夫です」
十八歳を過ぎてから、残業というものが増えた。終業時間は基本が十八時、夜は遅くても二十二時までだったのが二十三時までになったりもしている。けれど、夕方から入った派遣の人が残業する事の方が多く、私はまだ十代というのもあって、優先的に夕方で上がるようにチーフが気遣ってくれていた。
今ではちらほら年下の子が入って来て前よりやり易くはなったけれど、派遣スタッフの代表として私が指導するのに年上は良い顔をしない。
夜まで働いているスタッフは年上が多く、派遣会社もなるべく私が夕方で終わるようにしてくれている。葉山さんが残業メンバーで優先にしてくれるというのは、残業する際に黒服が残すメンバーを選ぶからだ。そこに私を入れてくれるという意味での優先、以前より長時間働きたい私はそのまま頷いた。
「宮坂とは顔を合わせないように組むから安心して残業していい」
「私は……なんとか大丈夫です」
「まぁ……お前はな」
宮坂愛美さんは二十二歳の大学生で、派遣を初めて一年半のスタッフだ。私が残業出来るようになった頃から頻繁に入るようになり、将来はウエディングプランナーになりたいらしい。
派遣先はホテルのみにして欲しいとごり押しして精力的に仕事に取り組む美人な人だけれど、プライドが高く少しエリート意識が強いせいで、私が指導係なのが気に入らないらしい。
てきぱきした手腕を凄いとは思う。でも、嫌がらせに怯えたり泣いたりするような純粋な時期を過ぎて内心やさぐれ気味な私は、何かされても嫌味を交えて受け流すようになっていた。
「すぐに泣いてしまうんですよね……」
「見た目と違って佐藤は逞しいからそう思うんだろう」
実は宮坂さん、すごく打たれ弱い。高飛車な物言いをする割りに言い返すとすぐに泣いてしまう。強気な姿勢は私と対峙すると五分も持たない実はか弱い美人さんでもあった。それなのに嫌がらせを止めない辺り、もはや嫌い好き云々より意地になっているんじゃないかと思える節がある。
宮坂さんが泣くと周りに迷惑を掛けることになるので自重はしているけれど、同じ会場に入ってねちねちと悪口を言われ続けたらつい言い返してしまう。そんな私と宮坂さんを見兼ねたチーフが一緒の会場に入らないよう配慮してくれて、黒服も私と宮坂さんを組ませないように考えてくれている。
実は、こういう人間関係での組み合わせというものは他にも沢山あって、派遣先とホテル側では相性の悪い人を極力一緒にしないよう考えて人を送ったり組んだりしていたりする。つまり、相性が悪いのは私と宮坂さんだけではなくて。
「田所と山本も組むの駄目だっただろう?……アレは筋金入りのライバルみたいなもんだ」
葉山さんが口にした二人は高校三年生の女の子達で元カノ今カノとかいう複雑な関係らしい。
「あの二人はどっちかって言うと行き過ぎて仲が良いような気もしますけど……」
「無闇に張り合うのは空気を悪くする。裏だけなら良いけどな」
お互いが仕事で張り合う二人はどちらかと言えば切磋琢磨しているようにも見えるけれど、やり過ぎはやっぱり禁物だ。葉山さんがそう言ったと言うことは裏で見せる調子のまま表の会場に入ってしまったのだろう。
カップ麺の麺を無表情で啜っている葉山さんを見ていると、少し笑みが溢れてきた。今まで話せなかった派遣の人達の話が出来るようになるのはとても楽しい。
自分の知らなかった派遣スタッフの一面を垣間見れたのは、非常に有意義なことだった。
「あんまり葉山さんとこういう話はしたこと無いですね」
「お前は常に走り回ってるからな。勤務中に殆ど無駄話しない若い奴なんてのはお前くらいなものだろう」
「そんなに走り回ってません」
それだけを聞くと私が落ち着きがない子供のように思えてしまう。ムッとした私にまたもや葉山さんは鼻で笑った。
「風呂は?」
「夕方にネットカフェでシャワーを浴びました」
「もしかして、三ヶ月ずっとそんな感じだったのか?」
「いえ、やっぱり浴槽に入りたいので銭湯に行ってました」
「ああ、南駅の方のか」
「はい」
最後にスープを一口飲んで手を合わせた葉山さんを見ていると、急にポケットで携帯が震えた。開いて確認してみると、明日の予定に追加があったらしい。
「明日、夜にも出て欲しいって今メールが来ました」
誰かがキャンセルして人数が足りなくなったとか。慌てたような文面に笑いを堪えながら葉山さんに伝えると、難しい顔をして此方を見ていた。
「明日の婚礼は開始が遅いぞ?夕方までだろう。間の時間はどうするつもりだ」
「夜まで追加である時は、控え室で時間潰してますよ」
朝から仕事がある時はまず準備を行い、昼のパーティーや会食が終わって片付け、そのあと夕方からのパーティーに向けて設営に回される。私の基本的な仕事はそんな流れで行われ、早いときは十五時で終わる時もある。夕方からの勤務をする場合は誰でも基本十八時から二十二時まで、二十二時までに終わらなければ残業だ。
私が続けて入る時は残業扱いにならないよう夕方までで一度切り、夜は新しく入ることになる。その間の時間は決して休憩としては短く無いが、ネットカフェまで戻るには時間が足りない。
朝から深夜まで働く派遣は一度途中で切って入るのが普通だった。他にも数人昼夜働くタイプの人は居るが、みんな一様にそうやっている。
「残業になると金額が違うからか。……派遣も辛いな」
「慣れたらそうでも無いと思います。時給は良いですし」
時給の良さであまりそこは気にならない。私だけでなく、他の人も多分そう思っているだろう。
「そう言えば……葉山さんってチーフマネージャーになるって本当ですか?」
「派遣は一体どこからそういう話を聞いて来るんだ」
ちらりと耳にした話を出してみると、呆れ気味に葉山さんは答えてくれた。
最近になって葉山さんはチーフと組む事が増え昇進は秒読みと言われていた。だから信憑性は高いと思っていたけれど、まさかそれが本当とは。
「壁に耳あり障子に目ありですね」
「お前達は噂話ばっかりして……まだ発表されてないんだから黙っておけ」
「言いませんよ。でもマネージャーになったら更に怖がる子が増えそうです」
何となくマネージャー姿を思い浮かべながら予想を口に出してみる。厳しくて顔も怖くてすぐ怒鳴る、新人の女の子からは怖がられそうだ。
「鍵、渡しておく。俺の方が朝は早いからな。昼休みに俺が合鍵作りに行くからそれまで無くすなよ」
「夕方が終わってから次まで時間ありますよ。私が行きましょうか? ホームセンターで合鍵って作れますよね?」
「ああ、じゃあ作って来てくれ」
「分かりました」
渡された鍵を無くさないように握りしめ、財布に入れておこうと決める。キーホルダーも何もついていないシンプルな裸の鍵はどことなく葉山さんらしい。これで可愛らしいキーホルダーなんかをつけていたらギャップ萌えというやつが体験出来たのかもしれない。
「じゃあ、俺は風呂入ってもう寝る。佐藤もゆっくり休め」
「はい。おやすみなさい」
葉山さんに挨拶をして自室に戻りながら深呼吸をする。やっぱりまだ緊張する。会話を重ねてもこればっかりは慣れだ。それまではこの肩が凝りそうな態度を崩せない。本来の私はもう少しがさつで開けっ広げな所がある。一人になって漸く気が緩んだ気がした。
「大丈夫かな、私」
上司と同居、しかも派遣先の上司というだけで派遣会社からしたら取引先。何か失礼があったらいけない。……とは思っても、強引に連れてこられた時点で私の仮面は剥がれかけているような。
「おやすみなさい」
簡易ベッドとは言えないくらい気持ちの良いマットレスが引かれているベッド。芹澤さんに借りたお礼を言わないといけないと考えながら、夢の中に落ちた。