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「――で、どうするの?佐藤さん本当に昼しか来なくなるの?」
社員の芹澤さんは淡々と話をする人だからか、派遣社員達の間では葉山さんの次に恐れられている。一見、突き放したように聞こえる言葉もちゃんと気遣いに溢れている。派遣のスタッフをきちんと見ていて、さりげなくフォローしてくれる全体が見れるすごい人だ。
ちなみに佐藤は私の苗字でありふれた苗字にも関わらず、現在派遣社員の中にも社員の中にも佐藤さんはいない。過去、入ってきた何人かの佐藤さんは区別する為にすべて名前で呼ばれていた。
「二十歳まで見るなんて言わずにチーフもすぐ社員に推薦してくれたらいいのに。やっぱ謎だわ……チーフ」
姉御と呼びたくなるくらいはっきりばっさり切り捨てたり、的確な判断でみんなを引っ張るパワフルな前田さんはホテルの正社員でスタッフリーダーだ。私が思うに、チーフが一番信頼している女性スタッフだと思う。
「佐藤ちゃん頑張ってんのにねぇ。俺、今日の会食で結構無茶言われて困ってたら佐藤ちゃんがすぐに営業担当代わりに呼んでくれてさぁ、すごい助かったよ」
暗い茶髪の梶川さんは社員になってまだ二年の若いお兄さんだ。二十三歳だと言っていたけれど、実際はもっと若く見える。おっちょこちょいな所があって、たまに可愛らしい。失敗しては葉山さんに小突かれていて、先輩社員の方々からはとても可愛がられているように見える。
「……ホストクラブの裏方でアルバイトするつもりらしいぞ」
葉山さんがあっさりとバラしてしまった話にみんながぎょっとする。芹澤さん達以外にも数人の社員さんが座敷にはいて、立ったままの私と葉山さんを前田さんが座敷に引っ張り込む。
「ホスクラの裏方ぁ? 似合わないからダメダメ。佐藤さんはホスクラにはもったいない! 大体、なんで別の仕事するの? いいじゃない、給料だって結構もらってるでしょ? 佐藤さん出ずっぱりなんだから」
「ええと、ちょっと事情がありまして……」
既に酔っぱらっているらしい前田さんに押されながら曖昧に笑って答える。どうしたものかと葉山さんに視線を送ると、しれっと反らされた。
――助けてはくれないらしい。
「事情って? 聞いても平気なこと?」
梶川さんが少し心配そうな顔をして首を傾げ、注文していたらしい焼き鳥の串をくるくると弄びながら私を窺う。
「大したことじゃないんです」
「金が必要ってさっき言ってたな」
またしても葉山さんが余計な事を言うせいで、社員さん達は信じられないような目をして私を振り返る。
「いくら?六桁までなら貸すけど。事情によっては七桁」
芹澤さんの問い掛けはとても簡潔だった。しかし言っていることが理解できない。いや、できるけどしたくないといった方が正しいだろうか。何でもないような言い方で簡単にそう言える芹澤さんの貯金は一体いくらあるんだろう。そんな事を考えてはっと我に返る。
余計なこと考えちゃダメだ。頼らない、頼らない。
というか、そもそも金額の問題ではないのだけれど、これ以上黙っているといらない心配さえもされてしまいそうで、大人しく口を割る方が変に騒がれなくていいと思った。
「今ちょっと家が無いんです。なので、お金が必要で。貸して貰ってどうとか、そういう話ではないんです」
「家がないって……今どこに居るのよ?」
「あの、……ネットカフェに」
「……なるほどねぇ。そういうことだったのね」
恥ずかしながら答えた私に、前田さんは何だか納得したような溜め息をついて呟きを落とした。はーん、とかふーん、とか口々に言いながら同調する社員さん達にびっくりしたのは私の方で、目を丸くした私にムカって梶川さんが苦く笑った。
「いやさ、ちょっと前から佐藤ちゃんやけに出勤時間早くなったじゃん? いつも三十分前に控え室に到着して、十分前に事務所入りでしょ。それが一時間も前に到着して控え室で長く過ごしてるみたいだったから、なんか可笑しいなと思って」
派遣されるスタッフは予定時間より十分前に事務所入る。制服は基本的に持ち帰りで、個人管理。予備の制服は事務所に置いてあるから、もし忘れても大丈夫なようになっている。
事務所の隣には控え室と呼ばれる別室があって、荷物はそこのロッカーに入れるのが派遣スタッフの決まりだった。事務所は基本的に社員が過ごす場所で、入りの挨拶とミーティングの為に派遣は事務所へ行く。そこでホワイトボードに書かれた自分の名前を確認する。早く着た人は十分前までは控え室で過ごしていた。
早く来るようになっていた事に気付かれていたなんて知りもしなかった私は梶川さんの言葉に呆然とする。
「梶川さん、何で知ってるんですか?」
「佐藤ちゃん、人気者だからね。いつも笑顔でハキハキ挨拶するからさ、佐藤ちゃんの事は結構知られてるよ。警備にも事務にも」
「ええ……」
なんだか現実じゃないみたいだ。夢の中の出来事のような気がして、ふわふわと思考が宙に浮かぶ。挨拶一つがこんな風に知られる理由になるなんて、全く想像できなかった。
「佐藤さん、うちに住む? シェアするのもいいかもって最近思ってたし」
あっけらかんと前田さんが言ってくれたけれど、明子さんの申し出にも断ったのだ。私は人に頼ることが怖いし、どうにも素直に受け入れられない。助けて貰ってしまったら、やっぱり自分は駄目な人間だと自覚するような事になりそうでどうしても不安に思ってしまう。
「部屋借りるくらいやってあげるよ。佐藤さんとはもう三年の付き合いだし」
芹澤さんはとても部下思いの人なんだと改めて思わされる。ただの派遣社員なのにそんな風に言ってくれることが、何より嬉しかった。だけど、受け取ってはいけない。それを受け取った途端に私は安心してしまうだろう。安心は、しちゃいけない。私は、一生懸命でなければいけない。
その場の空気が少し異様になったのを察知して、慌てて取り繕った。
「夜の仕事は週六で入れて貰えるらしいので、暫くはネットカフェでも大丈夫です。あと一年くらいですし、どうにもならない時は親戚に頼りますから」
親戚なんて本当は居ないけれど、ここは強調しておく。心配してくれる人が居るだけでも私は幸せで、それだけで満足していたい。
助けて貰うことはまた別の話で、職場の人との付き合いは普通でいたい。そんな私の気持ちを踏みにじるように葉山さんが鼻で笑った。
「……勘違いするな。お前を心配してるんじゃない、お前の能力をかってるだけだ。だから、お前がこっちの仕事をおざなりにすると困るんだ」
今まで黙っていた葉山さんが急に突き放すように言って、カチンと来る。自分自身を心配されている、なんて自惚れだと葉山さんは言いたいのだ。それについカッとなってそのまま反射的に言い返してしまった。
「おざなりになんてしません!」
「そんなことは分からないだろう。実際にそうなってからじゃ遅いんだ。向こうにも迷惑が掛かるだろう?」
全く私を信じていないような口調で葉山さんは言う。お前に両立は無理だと正面から言われたような気がして悔しさに顔が赤くなった。
「迷惑なんて掛けませんので大丈夫です! 心配ありがとうございました」
嬉しかった反動か、久しぶりにこんなに腹が立ったかもしれない。みんなが優しくしてくれたから、ひとりだけ冷水を浴びせるようなことを言う葉山さんについ意固地な言い方で反抗してしまう。
そうしてそっぽを向いた私の耳に、
「佐藤。家がないなら、俺の家に住めばいいだろう」
信じられないような言葉が届いた。
葉山さんが至極冷静で真面目な顔をして言い放った台詞に絶句。続いて、前田さんの興奮したような声が座敷に響いた。
「やるじゃない葉山さん! うっわー世紀の大告白!」
前田さんが茶化すように笑って梶川さんの背中をバンバン叩く。目が点になっている私をじろりと見たのは、やっぱり顔が怖いと有名な葉山さんで間違いなかった。芹澤さんがごとりと静かにビアグラスを置いた音で急速に頭が冴えていく。
冗談じゃない。葉山さんにお世話になるくらいなら野宿した方がマシだ。会話が続かない所か四六時中緊張していなければならなくなる。そんな生活は絶対に無理だ。
「無理です!私、葉山さんとそんな」
首を振って拒否する私に葉山さんは挑発するように目を細めた。
「自惚れるな。これは投資だと思え。俺は今の仕事を辞める気はない。そうなれば仕事の遣りやすさは重要な問題だろう。お前が居ると居ないとでは思いの外、差が激しい」
「……そんな投資は無謀だと思います」
そこまで言ってくれる人に出会えて、すごく嬉しいと思う。けれど、それとこれとは話が別で、私が葉山さんと住む理由にはならない。
「期待に応えられないのか?やっぱり、その程度のレベルじゃ無理か」
鼻で笑う葉山さんにむかむかと不快感が沸き上がる。さっきは車内であんなに褒めた癖にいきなり貶すなんてとんだ悪魔だ。これだから裏で冷血漢と派遣のみんなに呼ばれるんだ。
だけど、簡単に頷くような話じゃない。これは断るべきだ。
葉山さんに貶されて悔しい気持ちは充分にあった。それでも俯いて我慢する。
「お前、大して好きじゃなかったのか、この仕事」
落胆した、そう言いた気な声音に思わず顔をあげる。
「好きです!葉山さんだって天職だって言ったじゃないですか……私だって、そう思いました」
「だったらやって見せろ。俺が満足出来るような働きが出来るならな」
「そんなの……!」
ひどい横暴だ。葉山さんが求めるレベルがどれくらいなんて知らないし、私が頑張っても駄目かもしれない。それなのに挑発するような事を言ってわざとらしく馬鹿にする。
何でこんなに言われなくちゃいけないんだろう。
何でこんなに馬鹿にされなくちゃならないんだろう。
「出来ないのか。やっぱりお前は、」
「出来ます!」
――言ってしまった。
葉山さんの言葉の続きが聞きたくなくて、何を言われるのか分からなくて反射的に遮った。
やっぱりお前は、それに続く言葉はコンプレックスにもなっている私の学歴か。出来ないと言われたくなくて、答えた私が短慮だった。
「――言ったな。その言葉、嘘だとは言わせない」
「よし、捕まえた」と言って喉を鳴らして笑う葉山さんに私は呆然とするしかなくて。
「は、葉山さん!」
慌てて青ざめたのも既に時遅し。
「荷物はあのネットカフェか。取りに行ってそのまま家に連れていく。おい、聞いたな?佐藤は出来ると言った」
葉山さんは全く私の意見を聞き入れないような素振りで周りに目を向けた。
「確かに言った」
「言ったわよ。間違いなく聞いた」
「はーいばっちり聞きました」
「俺も聞いた!」
「私もちゃんと聞きました」
次々に葉山さんに答えていく社員さん。
何なのだろうこの流れは。どうしてこんなに、笑ってるんだろう。
ついていけないのは私だけで、周りはやさしい顔をする。
全く理解出来ない私に葉山さんが笑った。 ……一体誰だ。鬼だ、冷血漢だ、アイツは笑わないなんて噂を立てたのは。
「佐藤、逃げるなよ」
「葉山さん…」
助けて貰ういわれはない。こんなのはただのありがた迷惑だ。そう思いたいのに、強引で反論を聞かないこの所業が泣きたいくらいに嬉しいなんて可笑しな話だと思う。
今まで肩肘を張っていた私の身体が、力が抜けたように緩んだ。
本当はずっと、こうして貰いたかったのか。本当は無理やりにでも誰かに助けて欲しかったのか。有無を言わさず私に住み処を提供した葉山さんが、強引なのに優しく見えてしまう。
「未成年をどうこうするような変態じゃないから安心しろ」
葉山さんが真顔で言った言葉に周りがどっと笑い出す。そんな心配は全くしていなかったけれど、言われてから私と葉山さんは男女だと思い出す。兄か父親でも可笑しくない葉山さんを妙に意識してしまって、頼んだオレンジジュースを一気飲みした。
そんな私を見て前田さんが言う。
「若いからとか、複雑な事情があるからとかじゃないからね。佐藤さんが人一倍頑張ってるからみんな心配してんのよ」
少しだけ、流れた涙はオレンジジュースと混ざって酸っぱい塩の味。グラスを目一杯煽って飲み干したあと、私は小さく一度だけ頷いた。