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「こうなったらもう聞くけど、佐藤さんってどうやって生活してたの」
カレーを半分くらいまで食べた芹澤さんは、軽い世間話をするような調子で私に訊ねた。その質問の意味を考えながら、カレースプーンで掬う。
「お金のことですか?」
「まぁ、それも含めて」
黙々と食べていた葉山さんは、既に二杯目のカレーに突入している。視線が私に向いている事から、話はしっかり聞いているらしい。
「お父さんの恩師だっておっさ、おじさんが、」
「今おっさんって言ったよね」
「……」
「お前の猫被りはバレてる。普通に話せって言っただろう」
二人からの的確な指摘に言葉が詰まる。けれども、意図して敬語を使っている訳じゃないから、いきなりため口と言うのは無理だ。
「何と言うか、敬語は微妙に癖になってるんです。おっさんは最初からおっさんって呼んでたから、そのままで」
複雑な顔をした私をじろりと葉山さんが見て、芹澤さんが先を促す。
「で、おっさんがなに」
「身元引き請け人になってくれて、家も借りてくれたんです」
「……親戚は」
二皿目のカレーを食べ終わった葉山さんが、ミネラルウォーターを飲みながら短く聞いた。
「それが、両親どちらも早くに親を亡くしてたらしくて……」
葬式で遠縁の親戚が引き取りを嫌がったのは覚えている。顔を合わせた事もないような大きな子供を引き取りたくはないと誰もが押し付け合う様子を、他人事のように見ていた私。法的には働ける年だからと顔も見たことない親戚のおじさんは言った。
「成る程ね」
芹澤さんと葉山さんは何かを察したのか、それ以上親戚の話は続けなかった。
「その恩師とやらはどうした。家があるのにネットカフェで過ごしてたって事か?」
「三ヶ月に前に、亡くなったんです。おっさんは身元引き請け人になった事を奥さんに隠していて、奥さんは私を愛人だと思ったみたいで」
「そのおっさんはロリコン疑惑かなんかがあったの?」
「それは知らないですけど!」
確かに見た目が幼い私を愛人だと思った奥さんは気が動転していたように思えるけれど、はっきり言う芹澤さんもなかなかに辛辣だ。そんなに幼く見えるのかと言い掛けて、頷かれる可能性が高いと気付き口を噤む。
会話の合間にも減っていったカレーは残り一口となって、口に運ぼうとした途中で葉山さんが質問を投げ掛けた。
「つまり、佐藤は今のところ頼れる相手が居ないって事で良いんだな?」
「……はい」
頷いた私に芹澤さんが口角を上げた。笑った所は激レアだ。
「じゃあ、親戚の所に行くって言ったのは嘘か」
言われてからハッとした私に、葉山さんが息を吸う。
これはヤバい、近所迷惑に…
「――もっと早く言えッ!いつまでもうじうじと黙って隠し事をするな!」
遅かった。
落ちた雷を一身に受けて縮こまった私を指差して芹澤さんが笑う。プライベートでは表情豊かな兄弟にびっくりしながらも、お怒りの葉山さんを見上げて苦笑いする。
「……もうしてないです。これで全部話しました」
当たり前だ!と言わんばかりに睨む葉山さんからすいっと目を反らし、最後の一口となったカレーを食べる。咀嚼する間も芹澤さんはニヒルに笑っていて、葉山さんとそっくりな意地の悪い顔をしていた。
「取り合えず、漸く佐藤さんの事が分かって良かった。お金が必要って言い出した時はもしかしたら借金があるのかと思ったけど」
「ご心配お掛けしました……」
「全くだ!」
「今のは兄貴に言ったんじゃないと思うけど」
なんだこの息のあった兄弟コント。
思っても絶対に言わないけれど。命はまだ惜しいです。
「そういえば、宮坂さん。あの後、会場戻ったらわざとらしく泣いてたね」
「アイツはいつになったら強気な態度を止めるんだ。佐藤に食って掛かっても毎回泣かされて終わる癖に」
もたらされた情報にぎくっとした私を、横目で見る葉山さん。二人とも事務所に居た筈なのに、私が泣かせた事がどうしてバレてるんだろう。
「毎回兄貴に報告して来るんだよ、宮坂さん。好きなんじゃないの」
投げ遣りに私の疑問を解消してくれた芹澤さんは、どうでも良さそうに言い切った。宮坂さんが葉山さんを……?思いがけない矢印に私の背中はすっと冷える。
待て待て、もしそれが本当なら同居している私はかなり邪魔な存在になる訳で。
さぁーっと顔色が悪くなる私に、にっこり悪魔が微笑んだ。
「同居、バレたらやばいんじゃない」
「……ですよね」
これ以上火種を作る訳にもいかないと真っ青になる私に葉山さんが鼻で笑う。
「お前が気にしてもこうなった以上仕方ないだろう。諦めろ」
そんなに簡単に言っちゃうんですね、と溜め息吐きたくなるのを我慢して考える。私はいい、宮坂さんには慣れているし口喧嘩なんてお手の物だ。
心配なのはそれによる被害。
「他人に甘えるって言うのは、面倒も含めてだろう。何かあったらすぐに言え」
心強い筈なのに、今一頷けないままに私は苦笑いした。
遅い晩ごはんの片付けが終わるなり、じゃあ俺帰るとあっさり出ていった芹澤さんを見送って、リビングに戻ったら葉山さんがソファーで寛いでいた。
全身の力を抜いてぼんやりテレビを見る姿は、三十代の男性の雰囲気を惜し気もなく晒していてどきりとする。
「肩でも揉みます?」
「……どこぞの嫁みたいだな」
「年齢的には娘に近いですけど」
「風呂上がりに頼む」
言い出しておいて私のセリフをスルーした葉山さんは立ち上がってそう言った。素早く着替えを取って脱衣所に向かう姿は、仕事でよく見る早歩き。そんなに急いでいる意味が分からないけれど、脱衣所に入る寸前に振り返ってこちらを見た葉山さんに首を傾げる。
「……まだ寝るなよ」
「はい、待ってます」
肩揉みをしないまま寝てしまうと思われたらしい。言い出したのは私なのに寝たりなんかしないです、と内心だけで思いながら素直に返事をした。
葉山さんが座っていたソファーに腰掛けて、ついているドラマを上の空で見る。内容が頭に入ってこないのは、私が別の事を考え始めたからだ。
「……買い物、いつ行こう」
夜に仕事が入ったときは、スーパーが閉まった後にしか仕事が終わらない。出来れば夕方で仕事を終えて、夜に仕事がない日に買い物に行きたい。それから通帳記入にも行きたい。家賃がいくらかは分からないけれど、生活費その他の話をしておかないと、と考えて思い出す。
私に割り当てられた部屋へとビニールバッグを手に戻り、置いてあるボストンバッグを探る。
確か、ここに。
探り当てた封筒を手にリビングへと戻り、中の枚数を数えていたら葉山さんがお風呂から上がった。
黒いタンクトップにグレーのスウェット、ラフな格好なのに何故か葉山さんが着ると服がしっかりして見える。厳しい顔付きだからだろうかと観察していると、嫌そうに眉を寄せられた。
「……あんまり見るな」
「葉山さん意外と筋肉質ですよね」
「筋肉質な奴が好きなのか?」
「マッチョは好きです」
「……マッチョか、マッチョ、な」
葉山さんが言うと間抜けに聞こえるのはこれまた不思議だけれど、今はそんな話しよりも優先すべき事がある。
「葉山さん、これ。家賃がいくらか分からないんですけど、一先ずは」
「いらない」
「いえ、これは生活費で!家賃はまた改めて銀行に行ってから……」
「投資だと言っただろう」
不機嫌な顔になっていく葉山さんにたじろぎながら、渋々封筒を渡す事を諦める。
「然り気無く置いておくなよ」
図星を差されて固まった私に、お見通しだとハッと鼻を鳴らす葉山さん。
読まれてる…!どうしたものかと封筒を手に右往左往する私に有り難い解決策が提案される。
「朝食と夕食の食費は渡しておく。その金は細かい雑費に使えばいい」
「雑費って言うと……トイレットペーパーとかですか?」
「そこでその例えを出すお前が不思議でならない。ティッシュペーパーでも良いだろう」
「あ、いや、何となくトイレットペーパーが浮かんで…っていうか食費はいいです。私のついでに作るみたいなものですし、今日だって芹澤さんが、」
「佐藤は細かい事にうるさい」
「うるさいって何ですか!こういうの一番大事なんじゃ…」
「いいって言ってるんだから気にするな。お前は小姑か」
ひどい言い種だ。と言うか小姑って!
お金の話は気持ちが良いものではないし、出来れば早く終わらせたいけれど、こんな風にされるのは嫌だ。
納得しない私に葉山さんがふっと口許を緩める。
「納得していない気持ちを持っている間は払わせない。常に俺に負い目を抱えている方がお前は力まなくて済むだろう?」
「……それは、そうかもしれませんけど。でも、」
「俺に借りがあるんだから、無理して働いて身体壊したりしないよな。根詰めすぎて仕事で失敗したりしないよな?」
プレッシャーの掛け方が半端ない上に結構無茶苦茶だ。養われていると言っても過言ではない待遇をされると、家事も仕事もこなさなくちゃならない。だけど、こんな言い回しをされたら、自分に無理が出来なくなってしまう。
仕事に支障を来さず、家事にも支障を来さない、尚且つ体調も気に掛けて。そうなると他人の失敗を全部拾い上げたり、誰かの仕事を肩代わりすることは難しくなる。
遠回しだけれど、私に負担が掛かる仕事のやり方を変える他ないのだと言外に匂わす葉山さんはかなり楽しそうだ。
「お前はお前の仕事に集中して、前よりも良いサービスが出来るように心掛けろ。他人の失態や失敗に流されるな。分かりやすく言えば、無視しておけ」
「無視って、」
「いつもお前がやってるのは他人の仕事だろう。横取りするのはお前の勝手だ。何度も言うが、俺はそれが悪いとは思わない。だが、お前には自分の仕事のレベルを上げる事に集中して欲しい」
「……はい」
真剣な顔になって言った葉山さんに頷くことしか出来ず、返事をしながら眉を寄せる。
自分の仕事のレベルを高める。
それは、他人の失敗を何とかするよりも遥かに私にとって難しいことだ。
「ついでに言っておくと、俺が深山料理長にあの派遣を謝りに連れていった」
「……あああ!」
ショックを受けてすっかり抜けていた事を瞬時に思い出す。こんな事は初めてだ。途端に申し訳なくなって俯いた私の頭に、葉山さんの手が落とされる。
「そうやって頼る事に慣れて行け。今回みたいに何も言わないまま忘れているのは感心しないが」
「すみません……。葉山さん、ありがとうございました」
「深山料理長にはチーフが佐藤を強制的に帰したと言っておいた。顔には出さないが心配はしていると思うぞ」
「明日、挨拶しに行きます」
「そうしろ。で、いつ肩を揉むんだ」
急に拗ねた子供みたいな事を言った葉山さんに小さく噴き出して笑う。真面目に話しながらも、機会を待ってたのかと思うと可笑しくて堪らなかった。
「すぐやります。座って下さい」
ソファーから立ち上がって、葉山さんの背中を押す。立ち位置が入れ替わった事で、葉山さんの背中が私の腰辺りの高さになった。
肩に両手をゆっくりと置く。
本当は肩を揉むという行為は一時的な効果しかないと何かで読んだけれど、疲れた人にする行為としてもはや定番化しているのだから驚きだ。
「うわぁ、かったい……」
葉山さんのがっしりと石のように固い肩を揉みほぐしながら、出来るだけゆっくり力を込めていく。
「初めて人の肩を揉みました」
「父親には?」
「やったこと無いです」
他愛ない会話を繰り返して行くうちに、葉山さんは船を漕ぐようになっていった。こっくりこっくりと首が揺れて、十分もしないうちに睡魔に負けた葉山さん。
起こさないように気を付けながら身体を寝かし、ソファーに横たわらせて起こしてしまっていないかちらりと様子を窺う。
本当はベッドが良いんだろうけど、運ぶような腕力が無いので即座に諦めた。何か掛けた方が良いと悩んだ結果、勝手に葉山さんの部屋に入るには抵抗があるので私の自室から持ってきた布団を掛けて小声で挨拶をした。
「……おやすみなさい」
くるりと部屋に踵を返し、掛け布団のないまま横になる。携帯のアラームは六時、明日の入り時間は今日と変わらず九時だとメールが入っていた。
激動の一日、
目を瞑った私は今までで一番気持ち良く眠りに入れたような気がした。




