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「兄貴は?」


 芹澤さんの運転する車に乗って、前田さんお馴染みらしい居酒屋へと向かう。


 何故か助手席には私で、後部座席に前田さんと梶川さん。芹澤さんは今日は晩御飯だけにして飲まないつもりで居るらしい。


 ……私が居るからかも知れない。やっぱり兄弟だけあって、芹澤さんも分かりにくい優しさを持っていた。


「分かってて聞いてますか?」


 絶妙なタイミングで聞いた芹澤さんに半目でそう聞き返す。


 後部座席から乗り出した前田さんは興味津々に私の頬を突いてくる。


「ははん、崎山のやつが拐っていったね?そうなのね?佐藤さん」

「えっ、マジで!?」


 梶川さんの素っ頓狂な声にもはや苦笑いしか出てこない。


「負けちゃ駄目だって言ったのに!あの女意外と強かなのよ。芹澤くんが気に入る位に」

「えっ!芹澤さんあれで気に入ってたんですか!?」


 女子の方が鋭いらしい。本気で驚いている梶川さんに芹澤さんは頷く。


「あれは泣かせたくなる」

「ドS……!」


 葉山さんと同じく絶句した梶川さんは打ちのめされたかのように後部座席のシートに沈んだ。


 何だこの賑やかなメンバー。


「で、どうすんの?やられっぱなしじゃ駄目よね!」


 うきうきとする前田さんは私に目を輝かせながら聞いて来たけれど、今のところ仕返しなんてするつもりはない。


「何もしません。葉山さんだって別に何かある訳じゃないですし」

「佐藤さん嫉妬とかしないの?」


 芹澤さんは中々痛いところを突いてくる。流石は鬼畜。なぁなぁで済ませてはくれないらしい。


「……します。少しは。だけど、言ったってしょうがないですから」


 葉山さんが押しに弱いのは仕方がないと思う。


 あの強面でグイグイ来る人なんて滅多にいないだろうし、耐性だってつきにくい。本来、面倒見の良い人だから突き放すのはきっと難しい。特に仕事関係では。


 最終的な線引きはしっかりしているから、そこを信用している節もある。




「ドライ!佐藤さんはドライなのよ。もっと我が儘言わないと葉山さんは甘えてばっかりになっちゃうわよ」

「……困らせたくないんです。煩わしいとも思われたくないです」

「健気……!佐藤ちゃん健気だよ!」


 復活した梶川さんは拳を握りながらそう言った。本当に健気なら、きっと今でも駐車場で待っているはずだ。


「連絡は?」


 ちらり、と私か持っていた携帯を見て芹澤さんは更に痛いところを指摘する。


「してません。でも、待ってるように言われました」

「あらま。じゃあ飲みに行くって言っちゃいなさい!お姉さんがしっかり葉山さんを説教してあげるから」

「いや、ちょっと待って」


 ハンドルを切って、芹澤さんは逆方向にUターンした。


「佐藤さんの荷物取ってくる。家出して困らせよう」

「はい!?」


 さらりと爆弾発言をして、芹澤さんは本当にマンションに向かっていた。



「ちょ、ちょっと待って下さい!それは流石に……」

「だって佐藤さん、最近の兄貴は調子に乗り過ぎてると思わない?」

「え、思いませんけど」

「職場で崎山とイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャして」


 若干私怨混じりに芹澤さんは無表情なまま不満を洩らす。顔が真顔だけに怖い。梶川さんが凄い引いている。前田さんは爆笑しているけれど。


「知ってる?たまに遅い時って、崎山に付き合って残ってたんだよ。佐藤さんがヘロヘロになってる間、崎山と兄貴はイチャイチャイチャイチャイチャイチャ」

「分かりました。充分に分かりました」


 マンションの駐車場に停車して、芹澤さんはさっさと車を降りエレベーターに向かって行った。



 家出……嫉妬で家出……。



 何とも複雑な気持ちになりながらも、少し離れてみる方が良いのかも知れないとも思う。


 それは勿論、葉山さんがどうこうという話ではなく。




「ねぇ、煽ったのは私だけど……いいの?佐藤さん」

「……ちょっと、考えてた事もありますから。良い機会かなぁって」


 渡り船、とも言い難いけれど、切っ掛けが起きたなら転機だとも思うのだ。もしかしたら追い風になってくれるかも知れない。


「崎山も、葉山さんの態度で好感触だと思った節があるんじゃないかしらね」

「ええー…そんな節ありましたっけ?」


 ぽつりと前田さんが溢した言葉に梶川さんは首を捻る。


「芹澤くんから葉山さんに指導係をチーフが変えたじゃない?なぁんかあるのかもって思ってたけど、チーフはもしかしたら恋愛を利用しようとした、とか」

「え……それは、うわぁ、でも有りそうな無さそうな。チーフ妙に謎ですからね」

「でしょ?崎山が辞めたらチーフにもとばっちり来るかも知れないし」


 何だかチーフが魔王にジョブチェンジしそうな勢いだ。にこやかなあの顔と怒った顔はまさに二重人格だけれど、そんな考えがあるのかどうかはさっぱりわからない。


「佐藤さん、うちに来る?前も言ったけど誰かとシェアしてみたいなーって思ってたからさぁ」

「いえ、それは、」

「ああ来て欲しいなぁ、一人は寂しいなぁ、もうお一人様なんてやだなぁ。たまには誰かと過ごしたいしーでも誰も一緒に住んでくれないしー」


 つらつらと出てくる台詞は予め用意されたかのように流暢で、前田さんはにやにやしながら綺麗な顔を私に向けた。


「……前田さん」

「寂しいなぁー!誰かとご飯って幸せだよねぇ。しかも自宅で二人でご飯!帰っても誰かが居る安心感!」

「前田さん!」

「お願い、佐藤さん。期間限定で良いじゃない?あの時は葉山さんに横取りされたけど、私だって佐藤さんと一緒に住んでみたかったのよ」


 何でこんなに優しくしてくれるのか分からない。


 私は何も返せないのに、今だって駄目な所ばかりなのに。やっぱり私が子どもだから――と卑屈になってしまうより先に、前田さんはそっと私の頬を挟んで大きな目を真っ直ぐに向けた。


「家族が居ないって、寂しいでしょう。佐藤さんはね、不幸が続いたから後は幸せになる道しか無いの」

「そうだよ。いっつも頑張って理不尽に合うから、今だってまだ不幸の方が多いと思う。俺はね」


 いつからか、自分が不幸だと忘れる瞬間が多くなった。


 世間的には不幸でも、私がそう思わない時が増えていて。


 それは周りが、大人が。こうして助けてくれるからだと、最近になって気が付いた。


 だから不幸だと思えずに、私は幸せなんだと思うようになって。


 ――だから、ショックが強かった。




「情けないって、言われたんです」

「うん?」


 急に話を変えた私に、前田さんは聞き返した。


「ある人に、言われました。中卒でお前は恥ずかしく無いのか、情けないと思わないのか、って」

「誰よそんな事言ったやつ!」

「自分でも、思いました。今の状況に甘んじて、変わろうとしてなかったんだって、今更ながらに気が付いて」

「……そんな事、言わないで。佐藤さんは充分頑張って来たじゃない」

「違うんです。……本当は劣等感ばっかりで、このままじゃいけないって思ってたのにそれを忘れ掛けてました」


 葉山さんは優しくて、周りもみんな優しかった。


 辛かった時期がまるで嘘みたいに思える位、楽しくて。


 だけど、実際。私は何も変わってない。


 中卒で派遣で、資格も何も持っていない。そんな私が社員になれる訳がない。



「自分の足で前に進んでみたいんです。助けを借りずに、やってみたい」


 その言葉こそが子どもの甘えのような気もしていた。誰の助けも借りずに生きていく事はきっと出来ない。


 だけど、やってみたいと思った。葉山さんの隣に並んで、恥ずかしくないように。


「……家賃も生活費も折半。掃除と洗濯、料理も当番にしたら、佐藤さんは納得出来る?」

「前田さん」

「たまには頼ってよ。もう何年一緒に仕事したと思ってるの?歯痒かったわよ。ずっと、派遣だからって贔屓は良くないって、自分に言い聞かせてたから」

「俺だって、年下の佐藤さんに負けたくないって頑張って来たんだ。なのに、佐藤さんはずっと頑張りっぱなしで、俺は助けられてばっかで……」


 悔しそうな梶川さんは、きっと初めて私に本音を言った。


 頑張りが必ずしも良い方向に行く訳じゃないと、改めて胸がすうっと冷える。



「一緒に住もう。……少しだって良いんだから。私も実は両親居ないの。早くに他界しちゃってたから」


 前田さんの家族事情も今になって初めて知った。驚く私に前田さんはけらけらと笑いながら、気にしていないと軽く言う。


「だからって言うのもあったのかも。佐藤さんの事情は噂で聞いてたし。だけど、仕事に関しては別よ。本当に凄いと思ったから、辞めて欲しくなかった」

「私は……」

「シェアしない?佐藤さん」


 断るつもりだったのに。そんな綺麗な顔で笑われたら、はいとしか言えなくなる。


「折半、ですよ。もしくは私に払わ」

「はいはーい!分かりました!分かりましたー!ゲットしたわよ梶川ぁ」

「やった!俺もお邪魔するんで!佐藤さんの飯食わして貰おうっと」


 ああこうやって人って生きて行くのかなって、何となく、そう思った。


 支えられて、助けられて、最終的に誰かが自分を見てくれる。


 頑張ったらその分優しさが降ってくる。それが人生なのかも知れない。



「なに騒いでんの。兄貴が帰って来たらヤバいからすぐ出すよ」


 戻ってきた芹澤さんは黒いトランクを片手に、冷めた顔でそう言った。





「じゃあ前田さん宜しく。良かったね、住む所見つかって」

「はい」

「俺のマンションで良いやと思ってたけど前田さんなら安心だ」

「ちょっと芹澤くん!一緒に住む気だったの!?」

「いや、俺は兄貴の所に。マンション水漏れとか適当に理由つけて」

「ああそう……」


 さっきからひっきりなしに鳴る携帯は芹澤さんが没収してサイレントモードになっていた。


 心配しているだろうな、と罪悪感が次々と湧いて来る私に前田さんはきっぱりと携帯を触らせないと言い切った。


「居酒屋ついたら芹澤くんに電話させるから」

「とか言って同居の邪魔をさせたくないだけなんじゃ…」


 梶川さんの突っ込みに前田さんはにっこりと微笑んで頷いた。恵まれて……いるんだろうか。何だか不安になって来た。



「下着は持って来なかったから、新しく買って。お金は俺が出すよ。言い出しっぺだし」


 さらりと芹澤さんがそう言って、前田さんの拳骨が落ちる。


「デリカシーがない!」


 まったくです、と言いたくなるその台詞に頷いて、下着は二十四時間営業の大型スーパーで買う事になった。


 日用品や服なんかも多少はあると前田さんが教えてくれて、芹澤さんは運転手として今日はずっと帰るまで付き合ってくれるらしい。


「さて、まずはご飯。佐藤さんなに食べたい?ちなみに今日は梶川の奢り」

「じゃんけん負けたんだよなぁ……」


 苦笑いして財布を確認する梶川さんは哀愁が漂っていて何だか凄く可哀想だ。


 自分の分はちゃんと払うと決めて、到着した居酒屋で選んだのはとろろの鉄板焼とお刺身、それから白ご飯だった。



「……」

「葉山さんご飯食べたかなぁ、に一票」

「俺も!」

「うん、それしかないね」

「何で分かったんですか。怖いです」

「顔に出てるのよん」


 ずばり言い当てられた考えに身震いしていると、芹澤さんはおもむろに携帯を取り出した。


「じゃ、電話してくる」


 何か言う前に外に出てしまった芹澤さんを見ながら、やっぱり急過ぎたかも知れないと葉山さんに申し訳なく思う。


「……実は言って無かったんだけど、葉山さんと崎山が偶然抱き合ってた所見たのよねぇ。まぁ葉山さんは支えただけだと思うけど」


 うん、急過ぎたって事もないかも知れない。転機だ。これは追い風で、紛れもなく追い風に違いない。


「葉山さん絡むと佐藤ちゃんって表情豊かになるんだ……」


 梶川さんがぼそりとそう呟いて、思わず顔を上げてしまった。


「私そんなに無表情ですか?」

「違う違う。佐藤ちゃんは逆にずっと笑顔だからさ。あんまり他の顔って見たことなくて」

「困った顔と笑った顔はよく見るわね。佐藤さん、泣いたことある?大丈夫?もしかして怒ったことも無いんじゃ……」

「あります!泣いたことも怒ったことも何回もありますよ。前だってここで怒ったじゃないですか」


 そう言えばあの時も、私を怒らせたのは葉山さんだった。


「あらま、恋だねぇ」

「佐藤ちゃん可愛いなー」

「……」


 葉山さんがこの二人に勝てないのは、今日でよく分かった気がした。



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