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私よりも年上で私の境遇を知った人は気に掛けてくれる事が多い。それはとても有り難かったし、けれど少しだけ苦痛でもあった。
誰かに手助けされると、それが癖になってしまいそうで恐い。なるべくなら伸ばされた手を角が立たないようにさりげなく回避して、自分でなんとかしたい。誰かに縋ることをしてしまったら、敗けを認めたようで情けない気がして、今まで自分でなんとかして来た。
親がいない、高校にいってない、そんな人は沢山いる。私は自分と同じような人に会った事がないけれど、確かにいる。この世で一番可哀想なのは自分だなんて思いたくもないし、同情されたいとも思わない。だけど、いきりたって同情を否定もしないし他の人が私を可哀想だと思っていることにも怒ったりしない。
――自分のことなのに、何故か他人の人生のように感じてしまって、いつも生き方が曖昧だった。
「着いたから出てこい」
明子さんに荷物をお願いして、数分後に葉山さんから電話が掛かってきた。
ネットカフェの自動ドアを開けて外に出る。葉山さんはネットカフェに併設されている駐車場で、車から降りて待っていた。白いカッターシャツの袖をまくり、楽な格好をしている。ただ立っているだけなのに葉山さんは姿勢が良い分佇まいが様になっていた。出てきた私に気がついて、煙草をくわえたまま葉山さんは私を見上げる。
「こんばんは、葉山さん。おつかれさまです」
「……ああ」
「今日は終わるの早かったんですね」
派遣と違い黒服は日付が変わるまで残業する事が多い。宴会後の片付けに翌日あるパーティーの設営、毎日行われるパーティーに備えてホテル内を走り回る姿はいつも忙しそうで輝いて見える。
時刻は午後二十三時、日付が変わっていないので普段よりはずっと早く終わった方だと思う。疲れていないのかな、と葉山さんを窺ってみるけれど葉山さんは眉間に皺を寄せて何故か私を睨みつけた。
「お前、俺が居なかったから調子に乗ったんじゃないだろうな?」
「どういう意味ですか……」
「何で別の仕事をするって決めたんだ。そんな話聞いてないぞ」
「言ってなかったですから……ちょっとお金が必要になったのでやむを得ずです。そういえば、葉山さん。今日は午後からだったんですね」
今日の昼に会食が行われたとき、葉山さんは来ていなかった。午後からの出勤で半日勤務だったらしい。私が帰る夕方に出勤して来たからか、すれ違いで会わなかった。
それにしても意味が分からない。葉山さんが居なかったから調子に乗ったというのは何の事だろうか。
「話を反らそうとするな。俺が半日だったのはどうでも良いことだろう。午前でもし俺に会ってたら、昼だけの勤務になることを俺には言わなかったんじゃないのか?」
確かに、言い出し辛かったかも知れない。葉山さんは怒りん坊な人だし怖い。言ったら怒られるとは思っていた。それに、私をよく気に掛けてくれたことも言い出し辛かった理由になる。感謝の気持ちは沢山あったし、社員に推してくれるとも言われていた。けれど、それとこれとは話が別だ。たとえ葉山さんに会っていたとしても、私は派遣会社に夜勤務不可の申し出をしたと思う。葉山さんの言うように鬼の居ぬ間に、という気持ちで言った訳ではない。
「それは違います」
「じゃあ、何でこんな急に」
「仕事を紹介してくれた人が居るんです。話をされたのがちょっと前で、働けるってほぼ確定したのが一昨日だったので、今日会社に言って来ました」
「どこで働くんだ?」
「クラブです」
「は?クラブ?お前が?」
「はい」
目を丸くした葉山さんは意外と幼く見えた。そんな顔を見たことがなかったからだろうか。私は葉山さんのプライベートをほとんど知らないので少し新鮮だった。
未成年の私は仕事が早く終わっても飲みに行けない。何度か声を掛けて貰ったこともあるけれど、お酒の席でジュースを飲むような無粋な事は出来なかった。というのは建前で、本当は二十代、三十代の人たちの会話に入れないだろうなという気がして敬遠していた節がある。どう頑張っても、きっと会話についていけない。まだ十八年しか生きていない私と、沢山の経験をして大人になった回りの人たち。見えないけれど確かに壁がそこにはあった。
「どこのクラブだ」
「ホストクラブらしいです」
「……もう一回聞いていいか?」
「ホストクラブの裏方らしいです」
「止めとけ。お前はホールスタッフが天職だ」
真面目な顔をしてそう言う葉山さんは冗談を言っているような雰囲気ではなかった。だから、つい聞き返してしまう。お世辞ではなく、葉山さんの中でそう思っているということに引っ掛かりを感じて。
「天職ですか?」
「お前が入ると空気が変わる。スタッフ達のな。……ちょっと乗れ」
煙草を携帯灰皿に押し付けて、葉山さんは運転席のドアを開けた。乗れ、と視線でも訴えてくる葉山さんに浅く頷いて助手席の方に回る。車の中は思っていたより無臭で、煙草の匂いはあんまりしなかった。
「飯は食ったのか?」
「はい、さっき食べました」
「なに食った?」
「ハヤシライスを……」
「ネットカフェで食ったとか言うなよ」
「……ネットカフェで食べましたが」
「居酒屋まで付き合え。俺はまだ食ってない」
あんまり意味のない会話だと思った。どうせ行くなら聞かなくても良さそうなものだ。けれど、何となく葉山さんが気を使ったのかも知れないと思って何も言わずに黙っておく。
人の車に乗るのは久しぶりで少し懐かしい気がした。最後に乗ったのは同じ派遣会社に登録しているお喋り好きな主婦のおばさまの車で、帰り道が同じ方向だからとご親切にアパートまで送ってくれた。たまに同じ仕事に入ったら、派遣の同僚が送ると言ってくれることがある。同僚とは言っても殆どが年上だが。しかし、古びたあのアパートを見られたらまた何か影で言われそうで、送りの申し出は断っている事の方が多かった。
「チームにお前が居ると周りがしっかりする。……いつもよりやる気になっているのが分からないか?」
「それはないです。担当する黒服の人が誰かによって女の子はモチベーションが上がったりますし……」
「男女関係ない。とにかく、お前が居るのと居ないのじゃ全く違う。だからお前が入る件数が減ったら困る」
「……買い被り過ぎだと思います。私、結構派遣の人から嫌われてるの知ってますから」
三年も続けていると、会社が私をよく使うようになった。ドタキャンもしないし経験もある、新人を派遣して失敗されたら困るから、私と新人をセットにしたがる。新人は私が年下だと知ると嫌な顔をするし、急に敬語からタメ口になったり、黒服から言われた仕事を私に押し付けたりしてくるときもある。
一番酷かったのは、長年勤めていた会社からリストラされて派遣会社に登録した四十代の男性だった。私みたいな小娘から教えられる事が我慢ならなかったらしく、罵詈雑言の嵐。派遣会社は私と男性を組ませた事を謝っていたけれど、最後まであの人は私を馬鹿にしていた。どこから私のことを聞いたのか、“中卒ごときに”と何度も言われ、見下されていた。そんなあからさまに上から目線の派遣は今でも何人かいる。
「……裏に出た途端に走り出す奴はお前くらいだ。空き瓶を見逃さずに一回で何本も回収して、新しいビールを需要のある場所ピンポイントで置いていく奴なんてそうそういない」
「それは、時間が惜しくて。回収に何回も出るより一回で沢山持って帰った方が新しいビールを早く運べるので……」
「それを考えて仕事する奴は少ない。言われた事しかやらない人形みたいな派遣とお前は違う」
「だって葉山さんが言ったんじゃないですか。言われてから動くのは誰にでも出来るから、言われる前に動けって」
葉山さんはその日のチームになったスタッフ全員にそうやって事前に言う。気配りを忘れるな、小さな事でも察知して先に動くように心掛けろ、それが葉山さんの常套句だ。私はそれに従っているだけで、周りもそれは同じだ。
「言われて、それが出来るのはほんの一握りだ」
「慣れたら誰でも出来るようになると思いますけど……」
「大概は慣れようとしていない。派遣された先でどうやったら効率が良いかなんて考える奴の方が少ない。全部教えてやっても出来ない奴ばっかりだ」
「……最初はみんな分かりません」
「分からないのに聞かない派遣が多い。何をしたらいいか、聞いてこない。言われなかったからしなかった、そういう人材で溢れていると思わないか」
私の方を見ずに葉山さんは前を真っ直ぐ見つめて話す。その表情は怒っているような、複雑そうな顔だった。
「会場から下がって裏に出たら、お前はいつも走る。俺は女じゃ無いから分からないが、踵があるパンプスはさぞかし走りにくいだろうな」
「慣れたら、平気ですから」
「靴擦れしたから休ませて欲しいと簡単に言ってくるスタッフが多い中で、お前は何があっても絶対に休まない。弱音も一切吐かないだろう」
誰かが抜けたらどこかのテーブルが回りと比べておざなりになる。ドリンクが欲しい、スプーンを落としてしまった、ちょっとした事でスタッフに声をかけたいときに居ないような状況が出来上がってしまう。
「休んでる間も、パーティーは動きます。……飲み物だって減るし、お皿も汚れます。テーブルが埋まったら次の料理が出せません」
「他のスタッフがやるから多少の間は抜けても問題ない。たまに居るだろう、服が汚れたから、ストッキングが破れたからって馬鹿みたいに時間かけて戻って来ないスタッフが。お前はなんで意地でも抜けない?」
「……動く人間が一人でも多い方がテーブルは綺麗な状態を長く保てます」
「それを初めて思ったのはいつだ」
「……覚えてません」
いつからそんな風に思って働いていたのかなんて、覚えていない。ただ、きらびやかな飾りとライト、お洒落な料理の中で、お客さんが楽しそうに笑っている。そんな笑顔が最後まで続いたら、きっと楽しい思い出として記憶に残るから、不快な気持ちで帰らせてしまうようなことにだけはしたくない。だから、少しでも気持ちよく過ごして欲しい。そんな思いで。
「最初からだ。お前は最初からそう思って仕事をしていた。違うか?」
「……最初なんて、右も左も分かりませんでした」
「着替えて戻って来たお前にバーカンを任せたのは氷、熱燗、足りなくなったドリンク、それを補充させるサポートとして使っても大丈夫だと思ったからだった」
「はい……」
「あのとき、お前がやったのは黒服の仕事だ」
「……あの、何の話ですか?」
「バーカンに行く前に、どこに行った?」
信号で、車が停まる。葉山さんはじっと私を見ていた。シートベルトを握っていた私の手には、自然と力が籠る。なんでこんなに咎められるような言い方をされているのか分からなかった。
「五分って言ったのは、最初からそれを計算に入れてたからだろう? だから、早くに終わったからお前は五分も掛からずに戻って来た」
「……あの、いけないことだとは知りませんでした。すみません」
「謝る必要はない。――厨房で聞いた。お前が料理長に頭を下げたってな」
ホテルで権力が強いのは、いつだって厨房の料理人だ。彼らは料理を駄目にすると、酷く機嫌を損ねる。料理を駄目にするという失敗は追加で作らなくてはならない厨房にとって、一番面倒な失敗でもある。同時に、一番苛つく失敗だ。次々に作らなければならない料理。慌ただしく動き回るせいで前に何を作ったか、次は何を作るのか、忙しさのせいで混乱することもある。そんな中で駄目にしてしまった料理をもう一度最初から作れと言われたら、怒るのも無理はない。料理を駄目にする事はタブー、厨房はいつもピリピリしている。そして、料理長はいつでも大変な思いをしている。黒服に怒鳴られて泣く子も沢山居るけれど、厨房に怒鳴られて泣いた子はそのまま止めてしまう事が多い。それくらい、厨房のコックは荒々しくて怖い。
あの日、料理を制服に掛けられて、その場を抜け走った私はまず厨房へ謝りに向かった。ソースが飛んだ料理を葉山さんが下げさせたのを見ていたのだ。作り直して貰うしかないということは一目瞭然だった。だけど、葉山さんはその場の責任者で簡単には抜けられない。
だから先に行った。謝りに、事情を説明しに、お願いをしに行った。だって、スタッフが謝りに行くのは過去何回か見ていたのだから。それがいけないことだとは全く思っていなかった。
「俺が説明したら、深山料理長が珍しく笑ってたな。……根性がある奴は久しぶりだってな」
怒鳴られて、何度謝っても、決して返事をしてくれなかった。だけど、仏頂面で“作らない”とぶっきらぼうに言われてしまったら、どうしても引き下がれなくなった。深く頭を下げて何度も声を張り上げてお願いしたら、深山料理長は「少し待て」とだけ言ってくれて。それが嬉しくて、胸が一杯になるような気持ちでお礼を言って、着替えて戻った。事務室まで本気で走ったら一分弱、ボタンに手を掛け走りながら脱いで、戻りながら制服を着た。制服の下はTシャツだから、特に恥ずかしさは無かったけれど。
「深山料理長がそんなことを?」
「……ついでに、あの後チーフが笑っていたな。ファッションショーの舞台裏をやってる奴がいたとかで。いったい誰のことだろうな?」
「み、見られてた……」
恥ずかしくてつい俯いた。誰かに見られているのには全く気がつかなかった。そういう慎みのようなものは、いつ身に付くんだろう。中学生のときはバスケ部で、タンクトップ姿なんて見慣れたものだった。普通のTシャツだから見えても大丈夫だと思ってしまったのだ。
「お前の形振り構わない所はみんなが見てる。いつも一生懸命な所もだ。それが凄い事だとは思わないか?」
「……分かりません」
「仕事に全力で取り組むと、疲れるだろう。たまには手抜きをしたくなる。そんな息抜きがないと仕事が嫌になるからな」
居酒屋の駐車場に車を停めて、シートベルトを外した葉山さんは首の後ろに手を宛てて溜め息を吐いた。
「たまにはサボりたくなる。本当は一回で取りに行ける料理をわざと二回に分けて歩調緩めたり、ビールの空き瓶なおす振りをしながらこっそり休憩したりな」
「え? 葉山さん、そんなことしてたんですか?」
「……俺はしていないが、お前も絶対にやらないだろう。どうしてだ?」
「だって、仕事ですし……」
「サボりたくならないか?」
「なりません。時間いっぱい動きたいんです」
「だからな、“天職”だ」
葉山さんの言っている意味が、何となく分かったような気がした。
会場の下見をするときのわくわく、設営している最中に思い描く配置の想像。ミーティングする時の綿密なやり取り、乾杯の緊張が弾けて賑やかになる雰囲気。終わりを告げる挨拶は侘しくもあり、会場から出ていく人並みは寂しい。静かさを取り戻した空間は、次のパーティーの準備が始まるまでに綺麗にされる。パーティーが始まる瞬間と、終わった瞬間が好きだった。――婚礼も同じ。
お客さんを迎え入れる合図は黒服の“オープン”の一声。それが大好きだった。
終わった後に扉を閉めると、黒服がまた合図する。“片付け”の一声にみんなは従って、会場の片付けに取り掛かる。
一斉に動き出すスタッフの空気が私にとっては堪らなく切なくて、片付けながら今日の反省をして、次のパーティーがどんなものになるかを想像する。
嫌なことは全て仕事以外にあった。人間関係で躓いても会場がそれを消してくれる。ホールの中を少しだけ早足で歩き回るのが楽しくて堪らなかった。
「そうかも、知れません」
「気付いていないのはお前だけだ。周りはお前が会場に入ると気を引き締める。いつもより楽しそうに、やり易そうに仕事をしてる」
そんな事が、本当にあるのだろうか。私はいつも同じ気持ちで仕事して、特に何も変わらない気がする。周りが変わっていると思った事は一度だってない。
「指導側のお前が一番走り回って、一番気配りが出来てる。……触発されるんだろう、楽しそうなお前を見てると自分も楽しくなったような気になって」
車から降りた葉山さんに続いて私も車を降りる。
「……楽しくないんですか? 葉山さん」
並んで歩きながら問いかけると半歩先にいた葉山さんは静かに私を振り返った。
「今の仕事は好きで始めたわけじゃないからな。たまたまホテルに就職して、たまたま今の役職についた。楽しいと思ったことはない。……でも、プライドだけはある」
「仕事に関してのプライドですか」
「そうだな。お前に負けたくないって思うくらいにはプライドが高いと思うぞ」
「私に……?」
ガラリと音を立てて居酒屋の扉が開く。いらっしゃいと迎える声が右側から聞こえてくる。
「社員はそんな奴ばっかりだ」
どうしてですか、と聞きたくなった。入口の真正面奥にあるお座敷でテーブルを囲む人たちは見覚えのある人ばかりで。唖然とする私の背中を押して、葉山さんが楽しげに言った。
「他の仕事に浮気してる暇があったら、もっとがむしゃらに社員を目指せ。――もうとっくに同僚になったつもりでいるらしいからな」
人前なのに、ダメなのに、目に涙が滲みそうになる。
見慣れた社員の人達が軽く手をあげて迎えてくれていた。