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世の中には理不尽と言う言葉がある。
理不尽あるいは不条理、どう考えても可笑しいと言ってやりたくなる事があると私は思う。
前田のマンションにお世話になると決まった翌日。WLへ向かい挨拶をした私に降ってきたのは
「よく顔が出せたね。厚顔って言うのはお前みたいな奴の事を指してるんだ」
とても理不尽な台詞だった。
……呼んだのは貴方じゃないんですか、と思うけれど、言ったら十倍になって返ってくる。なんとも恐ろしい事か。
「まぁ、いいや。キリキリ働け、間違っても余計な真似はするなよ」
ジャケットを脱いだカッターシャツ姿の黒服――我妻さんは爽やかな風貌とは裏腹に随分な毒舌を吐いた。「さ、佐藤さん、」
「はい」
「ありがとうございます……!」
涙ぐみながら私を見た羽田さん、同じ派遣会社の高校生の女の子は今にも泣き出しそうな顔で縋り付くみたいに制服の裾を引っ張った。
「すみません、私……」
「大丈夫です」
我妻さんが私を呼ぶ切っ掛けになったのは、羽田さんが色々と聞かれて答えたからだと言う。
来なくなった私の事を我妻さんが羽田さんに聞き、別のホテルに長いこと入っていると答えた事から派遣会社へ連絡をすると決めたそうな。
社員の中でも将来有望と言われている我妻さんは担当――ここではキャプテンと言われいるが、それになる事が多かった。
二十代後半でやり手の黒服だと、ホテル直属のスタッフの中では噂になっているらしい。
事務所に向かい挨拶をした私に、我妻さんが告げた言葉はさっきの通り。言い終えたらすぐに事務所を出ていってしまったけれど、ジャケットが置き去りにされていると言うことは恐らく設営か何かだろう。
中に入って、眼鏡を掛けた神経質そうなチーフマネージャー、谷澤さんに頭を下げる。
ぱらぱらと後ろから現れた他の派遣会社の高校生は、初見なのか随分と余裕な態度だった。
羽田さんを然り気無く急かし、事務所の隅で待機する。
出勤と退勤を記録するのは、業務終了後となっていた。メモ帳とボールペンを取り出して、目線だけで羽田さんにも取り出すよう促す。
「宜しくお願いします」
「お願いします」
次々と入ってくる大量の高校生の挨拶にチーフマネージャーの谷澤さんは、ひたすら黙り込んでいた。
時刻は午後五時半、予定されている披露宴は午後七時から開始となる。七時から九時までの約三時間、片付けや諸々を含めたら帰りはきっと十一時を過ぎる。
高校生は十時まで……となると、やっぱり私は残される筈だ。
五時四十分を過ぎた辺りで、谷澤チーフは席を立つ。
「――遅い。黙る迄に何分掛かった?」
派遣全員が静かになるまで、と言うことだろう。問い掛けに答える派遣は居ない。
こうなったら谷澤チーフは、誰かが答えるまで動かない。流石に時間が来れば指示を出すけれど、ギリギリになる迄は動き出そうともしないのだ。
「十分です。申し訳ありませんでした」
つい、と私に視線が向かう。
谷澤チーフは私を見て、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「そうだ。正確には十一分。この間でいくつの説明が出来るか考えてみろ」
そんな事を言っている間も時間は過ぎて行きます。……とは思っても、口にしない。
ある意味これは新しい派遣への戒めで、仕事に真剣に取り組ませる為のパフォーマンスのようなものだ。実際に谷澤チーフが怒っている訳でもない。
「そこの髪を触ってるスタッフ」
「……俺?」
前髪を触っていた男子高校生は、自分を指差して目を見開いた。
「入ってから挨拶はしたか?」
「……え、いや、して、ないっすけど」
がくん、となりそうな脱力感のある返事に谷澤チーフはきらりと瞳を光らせる。
「どうして挨拶をしない?」
「……すいません」
「謝罪は今必要ない。挨拶をしなかった理由を聞いている」
「はあ……」
なんとも微妙な顔をする高校生に、顔を引き攣り谷澤チーフは切り捨てた。
「派遣会社の方には連絡をしておく。今日は帰って良い」
引く手数多なホテルだからこそ、言える台詞なんだと思う。
どの派遣会社もここに人材を派遣したいと思っているし、気に入らなければすぐに切られる。
新人を送り込むにしては時期が早かったのだろう。事前に派遣会社の方で研修を受けさせられる筈だけれど――受け答えがハッキリしていないスタッフは、WLではすぐに切られて二度と派遣される事はない。
谷澤チーフの迫力にたじろいでいた男子高校生は、帰るように告げられて釈然としない表情をしたまますごすごと事務所から出て行った。
この横暴チーフめ……と悪態を内心で吐きながら、真面目な顔をして背筋を伸ばす。
「返事は必ずはっきりと。それが出来ないならすぐに帰って貰う」
「はい!」
私と羽田さん、それから数人の見知ったスタッフは返事をしたけれど、残りは目を丸くしたまま呆然と立っているだけだった。
「返事は」
もう一度、谷澤チーフが静かに言う。
「はいっ!」
乗り遅れずに殆どが返事をして、漸く披露宴の説明が始まった。
黒服の機嫌は現場の空気を左右する。
苛立っていたらスタッフは焦り、楽しんでいたらスタッフも笑う。葉山さんの居るホテルは、黒服が仕事を楽しんでいる人ばかりだ。
だけど、ここはWLは。
いつも緊張感で張り詰めていて、スタッフはびくびくしていると思う。
準備段階で既に何人かが失敗した。それに気付いた黒服は、辺り構わず怒鳴り散らして説教をする。
ここに来て葉山さんの一喝が、どれだけ愛のあるものかよく分かった。葉山さんは手当たり次第に怒らない。
隠れて怠けていたり、手を抜いて楽をしようとしたり、準備中に抜け出したり。そんな時は躊躇い無く一喝するけれど、そこに八つ当たりは余りない。
やっぱり人間だから、感情が表に出てしまう事もある。
苛立ちがあるのもよく分かる。
それでも、スタッフに対してストレスを解消するかのような勢いでら怒鳴らない。
「こっちのグラス、拭けました」
「じゃあバーカンに持って行こう」
二人でグラスを研きながら、ノルマの二百をとにかく手早く目指して行く。
照明に翳し汚れが見えなかったら合格、少しでも手垢や汚れがついていたら下手したら全て拭き直しになる。
私が磨いたグラスを羽田さんがもう一度磨く。念入りに確認をしてバーカンへと持っていった。
「グラス置きます」
「あ、ちょっと待って」
黒服の男性が手を伸ばし、グラスを照明に翳して見る。
「……うん、良いよ。熱燗の機械準備しておいて。徳利とお猪口も」
「分かりました」
会場を出て裏の通路を歩きながら、予定人数を思い出す。七十人で、追加は無し。
徳利とお猪口を取りに行くのは一人で充分だ。
「羽田さん。熱燗の機械、触ったことありますよね?」
「あ、はい……」
「お願い出来ますか?」
「あの、でも、」
気持ちは凄く分かる。とても分かる。
こんな厳しい場所で一人になりたくないという羽田さん。
だけど、ずっと引っ付いていても、注意こそすれ褒められるような事はない。
気弱で内気な羽田さんがこのホテルに入らされている一番の理由は、ホテル側がそれを希望しているからだ。
羽田さんは高校生にも関わらず、フランス語が喋れるらしい。母親がフランス語の講師で、幼い頃から家庭で学んでいると言っていた。
それが良かったのか、悪かったのか。
フランス人のお客さんの対応を偶然羽田さんがした時に、ホテルはお客さんからのお褒めの言葉を頂いた。
それが切っ掛けになって、羽田さんはここへ主に派遣される事になった。
本人は辞めたいと言っているけれど、派遣会社が何とか引き留めているような現状で、羽田さんの心細さを思うと傍に居てあげたいと私も思う。
だけど、このホテルでそれが出来るとは思わない。
「間違えないように、じゃなくてどうしたら喜んで貰えるか、を考えましょう。羽田さんなら大丈夫です。いつもと同じように、お客さんの事を考えながら準備をして下さい」
偶然だけじゃない。羽田さんは、高校生には珍しいくらいお客さんの事を一番に考えられる女の子だ。
引っ込み思案で気が弱くても、気配りや思いやりがきちんと出来る。だから帰されない、だから派遣会社も外せない。
本人が自覚していないだけで、羽田さんはとても優秀だ。
「……はい!」
今だってほら、やっぱり頷いて納得する。羽田さんの隠し持つ強さと根性はきっとホテル向きだと思う。
徳利とお猪口を取りに行き、それから一時間が経過した。披露宴だから黒服も多く、スタッフの数も把握出来ない程に多い。
今日の披露宴では、私はドアオープンの役目を任されている。入場と退場、それからお色直し。
招待客が中に入り、新郎新婦の入場待ちの状態が作られる。ドアの前に小走り向かい、新郎新婦が到着するまでに息を整えた。
「佐藤、業務が終わったら控室で待機してろ。お前に話がある」
葉山さんとは違う、少しだけ高い声。
いつ何を言われるかと待ち構えて居た私に、我妻さんは何でもないような顔をしてそう言った。無感情なその指示に、短く返事だけをする。
「はい」
「何時になるか分からないけど」
「……」
意地悪な葉山さんとは段違いに意地悪く、無表情な芹澤さんとは似ても似つかない無感動な表情、見た目は梶川さんに近いのに爽やかな髪型をしてもそこに明るさは全くない。
我妻さんを何かに例えるとしたら、オセロのようだと私は思う。
白になった時は、
「御成婚、おめでとう御座います」
まるで天使のように綺麗に笑って。
谷澤チーフが連れてきた新郎新婦に頭を下げて、オープンの合図に従いドアの取って引いて開ける。
すっと私に近付いて、背後から我妻さんは囁いた。
「――底辺のお前に教えてやるよ。今の場所がどれだけ脆い物かってな」
黒になった時は、悪魔のように痛い所を突いてくる。
自分の立っている場所が、どれだけ無くなり易い物かなんて自分が一番知っている。
ドアを閉め、一際賑やかになった会場へ、ちらりと一度だけ視線を向けた。
「会場に戻ります」
会釈をしながらそう言って、従業員通路のあるドアへと小走りに駆ける。真っ直ぐに横切った私に向かって、我妻さんは小さく舌打ちを鳴らした。




