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16

 前田さんにメールをして、遅くなる事とタクシーで帰る事を告げる。


 終電は逃してしまったし、残業した日は交通費も融通すると派遣会社は言ってくれた。車や自転車のない私にその条件は有難い。


 一時間が過ぎた頃、私以外が居なくなった控室のドアを小さくノックする音が聞こえた。


 ドアを開けるとカッターシャツの上に私服のジャケットを着ている我妻さんが居て、無言で出口を示される。


「お疲れ様です」

「お疲れ。車持って来るから外出てろ」

「ここでは出来ない話ですか?」

「はぁ?お前馬鹿だろ。こんな所で話をして変な噂が立ったらどうするんだよ」

「……」


 貴方と二人きりの空間は息苦しそうなので嫌です。と、言いたい。寧ろ逃げたい。


「嫌なのは俺も一緒だ。それとも飯でも行くか?そっちの方が長くなるだろ」

「……そうですね」

「は?」

「はい?」

「飯行くのかよ」


 唖然とした顔で私を見る我妻さんに、私の方こそ目が点になった。


 どうしてそうなった?と思った瞬間、食い違いの理由に気付いて納得する。


「ああ、違います。そっちの方が長くな」

「とりあえず出てろ」

「我妻さん!」


 そっちの方が長くなるだろ、に返事をしたつもりなんですが……。それを言う前に出口を後にした我妻さんに、辟易としながら控室を出る。


 WLは控室が一階にあり、従業員が出入りする裏口から一番近い所に控室がある。出口を既に出てしまった我妻さんに私の声は聞こえなかったらしい。


 前田さんに電話を掛けながら、私も控室を後にした。


「もしもし。お疲れ様です」

「“お疲れー!遅くなるって?迎えに行こうか”」

「それが、派遣先の人と少し話があって……タクシーで帰ります。晩御飯は」

「“あ、食べてくる?”」

「いえ、買って帰ろうと思ってます」

「“じゃああたし作ろうか?何時くらいになりそう?”」

「え!?前田さんに作って貰うなんてそんな居候ですから!大丈夫で」


 実は、昨日は夜も遅くなり前田さんが早かった事から分担なんかの話し合いが出来ないままだったのだ。


 畏れ多いと遠慮しようとしたら、前に停まった車にクラクションを鳴らされた。


「“どした?”」

「いえ、派遣先の人が」

「“何か立て込んでる?”」

「すみません……」

「“落ち着いたらとりあえず連絡して。見たいドラマ録り貯めしてるから、今日は暫く起きてると思うわ”」

「はい!分かりました」


 じゃあね、と言って電話を切った前田さんがいつもと同じようにサバサバしていて何だか無性に安心する。


 葉山さんからの着信は取らないようにと、昨夜芹澤さんが着信拒否にしていた。そこまでする必要はないと思ったけれど、「兄貴に頼りたくなるでしょ?」と言われたら、否定はやっぱり出来なかった。


 会いたい。

 本当は今すぐにでも会いたいのに、会うと駄目になってしまいそうだとも思っている。


 停車した車の運転席には我妻さんが乗っていて、後部座席のドアを開けて乗り込んだら思い切り嫌な顔をされた。


「お前さぁ……」

「はい。」

「……何でもない。敬語止めろ」

「無理です。癖になっているので」

「はぁ?」


 車を出した我妻さんは、ハンドルを切って大通りに出る。


「で、なに食うんだよ」

「……家で食べるので大丈夫です。さっきのは会話が噛み合って無かったみたいで」

「なに食うのか聞いてんだけど」

「家に帰ってから、」

「さっきの電話は?」

「はい?」


 突然話を変えた我妻さんに、思わず聞き返してしまう。何だか会話をするのが難しいような気がするけれども、これはどういう事なんだろう。



「お世話になっている人ですが……」

「そう。で、飯は?」

「行きません」

「……何なんだよお前」


 溜め息を吐かれるいわれは無い。


 不可解な我妻さんはこの際スルーする事にして、我妻さんの言っていた“話”について切り出した。


「話って何ですか?」

「飯食ってから話す」

「え、今出来ないんですか?」

「賑やかな場所の方が誰にも聞かれないだろ。そんな事も分からないのか」

「車の中だったら他の人は居ないと思うんですけど……」

「……俺が腹減ってんだよ」

「それならそうと最初からそう言って下さいよ」


 全く意味の分からない我妻さんにジト目を送りながらも、空腹だからご飯を切り出したのかと漸く今気が付いた。


「察しが悪い。お前致命的だろ」

「そうですね。すみません、気が付かなくて……」

「イタリアンで良いよな?」

「私も食べるんですか?」

「お前……待ってるつもりかよ。馬鹿なのか?本気で馬鹿なんだな?」


 ドスのきいた声に震え上がりながら、実は気付いていた食事の誘いに微妙な顔をして頷いた。


「あの、イタリアンって、マナーが必要だったりしますか」

「そんな所行かねぇよ」

「……良かった。初めて行くので勝手は分からないと思いますが」


 行った事があるのは居酒屋とファミレスくらいでイタリアンなんて初めてだ。


 どんな店なのか分からない以上、戦々恐々とするしかない。苦い表情の私をミラーで見て、我妻さんは意外そうな顔をした。


「一度も?」

「はい。外食をあんまりしないので」

「自炊してんのか?」

「……何ですかその顔」

「別に」


 あからさまに信じていない表情を浮かべていたけれど、別に何でも無いらしい。


 イタリアンと言うからにはイタリア料理だと思うけれど、イタリア料理にどんな物があるのかを余り知らない。


 カルパッチョは確かイタリア、パスタもイタリアだ。パエリアは……スペイン?とりあえずパスタだと良いな、なんて思いながら暫く走って停車した車から降りた。




 お店は思っていたよりもずっと庶民的……というか、賑やかで、空間毎に仕切りがあるテーブルのひとつに我妻さんは進んで行った。


「座ってろ」


 言われた通り席について待つ。我妻さんはカウンターの向こうに居た店員に、何かを話し掛けていた。


 暫くして戻って来て向かいに座ったと思えば、上着のポケットに手を入れる。取り出したのは深い青の煙草で、ハッとしたように私の方へ目を向けた。


「……」

「どうぞ。大丈夫です」

「何なんだよ」

「はい?」

「お前さぁ、俺に何か言わないの?」

「え、いや、その意味が分からないんですが……」

「いっつもいっつもハイしか言わないで理不尽言い返しもしないで、……俺を馬鹿にしてんだろ」


 うわあ理不尽って自覚あったんだ。不愉快そうに顔を歪めるけれど、不愉快なのはこっちの方だ。


「馬鹿にはしてません。でも、理不尽だとは思います」

「だったら言い返せ」

「言い返して意味がありますか」

「……は?」

「言い返したら、我妻さんは理不尽な事を言わなくなりますか?」


 聞き返した私に我妻さんは眉を寄せる。


 煙草を銜えていた唇が、今度は歯に変わっていた。


 強く噛んだ煙草は我妻さんによって灰皿に置かれ、火をつけられる事もなくただ置き去りにされる。



「前に聞いたよな、派遣がお前は楽しいかって」

「聞かれました。……その時は、楽しいと答えました」

「だから俺は言った。お前は所詮、ただの派遣社員だ。そうだよな?」

「はい。ただの派遣社員です」

「いつだって、急に仕事を無くす立場にお前は居るだろ」


 言われなくても分かっている。


 与えられる仕事が安定した物ではない事も、いつ無くなっても可笑しくないと言う事も。派遣会社が私を切れば、私に仕事は無くなる。


 あるいはホテルが私を入れるなと言えば、仕事は殆んど無くなるだろう。


 事故にあっても病気になっても、私には何の保証もない。


「社員になりたいか、とも聞いた」

「なりたいです。それは変わりません」

「だったら何で足掻くのを止めた。派遣社員を楽しいと思うお前は馬鹿だ。情けないだけの中卒で、底辺としか思われない」



 我妻さんは、私に言った。


 社員になりたいのにどうして派遣が楽しいと思うのか。伸し上がりたいなら甘んじるな。お前は所詮、ただの派遣社員だ。中卒で恥ずかしく無いのか、情けないと思わないのか。満足しないで上を見ろ。お前程度の人間ならその辺にいくらでも居る。



 ――何で足掻こうとしないんだよ。



 それは、本当に私に言っているものなのかと思っていた。



 言われる度に疑いが強くなっていって、思い出す度にやっぱり――と疑惑は確かなものになる。



「我妻さん」

「……何だよ」

「自分にそう、言ってたんですか」


 やけに実感の籠った言葉の数々、叱咤して立ち上がらせて、背中を無理やり押すような厳しくて現実的でとても痛い沢山の言葉。


 我妻さんは私を見て、悔しそうな顔をする。


 そこに写っているのは本当に私なのだろうかと、いつもいつも思っていた。



「楽しいです。派遣社員は楽しい。だけど社員になりたい気持ちはずっとあります。もっと頑張らないとって思ってます。だから、我妻さんから呼ばれたと聞いてWLに戻って来ました」

「……で?」

「学びます。黒服がやってる事も、熟練のスタッフがやってる事も。出来るだけ覚えて、自分のレベルを上げたいです」

「何で、そんな風に思えんだよ。甘ったれたガキがどうやったらそんな考えを持つようになる?」


 鋭く睨む我妻さんの双眸が、私を真っ直ぐに映していた。


 ずっと思っていた事が確信に変わりそうで、どうしようもなく切なくなる。


 言ってはいけない事なんだろう。口にはしない方が良いんだろう。


 だけど、我妻さんの目はそれを言って欲しそうに私を見ているような気がした。


「我妻、さん」

「お前見てると苛々すんだよ。気持ち悪くて、不愉快で、」

「……羨ましい、んですか」


 私が口に出した直後、我妻さんは一瞬だけ泣き出しそうな顔をした。



 到着した料理に一切手を付けず、ひたすら無言が続いて行く。




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