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 エレベーターを降りて葉山さん宅のドアまで辿り着き、ふと思い出す。


「あ、鍵……」


 そういえば、返してしまったんだ。


 ちらりと見た葉山さんは仏頂面に戻っていて、淡々と悪態をついた。


「事務員から渡された。誰が落とし物だって?そんなにお前は抜けてるのか」

「そうやってまた毒を吐く……」

「この変なカエルと馬は何だ」

「ささやかな嫌がらせです」


 つけられたキーホルダーをつまんで目を細めた葉山さんは、まじまじとピンクのカエルと青い馬を見比べる。


「こっちがお前のだな」


 すっと差し出された鍵は青い馬のキーホルダーつき。きょとんとした私に素知らぬ顔で葉山さんは鍵を開けた。


 え、もしかして可愛いもの好き?と気付くなり、つい笑ってしまう。



「葉山さん、ピンク好きなんですか?」

「笑うな。別に好きじゃない」

「えー……、じゃあ何でそっちを選んだんですか」

「お前に似てるからだ」

「それカエルなんですけど……って、私に似てたらどういう、」

「お帰り」

「え?」


 無人の筈の葉山さんの家に人。それも、私が見知った人。


 驚いて一歩後ろに後ずさった私に、すっと向けられた冷たい視線は特に何の感情も孕んではいなかったけれど、何となく身を引いてしまう。


 お帰り、と迎え入れてくれたのは今をときめくクールガイ、とは言い難いくらいに素っ気ない態度を取ると有名な芹澤さんだった。


「真琴、飯は」

「作ってあるけど、兄貴が好物聞いてくれないからカレーになった」

「……本人に直接聞けばいいだろう」

「それもそうだ。佐藤さん、好きな食べ物ってなに」

「えっ、いや、えっと…」

「先に上がらせてやれ」


 ずいっと迫ってきた芹澤さんに引き気味になってドアにぶつかった私を置いて、葉山さんは先に玄関へと上がる。



 いやいや、置いていかないで下さい。


 そんな私の訴えるような視線に気付いて溜め息を吐いた葉山さんは、芹澤さんの首根っこを引いて距離を開けてくれた。


「お邪魔します」


 二回目となる葉山さんの自宅に未だ緊張しながら上がり、芹澤さんの横をすり抜けて葉山さんの後ろへ回る。


 なにが何だか分からないけれど、芹澤さんは私の知っているイメージとは違いかなり積極的に近寄って来ようとした。それに引き気味になりながら、葉山さんを隠れ蓑にする。


「兄貴、ただいまって言わせないの?」

「本人の気持ち次第だ」

「だって。佐藤さん、ただいまって言ってみて」

「た、ただいま……?」

「ちょっとぎこちないね。ブリキのおもちゃみたいで変」


 この兄弟は揃いも揃ってなんて失礼な人達なんだ。ジト目で見た私に芹澤さんが無表情のまま親指を立ててつき出す。


「勝ち気な佐藤さんは良いね。肝っ玉母さんになりそう」

「……」


 芹澤さんってこんな人だったっけ…と思ったけれど、数々のエピソードを思い出してまぁこんな人かと納得する。


 葉山さんと同じで顔立ちは冷たくて不機嫌そうに見えるけれど、葉山さんは間違いなく動、芹澤さんは静だ。


「痛い痛い」


 人形みたいに顔色を変えず、葉山さんに引き摺られてリビングへ入っていった芹澤さん。取り合えず私もそれを追ってリビングへと足を踏み入れる。


「あ、良い匂い……」


 香ってきたのはスパイシーなカレーの良い匂い。空腹を刺激する香りに思わず顔が綻んだ私を、芹澤さんが一刀両断する。


「佐藤さんにはあげないよ」

「……すみません」


 当たり前のように食べさせて貰えると思った厚かましい自分に、少しだけ恥ずかしくなる。居候がなんて厚顔無恥なことを考えてしまったんだろう。


 慌てて俯いた私の前で、スパーン!と高い音が響く。


「佐藤をからかうな。……風呂は」


 顔を上げた先には自宅用と書かれたハリセンを握った葉山さんが居て、芹澤さんは恐らくハリセンが直撃したのだろう自分の頭を撫でていた。


「入ってるよ。佐藤さん真面目だから、ついいじめたくなる」


 無邪気な口調で言った芹澤さんにからかわれたのだと気付くなり、もの凄く悔しくなった。


 …芹澤さんまさかのドSだ。


「佐藤、先に風呂入って来い」


 何か言うのも癪だったので、一先ず葉山さんに頷いて、割り当てられた部屋に早足で向かってドアを閉める。


 何とも言い難い複雑な気持ちを抱えたまま部屋着のジャージと下着を抱えて、リビングを風のように横切りながら脱衣所へ向かう。


「あ、先に入って良かった、かな」


 通常なら、葉山さんが先に入るのが当たり前だ。脱衣所に来てから気付いた事に愕然として立ち尽くす。


 いくら優しいからってこれは駄目だ。親しき仲にも礼儀あり、明日からは葉山さんに先に入って貰おうと決めて今日だけは甘えておく。


「今更戻れないし……」


 溜め息を吐きながら服を脱いで、住んでいたアパートに備え付けられていたお風呂の三倍はある浴槽に複雑だった気持ちは遥か彼方へ飛んで行ってしまった。



 温かくて丁度良い湯加減にほっこりしながら携帯用のミニシャンプーとコンディショナーで髪を洗う。ボディソープもミニサイズを持参済み。


 弱酸性の泡が私の身体を滑り、一日の疲れを流していく。ふんふんふん、と鼻唄を歌い始めてハッとした。ここは私の家じゃなかった。


 ついリラックスしてゆったり入ってしまった事に気付き、慌てて身体を流していく。バスタオルも自分で持って来たものを使い、着替えの下着とジャージを身に纏う。


 半乾きの髪の毛をタオルでおざなりに拭きながら、脱いだ服やシャンプーなどを一つのビニールバッグに入れた。


 小学校の頃、母親が買ってくれたイルカのビニールバッグは水泳の時に大活躍して一部が破けたりしていたけれど、防水加工が施してあるテープで補修済み。物持ちの良さだけは私の自慢かも知れない。



 足早に脱衣所を出てリビングに顔を出した私は、既にテーブルについている二人を見て勢いのまま頭を下げた。


「すみません、お風呂ありがとうございました!」

「いいから座っ……真琴」

「佐藤さん、ドライヤーが脱衣所の三番目の引き出しにある。取ってくるから待ってて」


 指摘されて気付く。

 完全に乾かしてから出て来れば良かった。


 いらない気遣いをさせてしまい、お風呂で一時的に浮かんだ気分はまた沈む。どうしてこうも至らないのかと、自分を叱咤して唇を噛んだ。


「……気を遣うなとお前に言っても無駄だろう。でも、気にするな。ここが自分の家になった自覚を持て」


 一見冷たい言い方にも思えるけれど、葉山さんの言葉はしっかり私に安心をくれる。そんな事で怒ったりはしない、と暗に言ってくれているようにも思えた。



「……ありがとうございます」

「敬語も家に居る時は使わなくて良い。普通にしろ」


 それは、困る。同年代の友達と話すことが殆ど無かった私の敬語は、年上相手には半ば癖のようなものになっている。出来ることなら気軽な話し方をしたいし、敬語も使いたくは無いけれど、染み付いた習慣を簡単には止められない。


 反射的に敬語が出るのは無意識だ。


「が、頑張ります」

「……普通は逆だろう」


 呆れさせてばかりだけど、愛想をつかしたような雰囲気は見受けられなくて、不謹慎にも関わらず嬉しく思う。溜め息吐かれて喜ぶような変人では無いと思いたい。


「はい、どうぞ」


 戻って来た芹澤さんにドライヤーを渡されて、脱衣所に向かおうとした私を葉山さんが引き留める。


「そこにコンセントがある」


 ご親切に指差して教えて貰った場所へ行き、コンセントを差し込み電源を入れる。


 いつもは自然乾燥と言う手抜きな私にドライヤーの温かい風は心地好くて、癖になってしまいそうだと苦く思う。母親から髪を乾かして貰っていた記憶しかない私の手つきは何だか覚束なくて、完璧主義な葉山さんを苛つかせたらしい。


「……お前、仕事以外じゃ鈍間だな」


 貸せ、と乱暴に奪われたドライヤーは葉山さんの手に渡り、私の濡れた髪の毛へ指先が触れた。


 お父さんに乾かして貰った事は、たぶん無かったかな。


 案外、骨張った葉山さんの手は気持ちが良くて気が緩む。


 あったかい、やさしい手。


 擽ったくて気持ち良さの絶妙な温風は、あっという間に私の髪から水分を飛ばして行く。こんな風に誰かから髪を乾かして貰えるなんて夢みたいだと頭にお父さんを浮かべたら、じんわり胸が熱くなった。



「……可愛いなぁ、佐藤さん」


 芹澤さんが呟いた言葉に反応する余裕もないくらい、込み上げた思い出は私の嗚咽を引き出して行く。


 さっき泣いたから、涙腺が緩んだままなんだと言い訳しても足りないくらい溢れてくる涙は大量だ。


「やっと泣いたか」


 何がやっとなんですか、と聞くこともままならない。


 葉山さんの、大人の男性の大きな手のひらが私の頭に乗る。そこから伝わる体温が、豪快に笑う父親と重なって更に胸を熱くした。


「泣かない佐藤さんの泣き所はドライヤーだったって訳か」

「ちがいます……」


 ドライヤーで泣いたんじゃないと芹澤さんに否定だけはしておいて、しゃくり上げる私の肩を葉山さんが軽く叩く。


「好きなだけ泣いておけ。ストレス発散になる」


 葉山さんも芹澤さんも泣いた理由を聞いたりしない。大人はみんなこんな風に気遣いが出来るのかと一瞬思ったけれど、それは違うと思い直す。


 この人達がただ優しいだけだ。


 噂好きのおば様方ならきっと構わず根掘り葉掘り聞いてくるし、派遣の男性は面倒に思いながらも興味本意で問うだろう。


 聞かない、という優しさはとても難しい。


 だから言いたい。

 聞かないでくれた人達だからこそ、自分から話したい。


「――お父さんに、髪を乾かして貰った事は無かったなって思い出したんです」


 唐突な話にも関わらず、二人は沈黙を守ってくれた。だから、とも、それで、とも言わない。


「噂で、両親が居ないって言われていた事は本当です。中学三年のときに、亡くなりました」


 深呼吸、なるべく何でもないように笑う。


 既にみんな知っている事だけれど、自分から話すのは存外勇気が要った。


「独り暮らしのアパートで、ご飯を食べるときが一番嫌でした。味気無くて、寂しくて」


 自分で作った料理はいつも普通だった。美味しいとははっきり言えない地味な味。楽しくない食事は、段々と心を冷たくさせていった。


「……あの、葉山さん、覚えてますか。……芹澤さんも」


 名前を呼んだ私に二人が目線を合わせてくれた。



 思い出すのは、二年目の冬。

 お昼の休憩が葉山さんと芹澤さん、前田さんと私で揃った時のこと。


 宴会も婚礼もない暇なお昼、設営だけしか無かったあの日は前田さんが強引に私を引っ張り事務所へ連れて行ってくれた。


 余ったお弁当があるからと昼食を買いに行く私を引き止めて差し出した幕の内。四人で食べたお弁当は、美味しくて涙が出そうになった。


「鮭が嫌いだって葉山さんが私のお弁当に入れたんです。そしたら芹澤さんも梅干しが食べられないって私の中に入れました。しまいには前田さんまでたくあんを私のお弁当に入れて……」

「あれって、佐藤さん怒ってたんじゃないの。やり過ぎたってあの後三人で話してたん、」

「嬉しかったんです! 誰かと食べたのが久し振りで、楽しくて、泣きそうになりました」

「……前田は佐藤が怒った顔してたって落ち込んでたけどな」

「気を抜いたら涙出そうでした」


 驚いた顔の芹澤さんはかなりレアだと思いながら、思い出すように目を細めた葉山さんに目を向けた。


「あの時は、ありがとうございました」


 いつか自分の事を話したとき、お礼を言いたいとずっと思っていた。こんな気持ちだったと伝えたくて、でも身の上話をするにはなかなか踏み出せなくて、本当の意味を言えなかったあの日のお礼。


「別に、嫌いな物をお前に食べさせただけだ」


 照れ臭そうな葉山さんはそっぽを向いて立ち上がった。


 離れた手のひらの温もりはあたたかい余韻を残して去っていく。


 同じように照れ臭そうにした芹澤さんも、葉山さんと似たような顔でフイっと目線を反らした。


「ほら、取り合えずご飯食べて」


 椅子から離れてキッチンへ向かう芹澤さんの後について、手伝おうと手を伸ばす。


 シンクに置かれたカレー皿は三枚。

 晩ごはんの中辛カレーは匂いの割りに甘かった。



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