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ホテルに勤務し始めてもう三年が経つ。
おじさんが紹介してくれた派遣会社は配膳、婚礼、葬祭を取り扱う会社だった。十六歳から登録を受け付けていて、軽い面接の後にどこへ行くか振り分けられる。私は配膳スタッフ兼婚礼スタッフとして登録されており、フリーターということもあって勤務希望者が少ない時間帯の昼間の仕事をよく回されていた。朝から昼まではお偉いさんの勉強会や大規模な講義なんかが催され、昼からは会食であったりバイキングであったり、はたまた婚活パーティーなんてものもある。一番忙しいのは夕方から夜で、結婚式やパーティーなどスタッフが多く必要になるせいで、常に人員不足気味なホテル側は派遣会社の人間を起用せざるを得ないらしい。
その中でも私は悪い意味で異色だった。十六歳なのに朝から夕方までの仕事に派遣され、ホテル側の社員はやっぱり訝し気に思う。こんな子供が使えるのか、こんな子供に任せて大丈夫か、そう思うのは当然だった。
「名前が無かった事もあったっけなぁ……」
一日に数ヶ所で何回も行われるパーティーは形式が立食であったり、バイキングであったりと毎回違う。スタッフはそれぞれの会場と役割を割り振られて、開始約一・二時間前に会場入りをして前準備を始める。
派遣社員の誰が来るか、予め派遣会社からホテル側には伝えてある。事務所のホワイトボードには配置される全員の名前が書かれているのが常だった。それなのに私の名前が無かったのは、その日ホワイトボードに名前を記入する担当だった人が私を嫌いだったから。昼間にアルバイトに来るような教養の足りない十六歳の小娘なんて、全く役に立たないとみんなそう思っていた。
基本的に昼間の勤務を主にして貰っていた私が夜のパーティーに初めて出たとき、周りが高校生の塊でかなり驚いたことを覚えている。食事を運ぶのもビールの空き瓶を回収するのもお皿を補充するのも、半分以上が高校生。中規模な一つのパーティーに責任者として割り当てられる黒服は大体一人か二人。ホテル側の社員である黒服は段取りを確認して指示を出す。ホテル側のアルバイトは数名、残りは人材派遣で来たアルバイトの高校生達だった。
夜は高校から大学生まで、たまに社会人の派遣スタッフ。昼は主婦や大学生、そこそこ良い歳のフリーター。その中に不自然に紛れている身長が低くて童顔な私。もしも老け顔だったなら、もしも身長が高かったなら、そこまで嫌われることもなかったのかもしれない。
若いアルバイトで昼間に働いている。たったそれだけでも噂好きなおばさん達や高校生達に変に噂を広められて、触らぬ神に祟りなしと言わんばかりの扱いだった。
けれど、それも一年以上が過ぎると変わり、入れ替わりの激しい派遣スタッフの中では噂が消えるのも早かった。一時期、派遣登録している人数ががっくりと減り、昼間だけでなく夜も入って欲しいと派遣会社に頼まれるようになった。それからは、ホテル側の黒服もスタッフも頻繁に私と顔を合わせることが多くなって、大分話をするようにもなった。
――着替えて来ます!五分下さい!
きっかけは、あれだったと思う。私のことが嫌いだった女子大生が、持っていた料理をすれ違い様にわざと私の制服にぶつけたとき。牛フィレ肉のデミグラスソース掛け、という料理名で婚礼料理のメインだった。黒のタイトスカートに真っ白な上の制服、ソースは胸元から腹部へと掛かり、地味な嫌がらせに腹が立ったし挫けて泣きそうにもなった。挙げ句の果てには黒服から「帰れ」とひどく怒鳴られて、悔しくて堪らなかった。
それでも、負けたくなくて、このまま帰りたくなくて。
事務所には派遣スタッフ用の制服がごまんとある。責任者である黒服から帰れと言われても頷かずに食ってかかった私を、面倒臭そうに黒服が見下ろしたのを覚えている。それでも着替えて戻って来た私に黒服は顔を顰めながらも、仕方ないと言わんばかりの態度で指示を出した。
――バーカンの隣に入れ。
バーカン、略さずに言うとバーカウンターのことだ。ドリンクを作る場所に割り当てられるのは、派遣のスタッフでもそこそこ経験がある人だけらしい。それを後から聞いて嬉しくなったけれど、その時ばかりは“今までやった事ない場所に急遽私を割り当てるほど私のことが嫌いか!”と、実はかなり悔しく思っていた。
今では、入れ替わりが激しい派遣スタッフの中でも三年以上働いて古株になった私は、新人スタッフの指導役に回される事が多い。それでも、私の年齢を聞くと急に態度を変える人は少なくない。これからは別の場所で夜働くことになったのだから、ホテルの夜パーティーと婚礼には出ない予定だ。派遣会社の方にはもうその意思を伝えてあった。
「……うわぁ電話、来た」
派遣会社に登録したその日、連絡先がなくて困った私におじさんが携帯を買ってくれた。代金は勿論完済しているが請求書の宛先は未だに追い出されたアパートになっていて、携帯ショップまで行って支払わなければならなかった。買ってから一度も変えていない、古い型の携帯電話だ。そして保護シールが随分前に剥がれてしまったディスプレイには、でかでかと葉山さんの文字。
ネットカフェの電話可能スペースに早歩きで向かい、通話ボタンを押す。
「いったい何を考えてるんだお前は! 正気か!」
開口一番に怒鳴り付けるのは葉山さんの専売特許と言ってもいいかも知れない。何だかいつも怒られているような気がする。
「……そんなに怒りますか」
「当たり前だろう! 二十歳まで今のまま働いてたら社員になれる可能性だってあるんだぞ?」
「ちょっと事情がありまして……別の仕事をもう一つすることになったんです」
「今まで頑張って来た功績が水の泡になるかも知れない。今すぐその仕事をキャンセルしてこっちを最優先しろ。分かったな?」
「葉山さんそれは……」
「昼も夜も使える人間なんて滅多に居ないんだ。それはお前だって知ってるだろう? お前みたいに時間の融通が利いて経験がある奴は他には居ない!」
ものすごく熱烈に口説かれているような気がするけれど、生憎それは間違いだ。おそらく葉山さんは都合の良い人間が居なくなるのが嫌ということなのだ。配膳や婚礼の派遣スタッフはどうしても入れ替わりが激しく、人がコロコロ変わる。二年や三年も働いている人の方が少ない。しかも派遣を“本業”にしている人はもっと少なかった。
この日は出られない、この時間は出られない。そんなスタッフばかりの中で、私はある意味派遣を本業にしているような生活スタイルだ。だから葉山さんは私を引きとめようとしてくれている。
「……出来ることなら毎日働きたいんです。今はそれしかなくて」
十六歳から約三年。派遣の仕事が食い扶持を繋ぐ唯一の仕事で、学校にも行っていないし他に仕事もしていない。つまり、昼夜を問わずに時間があった。だから、頼まれた仕事を断った事は一度もなく、昼に出て夜に出ることも出来た。時間帯構わず自由に取り扱える私の存在は派遣会社にとっても都合が良い存在だったと思う。
しかし、状況が少し変わったのだ。家を追い出されて住むところがなく、ネットカフェで日々浪費して、ぶっちゃけるとお金と住処にとても困っている。ネットカフェでの滞在時間を減らし、なおかつ夜も継続して稼げる。そのスタイルで行きたいともう決めてしまったのだ。
派遣の一番の欠点は“日によって仕事がない”ことだ。昼間に時間があるのは大体が主婦で、派遣登録されている中でも十代で午前中から勤務出来るのは私だけ。おばさま方に力仕事はさせにくいが、十代の私ならちょっと無理に使っても大丈夫だろうという無茶苦茶な理由で私は設営に引っ張られる事が多かった。
「昼は今まで通り来るんだろうな? もし昼まで断ったりしたらハリセンが飛ぶのを覚悟しておけ」
「……はは。あれ、意外と痛いんですよね」
――設営
結婚式やパーティーの会場準備である。机や椅子の配置、テーブルセッティングなど。丸テーブルはかなり重たいし、卓上に置くターンテーブルなんかも意外と重たい。腰にくるような重労働は基本的に黒服と派遣の男性スタッフ数名が行うが、昼間可で派遣登録している男性スタッフが極端に少なかった。必然的に私がお呼ばれされることになり、黒服との交流も増えた。葉山さんは私に帰れと怒鳴った黒服で、今は人一倍目を掛けてくれている頼もしい上司だった。
今日の帰りに派遣会社に寄って夜に出られないことを説明したばかりなのに、もうホテルに連絡をしている辺り仕事がとても早い。そして葉山さんも情報が早い。これは派遣会社を恨めしく思うべきか、嗅ぎつけた葉山さんが優秀だと尊敬するべきか。なんだか混乱してきた。
「今はどこにいる? 家か?」
「えっと……」
「こんな時間にどこをほっつき歩いてるんだお前は」
「ネットカフェに……ちょっと」
「迎えに行くから俺に時間とれ。ちょっと出てこい」
――いえ、それはちょっと。
そう言いたくなったのを誤魔化して、あーともうーともつかない唸りを上げた。一度出たら入るのにまたお金が掛かる。そんな無駄を出したくないのだ。
「誰かと一緒なのか?」
「いえ、一人ですけど……。出たらまた入るときにお金が掛かるんで」
「……読み途中の本か何かがあるのか」
「あー……はい」
「また入る金は出してやる。読みかけの本の続きは俺の話しが終わってから読めば良いだろう」
「えーっと」
「どこのネットカフェに居るんだ?」
「駅の近くにあるオレンジの看板の……」
「……大体の場所は分かる。着いたらまた連絡入れるぞ」
葉山さんの強引な所は仕事中でもプライベートでもさほど変わらないらしい。威圧的な物言いのせいで恐い黒服として派遣の女の子からは恐れられている。まぁ、お金出してくれるなら良いか、と単純に考えながらつい先程別れたばかりの明子さんのいるブースを訪ねる。
「あの、明子さん」
「あれ?美月ちゃん?」
「すみません、明子さん。少しだけ荷物見て貰ってもいいですか? お詫びに、次のご飯奢らせて下さい」
「そんなのいいわよ。今日は私も明け方まで読み切っちゃおうと思ってたし……もしかしたら朝になっても居座るかもしれないし」
「すみません……ありがとうございます」
結構厚かましいお願いだと思いながら恐る恐る申し出たけれど、明子さんは笑いながら頷いてくれた。流石は明子さん。もう明子様と呼ばせていただきたい。
自分の荷物を持って行ったら、葉山さんに何やら聞かれるかも知れなかった。それが面倒で明子さんにこうしてお願いすることにしたのだ。ちなみに、追い出されてから家具類以外のものはほとんど捨てて、残りの荷物は駅の大型ロッカーに詰め込ませて貰っている。
「でも、こんな時間からどこにいくの? 大丈夫?」
「はい。派遣先の人が話があるみたいで」
「あら、そうなの。……ねぇ、美月ちゃん。その人とは親しいの?」
「ううん……どうでしょうか。よくして貰ってるとは思います」
「男?女?」
「男の人……というよりは少しおじさんですね」
葉山さんは三十半ばだ。おじさんと言っても間違いはない歳だと私は思っている。
「頼ったり、できるひと?」
明子さんは私と出逢ってからたまにこういう顔をみせる。心配してくれているような、少し寂しそうななんともいえない不安げな顔。誰かに助力を求めることを勧める発言も度々する。
「そんな関係じゃないんです。ただの、派遣先の上司ですから」