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「え、佐藤さん来るの!?」
控え室のドアを開けようとした瞬間に聞こえて来たのは宮坂さんの声。
相変わらず大きくて甲高い。宮坂愛美さん、私を毛嫌いしている大学生の派遣。美人なのに陰険で打たれ弱い割りに強気な女の人。私より三歳上な宮坂さんはよくある派閥のような意識を持って派遣の若い子を味方につけようとする節がある。
これくらいじゃ何とも思わないくらいには鍛えられているので、特に気にせずドアを開ける。
「お疲れ様です」
「あ……お疲れ様。急に入る事になったんだって?」
「はい。昨日の夜に連絡があって」
「ふぅん。……まぁ、宜しく。足引っ張ったりしないでよ」
「宜しくお願いします」
宮坂さんは私に敬語を使わない。最初に年齢を知ってから、いつでもタメ口で話すようになった。たとえ私が仕事では先輩でも、たとえ私がリーダーだったとしても、宮坂さんは態度を変える事なく高飛車な物言いをする。
手早く着替えて顔触れを確認し、一人足りない事に気が付いた。
「宮坂さん、大江さんを知りませんか?」
大江さんは宮坂さんと一緒の時期に入った友人らしく、大学も同じだと聞いていた。私が尋ねた事に嫌そうな顔をして女の子の集団の中から振り返った宮坂さんは素っ気なく言い返す。
「知らないし。遅刻じゃないの」
「……そうですか」
明らかに馬鹿にしたように笑った宮坂さんは知らないという顔でもないけれど、ここでまた何か言ったら泣かれてしまいそうだと諦めた。
携帯を手に控え室を出て派遣会社へ電話を掛ける。
「もしもし。大江さんがまだ来てないみたいなんですが…………――分かりました。はい、失礼します」
やっぱり、と溜め息が出る。
大江さんは二十分遅れで来る事になると事前に派遣会社へ連絡していたらしい。宮坂さんにはスタッフリーダーに伝えるようお願いしてあると派遣会社は大江さんから聞いていた。私に言いたくなかったのか、宮坂さんはたまにこういう事をする。
「怒ったら泣くかなぁ……」
宮坂さんが伝達をしないのは私にだけ。重要性はきっと理解している筈だ。私がリーダーの時だけ言わないのは単なる嫌がらせであり忘れていた訳ではない。派遣会社は仕事はきっちりとやる宮坂さんを失いたくないという意識があるからか、強く注意をしない。
今回のことを報告しても無駄になるのは経験済みだ。とにかく宮坂さんに極力関わらないようにして、と決意した私の前に葉山さんが現れる。
このタイミング、葉山さんの難しい顔、そして私の嫌な予感。
「――大江が遅れるって事で、佐藤と宮坂と同じチームになる。……悪い」
珍しく謝る言葉を口にして葉山さんは頬を掻いた。
「わ、かりました」
分かりたくない、断じて分かりたくない。絶叫したい私を押さえ込みながらどうにか考えてみる。宮坂さんを怒らせず泣かせずちゃんと指示を聞いて貰うにはどうしたらいいだろう。
考え込んだ私を見て葉山さんが溜め息を吐く。
「どうにかなりそうか」
「どうにかします」
「人数は九十、宮坂は新婦側の親族卓につかせる。お前は新郎側の親族卓だ」
「それはまた……チーフの指示ですか?」
「ああ」
親族卓、その名の通り新郎新婦のご家族が座るテーブルの事だ。親族の人を中心的にサポートして、起立のタイミングや着席のタイミングを逐一お知らせして誘導したりする重要な役割。
宮坂さんも私も年数で言えば今日の派遣スタッフの中では長い方。親族卓になるのは自然な事だった。私はいつも通りにやればいいが、問題は宮坂さんだ。
私に絡んで来た宮坂さんに私が切れてしまったらきっと泣く。それを回避しようと今までにないくらいのスピードで色々な事を考えて行く。
「――スポットは、誰ですか」
スポットライトを入場の時に当てる係、通常業務とスポットを同時にやる役割は少し忙しい。
「まだ決まってない。希望があるか?」
「……出来たら、田島さんを入れて貰ってもいいですか?」
宮坂さんの子分……じゃなくて、お友達の田島さんは宮坂さんに便乗して嫌がらせをする事が多々ある。この二人が一緒になると私に録な事を仕掛けてこない。引き離して置くのが正解だ。
「分かった。他には何かあるか」
「…………ドアオープンは誰がしますか?」
入場のタイミングでドアを開ける役割に通常二人選ばれる。
「山田と進藤」
宮坂さんの取り巻きのようにはなっているけれど、特に問題もないスタッフ二人だ。そのまま宮坂さんの派閥が散らばってくれているなら割りと大丈夫かも知れない。
要注意と言うのは忘れずに、失敗をしないよう気を使いながら。
「分かりました。もし何かあったらすぐにインカムで伝えます。……なるべく、何も起きないように頑張ります」
「気張り過ぎるな。黒服が五人も入る。問題が起きる前に対処出来る筈だ」
願わくば、何も起きませんように。
葉山さんにお礼を言って控え室に戻り、定例の挨拶をする。今日のリーダーは本当なら宮坂さんがやる筈だった。
急遽私が入った事により、勤務年数の順番で私がリーダーをやる事になった。多分、それが気に入らないのだと思う。遅れて来る大江さん以外の顔触れを見回して事務所へ向かう。
心なしか黒服も社員スタッフもピリピリしているようだった。
出勤を記入して後ろに回し、ホワイトボードを確認しながらインカムを着用する。親族卓と書かれた隣に私と宮坂さんの名前があった。
緊張感が高まるミーティングを終えて、一斉に全員が動き出す。
「会場下見に行ってきます」
身を翻した私に宮坂さんが着いてくる。同じ親族卓だから仕方がない事なのだけれど、嫌々隣を走られるとこっちも気が重くなる。
「失敗なんかしないでよ。私を巻き込むのは絶対に止めて」
挑発的な態度で私を牽制する宮坂さんに頷くだけに留めて口は開かない。口は禍の門、沈黙は金。無駄な会話をしなければ何か起こることもない――と思っていたのだけれど。
「ちょっと! 聞いてんの?」
「……はい、聞いてます」
「だったら何か言いなさいよ」
「失敗しないように気をつけますね」
「そんなの当たり前でしょ!」
どうしろって言うんだ。我が儘な宮坂さんに苦笑いしながらまだお客様の入っていない会場内へ足を踏み入れる。
吸い込んだ空気は花の香りとテーブルクロスの新しい香りで爽やかだ。
料理長の深山さんが鶴に織られたナフキンを指差しながら黒服と話している。あちこちで忙しそうに動いているスタッフ、黒服、音響、介添え、担当者。様々な人が支えている結婚式は始まりから華やかで会場内は特に綺麗だった。
「間違って新婦側の親族卓に来たりしないでよ」
「大丈夫です」
ふんっと鼻を鳴らして私から離れた宮坂さんを微妙な気持ちで見ながら、担当する事になった新郎の親族卓へと向かう。置かれたナイフとフォークが逆になってはいないか、名前札が間違ってはいないか、様々な事を確認しながら会場内を回る。
「佐藤さん!」
「はい!」
黒服で葉山さんの弟の芹澤さんに呼ばれて行くと、深山料理長がにやにやしながら顎を撫でていた。
「おう。今日はお前の思い出のやつが出るぞ。――牛フィレ肉のデミグラスソース掛けだ。まぁた落とすんじゃねぇぞ」
「はい、気を付けます」
初めて深山料理長に頭を下げたあの日の肉料理。私が派遣されるこのホテルは料理のプランが豊富という面で有名で、同じ料理に遭遇する事は思っているよりも少ない。
牛フィレ肉のデミグラスソース掛けに出逢うのも三年働いてまだ十数回程度だ。その内駄目にしてしまったのはあの時の一回だけなのだが、深山料理長はいつまでもその話を引っ張り出してからかってくる。
普段は怖い料理長だが、料理をしていない時は意外と普通に接してくれる。感情表現の乏しい顔をした人は案外身の回りに多い。葉山さんに芹澤さん、深山料理長、あと数名…………このホテルにはやっぱり強面が多い気がする。
「佐藤さん、大丈夫?」
大丈夫とは宮坂さんの事だろうか。そう言いたげな私に気が付いたのか、芹澤さんが浅く頷く。それに大丈夫だという意味を含めて笑顔で返し、それだけの用件だったのでその場を離れてグラスを磨いて準備しているスタッフの輪に加わった。
「佐藤さんも大変ですね。宮坂さんに目の敵にされてません?」
「さっきも宮坂さん控え室で凄い悪口言ってましたよ!」
「そういえば昨日も~」
お喋りな女子高生集団はグラスを磨きながらも忙しなく口を動かす。それに苦笑しつつロンググラスを逆さまに伏せて数を着実に増やしていく。
それから約三十分が過ぎて。
「――すみません、抜けます」
新郎新婦の親族が結婚式を終えて先に会場入りしたのが見えた。
親族卓につくスタッフは事前に挨拶をするようになっている。グラスを磨いている女の子達へ後を任せて早足に新郎側のご家族へと近付いた。
「おめでとうございます。こんにちは、本日テーブルを担当させて頂く佐藤と申します。どうぞ宜しくお願い致します」
決まった挨拶をして新郎の親族の顔を覚えていく。名札と見た目の感じから、新郎の祖父とご両親、兄弟の姉と弟の合計五人で間違いはないようだ。
にこやかなご両親はとても嬉しそうに結婚を喜んでいて、親族の雰囲気は明るいものだった。
「まさかあの子があんなに綺麗なお嫁さんを貰うなんて……」
「一生独り身かと思ったが、結婚出来て本当に良かったよ」
目尻を下げて今から感激しているご両親を微笑ましく思いながら進行の紙をポケットから取り出す。
「この度は新郎様のご成婚、誠におめでとうございます。まずは、着席の流れをご説明させて頂きますね」
頷くご両親に説明をして、一通り理解して貰ったら反対側へと回る。
残りのご家族にも同じように説明し、必死に覚えようとしてくれている高校生らしき年齢の弟さんへ予め気負わせてしまわないようなるべく自然な笑顔で続けていく。
「着席の前に私がテーブルの方へ参りますので、もし不安がありましたら合図を見てから立ち上がられて下さい。タイミングは分かりやすくお知らせ致します」
「あっ、そうなんですか。何だ……そっか、良かった」
ホッとした弟さんに頷いて一旦下がる。
新郎新婦の親族はどちらも相手側に迷惑を掛けないようにと披露宴ではかなり緊張している事が多い。自分達家族のせいで新郎新婦に恥をかかせないように、みっともないと思われないように。
そんな気持ちで親族卓に座るご家族がなるべくリラックス出来るよう常に気を配っていなければならない。
宮坂さんも笑顔で新婦側に説明をして緊張を解そうとしていた。
準備や説明、最終確認が終わり今日の婚礼を取り仕切るチーフがインカムをオンにする。
――オープンするぞ。
それに従ってドアの脇に立ち全員が招待客を迎え入れる。
荷物や引き出物はテーブルの下に、座る招待客の椅子を引いて丁寧にお迎え。流れ込んで来る招待客は一様に煌びやかでしっかりとした正装で、自分の席を見渡しながら探す。サイドテーブルに置いてあるシャンパンは乾杯用で、スタッフが直前に注いで回る。
ふと、一番近いサイドテーブルに目をやると卓数と合わせて数が一本少なかった。
今、親族卓を離れる訳にはいかない。
本当なら自分で取りに行きたいが、やむを得なくインカムを使う。
「“――すみません、佐藤です。シャンパンが一本足りません。親族卓横のサイドテーブルまで一本お願いします。”」
マイクをオフにして耳につけたイヤホンから返答を待つ。少しだけ雑音が混じり、誰かがマイクをオンにした。
「“――葉山、持っていきます。佐藤、一本でいいんだな?”」
「“――はい、一本です。すみません、お願いします。”」
うわぁ…………よりにもよって葉山さんをパシる事になってしまった。基本的に手が空いている人がこういう時は動いてくれるのだけれど、スタッフじゃなくて黒服が動くとやっぱり立場が上の人だから申し訳なく思う。
シャンパンが足りないのは親族卓の後ろのテーブルで私の担当テーブルではない。けれど、後ろのテーブルを担当するスタッフはシャンパンが足りない事に気がついていない様子だった。
変わりに頼んだ私に宮坂さんのにやりと馬鹿にした笑みが反対側から向けられる。
怖いと誰もが言う葉山さんを、理由はどうであれパシる事になってしまった私に、同情的な視線があちこちからちらほらと突き刺さる。引き攣りそうになった顔を満面の笑顔で上塗りして、視界の端に写った葉山さんがシャンパンを無事サイドテーブルに置いてくれた事を確認した。
「“――佐藤です。確認しました、ありがとうございます。”」
「“――次は気を付けろ。”」
ぶつっと切られたマイクに内心拳を握りながら新郎新婦の入場の為に親族卓へと近付く。
私が担当する新郎親族卓の端に跪いて片手を小さく挙げ、起立のタイミングでその手を動かした。それを見ていたご家族は一斉に立ち上がり、新郎新婦を迎え入れる。
ここからは乾杯と同時に披露宴が賑わい、終わるまで作業はローテーション。料理を運び、灰皿を交換し、空き瓶を回収。ドリンクやビールを運び、空いたお皿を下げ、臨機応変に対応するの繰り返し。
飲み物を絨毯に溢したならダスターを届け、テーブルをひどく汚したなら短いクロスをその上に敷く。ドリンクを注文されたならバーカウンターで作って貰い、届ける。
出し物やご両親への手紙、ケーキ入刀などを済ませて披露宴が佳境に入った頃。
――ガシャンッ、と裏の通路でお皿が割れる音がした。
幸い、会場内でその音はあまり響いていない。
けれど、微かに漏れてしまったのは確実で、何人かは不思議そうにキョロキョロしていた。
「“――誰が割ったッ!”」
怒鳴り声は葉山さん――じゃなくて、チーフのもの。怒ると豹変するチーフはインカムのマイクに向かって音割れするくらいに怒鳴った。
これはやばい。というか派遣スタッフだったら私の責任だ。
辺りを見渡し、親族卓の宮坂さん以外で一番任せられる派遣スタッフの大江さんを見つけてホッとする。小さく手招きして呼んだ大江さんに新郎側の親族卓を任せ、早足で裏側に向かう。
会場を出た瞬間に、あらんかぎりの力を込めてダッシュ。通路で割れたお皿を拾いながらぼろぼろと泣いている派遣スタッフがそこに居た。
「手で拾うと危ないですよ。切れたらいけないので、箒と塵取りを倉庫から持って来て下さい」
素早く指示して料理の種類を確認する。彼女以外誰も居ないと言うことは、割ったの自分だと言えなかったのだろう。
「“――佐藤です。左側の通路でデザート一枚駄目になりました。すぐに厨房行ってきます!”」
矢継ぎ早にその場を蹴って厨房へ向かう。ガチャガチャと食器の音が響く洗い場を通り過ぎて、厨房で休んでいた料理長に近寄る。
口を開いた瞬間、再びインカムから怒声。
「“――割ったのは佐藤か!”」
チーフの怒鳴り声に思わず肩が揺れる。
久しぶりに怒られたせいか、冷や汗が流れて来た。目の前の深山料理長は訝しむように眉を寄せた。
「“――違います。親族卓は大江さんにお願いしました。”」
返事をして深山料理長へ視線を向ける。
言い訳の前に、まずは用件と謝罪!
勢いよく頭を下げて、爪先も見ずに目をきつく瞑る。ええい、女は度胸!そんな気持ちで声を張り上げた。
「深山料理長、すみません!デザート一枚お願いします!落としました……!」
「――お前が落としたのか」
休憩中だったからか、声音は静かな怒りが籠っていた。
手のひらをぎゅっと握って考える。
葉山さんに注意されたばかりの、その場しのぎで自分のせいにするのは良くないという言葉が反芻した。
「……ちがい、ます」
「――落とした本人連れて来んかッ!」
雷が落ちて、頭の上でじぃんと響く。ドクドクと嫌な心臓は早くなり、嫌な汗が滲んだ。深山料理長の言うことはもっともだけれど、連れてくるには時間が掛かる。
「あとで、あとで必ず連れてきます……! お願いします! 作って下さい!」
返事は、ない。
唇を噛んだ私が、もう一度声を張り上げようとした瞬間、――仕方がねぇな、とでも言うような穏やかな声が落ちた。
「……おい、出してやれ」
あの日と同じように、胸がいっぱいいっぱいになる。
ぶっきらぼうでも優しい深山料理長の言葉に頭を上げると、後ろに居たコックが大型の業務用冷蔵庫から一皿デザートを取り出した。
「あり、ありがとう、ございます……!」
「言えてねぇよ」
「かっ……感極まって……! ありがとうございます!」
「泣くな鬱陶しい。俺が苛めたみたいになるだろうが」
「……すみません」
置かれたデザートを手にして腕時計を確認する。
三分が過ぎた。もうデザートは出されている。すぐに持って行かなくちゃいけない。
「終わってからまた来ます! ありがとうございました!」
一礼して身を翻し、通路を駆ける。途中でべそをかきながら箒を握っていた派遣スタッフの肩を叩き、会場へ入る。
あの子の担当テーブルは後方、まだ行き届いていない所を目を皿のようにして探す。見つけた席にはぽつんと空きがあり、デザートが置かれていなかった。
「失礼します、大変お待たせ致しました。――デザートになります」
「あっ……良かったー! 忘れられてるのかと思ったよ」
眼鏡をかけた恰幅の良い男性は気さくに笑ってくれた。まれに見る良い人だ……!と感動しながらほっとして頭を下げてもう一度謝罪をする。
男性はデザートの方に目を向けて、気にしなくていいと穏やかに言ってくれた。
「“――佐藤です。遅くなってすみませんでした。デザート、最後尾まで行き渡りました。持ち場に戻ります。”」
報告だけはしっかりとして、親族卓へと戻る。大江さんにジェスチャーをして交代を示すと、チーフがさりげなく私に近付いて来た。
「後でちょっと話そうか」
すれ違い様に言われた呟きに頷いて、一先ずそれを頭の隅に追いやる。
そうしなければ、笑顔になれなかった。
怒られる、それだけは分かっていた。




