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 派遣会社が新しく取ってきた勤務先は、全国的にも名前がよく知られた一流と名高いホテルだった。


 選りすぐりのスタッフに、経験豊富な黒服達。

 海外での留学を終えて勤務する社員が多い中、派遣の立場はやはり弱い。


 派遣会社でもそんなに大きくはない私の在籍する派遣会社は、競争率の高いそのホテルに何とか入り込めたらしい。


 それでも派遣する人材は他の会社よりずっと少ないが、まずは経験があるスタッフを――と私にそこへの勤務を打診した。



 行ってみないか、と聞かれても当然答えは断りだった。



 今のホテルを中心にしてずっと派遣されている私が、新しい場所にいきなり突っ込むのは不安でもあり、一流と言う所に気が引ける。


 そんな場所でやっていく自信は持っていない。


 しかも、初めての派遣となる大事なチャンスの場に、私が入るなんてとんでもなく役不足だ。



 失敗は出来ない、良い印象を残さなくちゃいけない。そんな重圧に耐えられるような鋼の心臓は持ち合わせていない……のに。


 どうしても、と言われると非常に断り辛くなる。しかも、葉山さんは簡単に「勉強して来い」なんて言う。


 絶対に無理だ、そんなに心臓が強くないと答えた私に、派遣会社も葉山さんも「なにを言ってるんだ」とばかりに笑い飛ばして首を振った。



 ……そんなに図太くないんですが。



 渋っていた私に派遣会社は一ヶ月だけと期間を設け、葉山さんなんて行かないなら仕事を回さないとまで言い出した。


 これぞ正に職権濫用……!


 不満が残る部分はあるものの、勉強だと割り切ってどうにか気持ちを切り替えながら挑んだ新しい派遣先。



 これが本当に大変だった。


 社員は派遣を使い捨ての小間使いのように扱って、失敗したらすぐに派遣先に苦情を出した。


 求められたのは“言うことを従順に聞く失敗しないスタッフ”で、こっちの意見は聞きもしない。


 派遣をフォローする所か責任を押し付けて辞めさせてしまうし、頭で行っていた私の苦労は多大なものになっていた。


 派遣の子の失敗を然り気無くフォローしながら、社員に気を使う日々。


 へとへとになって帰る私に、葉山さんの淹れてくれたホットミルクは涙が出そうなくらい癒しだった。


 芹澤さんもたまにご飯を作ってくれて、これまた味はプロ顔負けだ。私の作る家庭料理とは違い、お洒落な料理を作れる芹澤さんに何度感動したことか。



 見た目にも楽しい料理の数々、葉山さんの温かいホットミルク、この二つが無かったら本当に挫けてしまいそうだった。




 実は言うと、葉山さんと一線を越えた事はまだ一度もない。住み始めた時はまだ、ただの同居人だったから。


 そこから進展したと言えば、恋人と言う肩書きとたまに抱き締められるくらいだ。キスもそんなに交わしてない。


 疲れた時、葉山さんの身体に寄り添う事はあるけれど、葉山さんは手を出す素振りは見せないし、第一にそんな空気に余りならない。


 色っぽさのない癒しの雰囲気だけで――と、思っているのはもしかしたら私だけかも知れないが。


 葉山さんが私に何かしらのアクションを取らない限り、自分からは何も言わないでおこうと決めている。



 実際の所、キスから先の行為については半分以上が未知だった。抱き合って、触れて、それから先。


 その先は今一分からないけれど、何となく……本当に何となくしか知らなくて。


 保健の授業でも対して説明をされなかったせいで、曖昧なのは本当に困る。


 だけど、どうやって勉強するかと考えてみても、葉山さんと住んでいる以上そういった資料を買うのは気が引けた。


 しかも、第一に何を資料にしていいのか明確な事が分からない。


 漫画?雑誌?DVD?

 どれが良いのかすらさっぱりだった。



 と、まぁ……葉山さんと私の関係を改めて考えるのは止めにして。



 明日から元のホテルに戻れると正式に決まり、私の気分は急上昇した。


 やっぱり一流だけあって、勤務していたホテルもサービスは手厚く抜かりが無い。きびきびとした黒服から指示をされると、此方も背中が自然と伸びる。


 宴会やパーティーだけならば、惚れ惚れする程に楽しかった。


 綺麗な装飾に配置された鮮やかな生花、金額がさぞかし凄いだろうと言うパーティーは、働く私にも気合いと元気を与えてくれる。


 結婚式になると途端に豪勢さは増して、流石……としか言えなくなる程に素晴らしい会場作りを見せて貰えた。



 だけど、やっぱり。



 愛着のある馴染み深い元のホテルは私にとって特別だ。

 たまに別の場所にも行かされるけれど、それだって本当に数が少ない。



 だから段違いに特別で、葉山さんやチーフの居る優しく厳しいあの場所が私にとっては一番だった。



 玄関のドアを開けると、ふわりと良い匂いがする。空腹が刺激される香りについつい緩んだ私の顔。


 靴を脱いで玄関に上がり、ただいま帰りました!と声を掛ける。


「おかえり」


 ひょい、と顔を出したのは芹澤さんで、いつもの無表情さに笑みが溢れる。


 今日ばかりは、何でも私の気分を良くさせてしまいそうだ。


 リビングに入り、にやけた私を見て葉山さんが怪訝そうに眉を顰める。


「……緩んでるぞ」

「うん、緩んでるね」

「間抜けな顔だな」

「限り無く能天気だね」


 兄弟二人して私の顔を訝しげに見る。そんな事を言われても、今日の私は上機嫌だ。


「緩みますよ!だって明日から、」

「残念でした。そんなに簡単な話じゃないんですー」


 ブッブーとNGを出した芹澤さんに、葉山さんがハリセンを持ち出した。


 スパーン!と小気味良く響いたハリセンに芹澤さんは僅かに眉を動かして、叩かれた部分をさすさすと撫でた。


「まぁ、話は食べながらしよう。今日はロールキャベツだよ」

「トマトですか、コンソメですか!」

「トマト」

「やった……!いつもいつも、ありがとうございます!」

「あげないけどね」

「えっ!?」


 再びハリセンの出番が来たらしい。


 葉山さんが構えたのを見て、くるりと爪先の向きを変えた。



 さて、荷物を置いて来よう。背後で響いた音は聞こえない振りで部屋に向かった。





 リビングに戻って二人を見ると何やら真顔で話していて、何となく嫌な予感がする。


 基本的に無表情が多い兄弟だけれど、葉山さんは私を見る時に目尻がほんの少しだけ下がる。


 ……決してのろけとか、そんなつもりは全く無い。優しい目をするなんて、そんな、そんな、自慢でもない。――誰かに自慢する機会は皆無と言って良いほど無いのである。


 寝惚けている時は普段の強面が崩壊して柔らかく笑うだなんて。――正直言って、転がり回りたくなるくらいにドキドキしました。誰にも言えない小さな秘密。



「美月、立ってないで座れ」


 思い出しにやけをする私に葉山さんの邪魔が入る。本人を邪魔だと言うのも何だけれど、ギャップが激しくて可愛い葉山さんは滅多に見れないから記憶の中ですらとてもレアだ。


「はい。そう言えば、明日の入りが、」

「ちょっと待って。仕事の話は後」


 椅子に座った私を見て、芹澤さんが手の平を出す。


 そんな分かりやすいストップは初めて見ました、なんて揚げ足は取らずに芹澤さんを見るだけに留める。


「あのね、佐藤さん。……じゃなくて、美月」

「何故に名前呼び……」

「いちいち突っ込むな。疲れるだろう」

「……正直言ってちょっと疲れます。芹澤さん、何ですか?」

「ライバルが居るよ」

「はい?」


 一体何を言い出したんだ。さっぱり意味が分からない私に念押しするかのように、芹澤さんはもう一度言った。


「ライバルだよ、佐藤さんの」

「あ、宮坂さ」

「違う。そいつじゃない」


 あっさり否定した芹澤さん。じゃあ何だと葉山さんを見ると、面倒そうに息を吐かれた。


 だけど、それが私に向けた物ではなく芹澤さんに向けた物だと、今までの流れでちゃんと知っているのである。




「真琴、お前の説明は壊滅的だ」

「兄貴も似たような物だと思うけど」


 何言ってんの、と芹澤さんは葉山さんを見て、葉山さんは私を見据えた。


「……こ、」

「こ?」

「好意を持たれたらしい」

「えっと、葉山さんがですよね?」

「そうだ。だが、別に俺が何かした訳じゃない。ただ勝手に向こうが――」

「ええと、はい、分かりました。それで、どういうことですか?」

「……」


 口を濁す葉山さんは気まずそうに目線を反らした。言いたい事は分かったけれど、聞きたい事はそれじゃない。


 真面目で硬い葉山さんが相手にモーションを掛けたとは流石に思ってなんかいない。私が知りたいのは、それをどうしたかと言うことだ。


 好意を持たれたその後の、葉山さんの反応が知りたかった。


 こうして私に“自分が何かしたのではない”と言ったのならば、葉山さんの気持ちが傾いたとは思えない。


 だけど、芹澤さんと話して芹澤さんが重要視したくらいだから、私に何かしら影響があるんじゃないかと思う。


 ただ好意を持たれただけで、葉山さんはきっとこんな顔はしない。


「葉山さんと芹澤さんが、話し合うくらいの問題ですか?」

「……鋭いよね、美月」

「あ、名前で呼ぶのはもう完全に固定なんですね。いや、良いんですけど」

「怒ってるのか」

「え!?」


 何だか急に顔を曇らせた葉山さんに慌てて首を振り否定する。


 怒ったりなんかしていない。むしろ、何の問題があるのかひやひやしていると言った方が正しい。



「美月の話を、今日の仕事終わりに梶川がした。余計な事に」

「はい」

「それを聞いていた新しい社員が、妙に食い付いて来てな」

「その社員さんが葉山さんに好意を持ってるって事なんですね」

「ああ。その場で告白を、された」

「そ、それは……」

「いや、分かっている。俺には美月しかいない。当然だが、断った」

「そうではなくて、……職場で告白というのはちょっと、うーん……と思いますけど」

「そっちか」


 他にも人が居る状態での告白はいかがなものかと思います。

 とはいえ、その勇気は凄いと思う。度胸がある人なんだとも思えた。


 そういう人ならきっと、深山料理長から怒られても大丈夫そうだ。



「なに考えてるか知らないけど、美月が思ってるような奴じゃないよ」


 芹澤さんの言葉はいつも冷たいけれど、今日は何だか更に冷たい。



「人目がある所で告白すれば気を使って貰えるでしょ。しかも兄貴は無下にも出来ないし、何より考え方が卑怯。って俺は思うけどね」


 辛辣な言葉の裏に見え隠れする芹澤さんの感情。何となく気が付いて、恐る恐る口に出してみる。


「……楽しそうですね」

「やっぱり分かる?すぐに泣くから楽しくて楽しくて」

「お前……楽しんでたのか」

「兄貴が邪魔に入るから、舌打ちしたくなったけどね」


 葉山さんは驚愕の表情を浮かべ、芹澤さんに絶句した。


 何だかとても楽しそうな芹澤さんは、意地悪さ全開でついっと口角を上げて見せる。


「やっぱり美月は察しが良いな。兄貴のじゃなかったら俺が欲しいよ」

「やらん!」

「……とりあえず、ロールキャベツ食べても良いですか」


 出来ることなら冷める前に食べたい。むしろこの会話に入りたくない。


 自分を取り合う兄弟なんて、……ちょっとにやけそうになりました。主に葉山さんの即答に。


「頂きます」


 手を合わせた私にくすりと笑った芹澤さんは箸を握って呟いた。


「やっぱり精神的に強いって。兄貴に鍛えられてるんじゃない?」

「……」



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