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25

 たっぷり料理を堪能してから、そろそろ出ようかと言う頃合いを狙って私は先に鞄から財布を取り出した。


 然り気無く後ろに隠しながら、会計を済ませる為に席を立つ。芹澤さんの一歩後ろを歩きながら、その瞬間を狙って――


「……あの、芹澤さん」


 するりと会計をスルーして出た芹澤さんに、おそるおそる問い掛ける。


「支払い、は……」

「さっき払ったから」


 ああ、やっぱり。

 がっくりと項垂れた私を勇気付けるかのように芹澤さんは親指を立てた。


「結構、こういう所って気取った客が多いから、相手に知られない内に会計するのも簡単なんだ。店側が慣れてるし」


 だから美月が気付かないのも当たり前だよ、と追い討ちなのか励ましなのかよく分からない台詞を呟きながら、飄々とエレベーターに乗り込む意地悪な芹澤さん。


「なにか食べたいものがありますか?」


 苦し紛れの提案にも首を横に振るばかり。エレベーター内で何度か応酬を重ねた結果、焼き鳥を奢らせて貰う事になった。


 二万円の焼き鳥は、一体どこで食べられるんだろう。服代とビュッフェ代、車を出してくれたのでガソリン代も。


 合計いくらになるか詳しくは分からないけれど、大体二万弱の筈だ。


 チン、と鳴ったエレベーターから降りて、ワンピースの裾を気にしながら歩く。


 すらりと伸びた芹澤さんの足は急に止まり、思わずぶつかりそうになった。


「美月」

「はい?」

「真琴って呼んで」

「真琴さん?」

「そう。それで良い」


 真琴って誰ですか――と言い掛けて、芹澤さんの名前だと思い出す。


 慌てて拒否の言葉を紡ごうとした私の視界に、一瞬映る悪魔の姿。


「ほらね、こういうのって絶対にタイミング悪いんだよ」


 こっそりと呟いた芹澤さんに、私はぎこちなく視線を向けた。


「浮気現場にバッタリって、よくあるし。でも、この場合はタイミングが“良い”になるのかな」


 そんなにあっさり言いますか、と言いたいけれど口は動かない。私と芹澤さんの前方に立つ、我妻さんがそこに居た。


 中々前を向けない私を急かすように、芹澤さんは腰回りをぐっと押す。


 何となく気まずいのはキスをしたからなのか、それともすっかり忘れてしまっていたからなのか。


 料理を楽しみ過ぎて頭の中から抜け落ちていた本来の目的に、今更ながら背筋が凍る。目線は鋭く、まるで身体に突き刺さるかの如く感じていた。


「こんにちは……」


 絞り出した挨拶に、我妻さんがにっこりと微笑んだ。


「こんにちは。今日はお客様ですね」


 プロ……!プロだ!あんな事があった後でも我妻さんは完璧だ。


 もしかしたら、我妻さんにとってキスは挨拶だったのかも知れない。


 微妙な期待を膨らませつつ、隣の芹澤さんを見る。我妻さんの姿を見れたのだから目的は達成したと、思っていた。


「いつも美月がお世話になっています」


 そう言って冷笑した芹澤さんに、私の心臓がどくんっと鳴る。


 我妻さんはにっこりと、芹澤さんはクスリと。温度差があるように見えて、どちらも腹黒そうな笑み。


 何だかとても走り抜けたい気分になりながら、歩みを進めた芹澤さんに釣られるように歩き出した。


「いえ、こちらこそ。よく出来た従業員で助かっています」


 絶対に嘘だと言いたくなる台詞を、すらすら吐き出す我妻さん。


「それは良かった。WLに勤務するようになって、毎日疲れて帰って来るので心配だったんですよ」

「……そうでしたか。大変優秀なので、つい期待を掛けてしまいまして」

「ええ、でも仕事ですから。口を出す気は有りません」


 誰……この二人は誰……!

 お客様用の口調で話す二人に寒気を感じつつ、すれ違うかどうかと言う所に差し掛かりホッとしたのも束の間、芹澤さんは足を止めた。


「横槍は勘弁して下さい。来春、結婚を控えていますので」

「……それは、」

「美月、出よう」

「えっ、あ、はい……。我妻さん、お疲れ様です。失礼します」

「……ああ」


 すたすたと歩き出してしまった芹澤さんの後を追い、急展開の状況に困惑する事しか出来ない。


 芹澤さんはきっと助けてくれたのだと分かっている。それなのに、こんな風に我妻さんと対峙してしまった事にも胸がもやもやとした。



「美月は真っ直ぐだから、付け込まれる。こうでもしなきゃアイツ諦めないでしょ」

「芹澤さん……」

「自分で言えば良かったとか、ただの勘違いじゃないのかとか、考えるだけ無駄」


 ドアマンに見送られ、駐車場へと歩いていく。


「アイツは間違いなく美月が好きだよ。じゃなきゃキスなんてしない。ついでに言えば、美月が自力で逃げ切れる相手でも無さそうだ」

「そう、でしょうか。直接我妻さんから聞いても無いのに、決め付けるのは何だか違う気がして……」

「直接聞いたら美月は悩む。そうなるように仕向けるだろうね。厄介なヤツに好かれるのかも」


 運転席に乗り込んだ芹澤さんに数秒遅れを取りながら、私も助手席に乗り込んだ。


 恋愛沙汰の全く無かった今までを考えると、好かれているという事を中々ちゃんと受け入れられない。


 悩むばかりで解決が出来ない癖に、こうしてじめじめと落ち込んで。


「早く自衛出来るようになって。さっきのだって、ただの牽制にしかならないし」

「……はい、頑張ります」

「恋愛下手。しかも不器用。女の子なのに美月は珍しいよ」

「そんな機会が、無かったので」

「落ち込んでも良いけど、ちゃんと元気になってよね。美月へこませると前田さんにどつかれるから」


 もう少し、しっかり考えて行動しよう。


 大雑把な性格だと知ってはいるけれど、今回ばかりは丸投げ出来そうにもなかった。




 前田さんのマンションまで送ってくれた芹澤さんは、これから昼寝をするのだと言った。


 ドアを開けて降り、頭を下げてお礼を言った私に芹澤さんが怪しく囁く。


「ねぇ、美月」

「何ですか」

「少し位は俺で動揺してくれる?」

「……動揺、ですか?」

「付け足して。自衛の方法に」



 ――たとえ、恋人の兄弟でも男を完全に信用するなって。



 去っていく車を見送って、私は地面にへたり込んだ。何を信用して良いのか、何を信用してはいけないのか。


 その線引きが恋愛になると途端に難しくなった。


 芹澤さんの言葉が甦る。


 ――まぁ、それは色々あるから。崎山さんの事が好きだと芹澤さんは直接口にした事があっただろうか。


 ――可哀想な男に、せめてもの施しだって思うように。



 見ない振りをした私に、芹澤さんは実は怒っていたのだろうか。


 こんな事になるなら、仕事だけを見ていた方が良かったのかと胸が締め付けられたように苦しくなる。



 誰がどんな気持ちで居るかなんて、考え出したらキリが無くて。


 葉山さんだけを見ていても幸せにはなれないと、思い知らされたような気がして、暫くその場から動けなかった。


 恋愛がこんなにも、複雑で混沌としているとは夢にも思わなかった。



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