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 会食が終わった後の空気は、何とも言えない侘しさが漂う。食べ終わった食器、中身の無くなったグラス、誰一人として座っていないテーブルと椅子。


 お酒の匂いと料理の匂いが入り交じり、空っぽになった従業員数人だけの会場。


 バケツ片手に中に入り、この空気を堪能しながら作業をする。台車に乗せられた使い終わりの汚れたクロスが、まっさらな白になって戻ってくると思えば胸も高鳴ると言うもので。


「また佐藤さんがにやけてる」


 真中さんが私を見て、呆れたような笑みを浮かべた。隣に居た平川さんは、くすくすと笑い声を洩らす。


「準備と片付けが本当に好きなのねぇ」


 ふわりと微笑む平川さんはまれに見る可愛らしい主婦だと私は思う。愚痴もなく、悪口もなく、文句も言わずに全て笑って受け止める。これでお酒に凄く強いなんて本当に人は見た目じゃわからない。


「うきうきしませんか」

「えー……しないよ。残飯処理だし」

「そうね、私もあんまり」


 二人から否定されてしまい、自分がずれていると否応なしに実感させられる。



 ――気持ち悪いんだよ。



 そう、言われた。あの人は心底嫌そうに、私を見て気持ち悪がった。



「佐藤さん?」


 平川さんに声を掛けられてハッとする。ついつい思い出してしまう自分を叱咤して、作業に集中する事にした。





 事務所に戻って勤務時間を記入すると、チーフは何か言いたそうに私を見ていた。それでも、言葉は発しない。首を傾げる私に向かって、前田さんはわざとらしく声を響かせた。


「やーだ。葉山さんまだ説教してるのー。いつまでするつもりなのよ」


 多分、本当は私に直接言いたかったのだろう。だけど、派遣の二人は私が葉山さんと付き合っている事を知らない。


 前田さんは然り気無く――然り気無くは無いけれど、この場に居ない葉山さんと崎山さんの行方を教えてくれた。


「本当は佐藤さんに言って貰えたらと思ってたんだけどね。ほら、彼女はプライドが高いから」


 チーフの言いたい事も理解出来た。宮坂さんパターンだ。プライドが高いから格下から何かを言われるとそれに触発されるというパターン。


 それでも宮坂さんやその他の社員さん、チーフが宛がった人は殆んどが伸し上がって来た。宮坂さんの時は私、他の人にはまた別の人、チーフの判断はいつも正しくて、私はチーフが何かを間違った所は今まで一度も見たことがない。


 今回は私を崎山さんに、と思っていたのだろう。


 葉山さんはそれより先に崎山さんを連れて出てしまったらしい。



「お疲れ様でした。また夕方から宜しくお願い致します」

「うん。佐藤さん、何だか前よりも丁寧になったような気がするね?」

「……厳しかったです」

「ああ、向こうのホテルかぁ」


 納得したチーフに苦笑いをして、二人と一緒に事務所を出て控え室に向かった。





「マネージャーって顔怖いよね。無表情より怒ってる側に近いって感じ」


 正直者な真中さんは着替えながらそんな事を口にした。平川さんは髪を下ろして真中さんにやんわり頷く。


強面(こわもて)なのはウチの旦那と似てるかも。中身は案外優しいのよ。顔が怖いからそう思うのかも知れないけど」


 なんて参加しにくい会話だろう。彼氏なんです、なんてこんな空気では絶対に言えない。当然、自然にバレるまで自分から言うつもりは無いけれども。


「でも崎山さんはマネージャーに好感持ってるよねー。実は優しいんですよとか言ってたし」


 あれは自慢だね、と続けた真中さんに平川さんは微苦笑をした。


「佐藤さんにきつく当たってたのはびっくりしたけど……もしかして二人とも知り合いか何か?」


 平川さんは私を見て、首を傾げながら尋ねる。……う、何と答えていいのやら。微妙に顔を引き攣らせながら、否定した。


「いえ、今日が初対面です。……そういえば、真中さん」

「うん?何でしょう」

「今日、グラスを落としませんでした?」「……バレてました?」

「はい。タイミング良く見てました」

「うう……気を付けます、ごめんなさい。佐藤さん目が沢山あるから怖いなぁ」


 ジーンズを穿いて淡い緑色のトップスに着替えた真中さんは、少々ばつが悪そうに頬を掻いて反省の色を顔に浮かべた。


「次から気を付けて下さい。……でも、真中さんに注意したのは初めてですよね?怖いですか?」

「よーく周りから聞きいてますよ。佐藤さんは目が沢山あるって!凄いなぁ、若いのに」


 着替えを終えた真中さんは、私を見て帰宅しても良いかどうかの様子を窺った。それに笑みを浮かべ、お疲れ様でしたと返事をする。

「はい、お疲れ様でした!それじゃあ、また」


 颯爽と出ていった真中さんを見送って、ロッカーから携帯を取り出した。メールが一件、派遣会社からだった。


「佐藤さん」

「はい?」


 ワンピースに着替えた平川さんは鞄を手にして私を見つめる。


「あんまり気にしないで。真中さんはハッキリした人だから、特に他意はないと思うの」

「……ああ、大丈夫ですよ。そんなに気にしてません」


 平川さんはよく気が付く。きっと、真中さんが言った「若いのに」という言葉が私には不快だったのではないか、と思ってくれたのだろう。


「私ね、若い頃に言われたのよ。カクテルの勉強が好きだったから……ほら、好きこそ(もの)上手(じょうず)なれって言うじゃない?」

「はい」

「だから、そっちにだけ記憶力は良くて。若いのによく調べてるね、よくその手順を覚えられたね若いのに、なんて年配の人から言われたわ」


 懐かしそうに目を細めながら、平川さんは私に語った。


「今思うと、きっと羨ましかったのよ。物覚えが良くて、私は若い女だからお客さんにもちやほやされて。まだカクテルを若い人があんまり学ばない時代だったから」


 見て、と平川さんが出したのは、端が捲れた黒い名刺。白字が印刷されたそれは、大事そうに財布の中に仕舞ってあった。


「若いって言われる度に、辛かった。自分自身を見て貰えていないみたいで……。でもね、今は思うの」


 ふんわりと微笑んで、平川さんは私にそれを差し出した。


「凄い人は年を取ってもやっぱり凄いままなのよ。私ね、自慢になるけれど――実は大会で優勝したの、三十路になって。ハッキリ自信が付いたのはその時から」


 差し出されたそれを、躊躇いながら受け取った。うん、と頷いた平川さんは私にそれをくれるつもりで居るらしい。


「もう日常的に振ってはいないから、この名刺は私が持ってる最後の名刺。佐藤さんにあげるから、もし何か飲みたくなったら――」


 いつでも電話してね、と優しい言葉を残して平川さんは帰っていった。



 ロッカーに背中を預けて、名刺の表面を指をなぞる。


 ――だから、いつもやめられない。


 辛いなぁとか、逃げたいなぁとか、思う度にいつも何かに助けられる。


 家が無くなった時は明子さん、挫けそうになった時は葉山さん、胸が苦しくなった時は今みたいに平川さんが。


 いつもこうして誰かに助けて貰っていて、それなのに恩返しは一向に出来ない。


 明子さんにも葉山さんにも平川さんにも、ちゃんとした恩返しが出来ていない。



「嫌に、なる」


 自分には何も無さすぎて。まだまだ未熟で歯痒いばかり。


 どうしたって、年齢は、見た目は、早送りが出来ないものだ。大人は私に手を伸ばして、いつだって何かをくれるのに。



 本当は知りたい。葉山さんと崎山さんが今なにを話しているのか。


 気になって仕方がない癖に、私は物分かりの良い振りをして気にしていないと仮面を被る事しか出来ない。



 葉山さんに釣り合いたい。社員になって同じ土俵に立ちたい。


 崎山さんに負けたくない。本当は――



「少しだけ、不安です。葉山さん」




 葉山さんの気持ちを信じていない訳じゃない。ただ、私が幼くて未熟で、愛想を尽かされる事が心配だった。


 崎山さんから何かを言われても、私は職場ではただの派遣。


 葉山さんと同じ立ち位置にはどうしてもなれないのだ。崎山さんが羨ましくて、他の社員さんも羨ましい。


 技術が欲しい、“使える”と思われたい。



 ――伸し上がりたいなら甘んじるな。


 その辺のごみを見るような目で、中卒の私にあの人は言った。


 ――満足しないで上を見ろ。お前程度の人間なら


「その辺にいくらでも居る」


 自分で自分に言い聞かせる。繰り返して、わざと自分を傷付ける。



 だけど、何よりも堪えたのは


 ――お前は所詮、ただの派遣社員だよ。



 真っ直ぐに私を見据えて言った事実は、全身を痛めつけるみたいに私に衝撃を走らせた。



 派遣会社へ折り返す電話を掛けて、そこで言われた事に頷く。


「……はい、行きます」


 もう一度、もう一度だけ、自分の力を信じたい。どれだけ出来るかやってみたい。


 決意するのは早かった。


 変わりたい、変わってみせる。


 いつの間にか、強い意思が築かれていた。


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