無常堂夜話【16】
空の幼馴染、木庭茜。
彼女の長年にわたる思いと、それを利用する怪異。
そして瀬緒里と空の『最初の結縁』。
三人の想いを綴る物語です。
起・彼方の記憶
それは、春浅い日の出来事。
月宮の里は、梅の花の香りで満ちている。
朝の光は、穏やかな風に舞う梅の花びらを照らし、川岸には春を待ちわびた草花が芽を吹き始めている。
人里離れたこの場所に、馬に乗った少年がやって来た。
少年は鬟を結い、腰には長くはないが身幅が広い剣を佩いている。
「……春は、どこにでも忘れずにやって来るものだな」
少年はそうつぶやくと馬から降り、愛馬の首筋を優しくなでながら言う。
「結構遠くまで来ちゃったな。疲れたろう?」
そして少年はせせらぎに頭を下げ、
「水の神よ、愛馬に飲ませたいのです。少しこの甘露の水をお分けください」
柏手を打ち、そう祈念する。
さらさらと流れるせせらぎの音は、少年の声に微笑で答えたように聞こえた。
「ありがとうございます」
少年はそう言うと手綱を引いて馬に水を飲ませる。その時、少年の目の端に、巫女のような装束を着た少女の姿が映った。
(この川の神に違いない)
少年はそう思った。それで、剣を外し、少女に向き直って名乗った。
「ぼくはこの川の下流、月宮の里を統べる月岡の寂空が嫡子、月岡円空。あなたがこの川の神様でしょうか?」
すると少女はニコリと笑って答えた。
「……初めまして、私がこの川の神です。丁寧な名乗り、承りました」
円空は、その笑顔を見て、思わず頭を垂れる。見た目と同様、清純で鮮烈なせせらぎのような声だった。
「……もしもお許しいただけるなら、御神名をお聞かせいただけないでしょうか?」
思わずそんな言葉が口を衝いて出たのは、円空にこの少女ともっと話したいという願いが浮かんだからかもしれない。
それを聞いて、少女はパッと顔をほころばせ、そして黒曜石を嵌めたような眼で円空を見つめて言った。
「……私は、ある事情で父神からこう言われております。この川に最初にやって来る男に名を付けてもらえ、と」
円空は少女の言葉の意味をすぐにはつかめず、一瞬、時間が止まったような心地で彼女の顔を見返した。
しかし、その意味を理解すると、慌てて手を顔の前で振って言う。
「いや、神の諱をお付けするなんて、そんな大それたこと……」
「これはご神意なのです。あなたに名付けていただかなければ、私は一生名もなき地祇として神徳を垂れることもできず、やがては神去るでしょう」
少女は必死の面持ちでそう言う。その真剣さに触れたとたん、円空の言葉が弱々しくなる。
「……ぼく以外に頼むことは……」
「できません。父神は月詠命様から『必ず最初に出会った男に名付けさせよ』ときつく言い渡されています。あなたが付けてくださらなければ、私は二度と人の目には触れられない存在になるでしょう。ですから、お願いいたします」
少女は必死だ……その唇や手は細かく震えていた。
せっかく巡り会えた「名付けの人物」に拒まれるかもしれない不安が、その細い肩全体から伝わってくるようだった。
円空は目を閉じ、耳を澄ます。せせらぎの音が心地よく彼の心をほぐしてゆく。
やがて円空は目を開ける。目の前には、手を胸の前で組んで顔を強張らせている少女がいた。
円空はふっと笑い、静かに言った。
「……瀬織……瀬織川津媛様、ではいかがでしょう? あなたの穢れのなさや、芯の強さに似合っているかと思いますが?」
「瀬織、川津媛……」
少女は何度も口の中で繰り返す。繰り返すたびに、瞳は輝き、頬は赤く染まっていく。胸の前で組んだ指先に、そっと力がこもった。
「……いい名前を付けてくださり、ありがとうございます。我が背円空様」
川津媛がそう言った瞬間、円空の目が真ん丸になった。
………………
(……ああ、これが我が背との最初の結縁でしたね……)
瀬緒里が心の中で懐かしそうにつぶやいた時、突然意識がぽっかりと浮かびあがる。
「我が背はっ!?」
ガバッと跳ね起きながら、瀬緒里がそう叫ぶと、衝立の向こうから静かな声がした。
「瀬織川津媛様、お目覚めですか? すぐにわが主君が参りますゆえ、そのままお待ちいただきますように」
有無を言わさぬ圧に、瀬緒里は布団の上に起き上がって、ようやく何故自分がここにいるのかを考え始めた。
(私は我が背と共に、『JUON』という骨董品店を調べに行くはずでした。我が背が『縮地』を使ったところまでは覚えているのですが……)
「瀬織川津媛命様、お席にてお待ちください」
先ほどの少女の声が、瀬緒里の意識を柔らかく現実に引き戻す。
(……ここはきっと、月詠命様のご神殿ですね。でしたら、我が背もきっと一緒にいらっしゃるに違いありません)
瀬緒里はそう考えて気持ちを落ち着かせる。その時、遠くから届く雅楽の調べに合わせるように、落ち着いた薫香の匂いが部屋に満ちていった。
「……目が覚めたでおじゃるか、川津媛」
そう言いながら、白い髪に翠の瞳を宿した青年が、部屋の中に入って来る。銀色の淡い光が、静かに部屋の中を照らした。
「……おかげさまで」
瀬緒里は、空が共にいないことをいぶかしく感じながらも、そう言って頭を下げる。
その瀬緒里の動きが、月詠命の次の言葉で固まる。
「それなら良いでおじゃるが、何ゆえに黄泉平坂の途中まで行ったのでおじゃるか?」
瀬緒里はゆっくりと顏を上げ、青い顔で命に言う。声がかすかに上ずっていた。
「黄泉平坂、でございますか?」
月詠命は、ふわりと座に着きながらうなずいて、いぶかしげに問いを発した。
「……さよう、媛は黄泉の国に行こうとしておった。
知ってのとおり、かの地は麿が弟者の統べる場所。麿や姉君すらめったに口出しはできぬ。
地祇は入ってはならぬとの決まり事もある故、黄泉の門番からの連絡を受けた時には麿も慌てたでおじゃる」
話を聞いているうちに、瀬緒里の膝の上に置かれた手がぎゅっと握りしめられ、細かく震えはじめる。顔色はますます悪くなっていく。
その様子を見て、ただ事ではないと思ったのだろう、月詠命はパンパンと手を打ち鳴らし、やって来た銀の髪を持つ女官に静かに命じる。
「氷人、酒を持て。久斯之神が醸した神酒が良い。それと桂人に、急ぎ月宮の坊を探して連れて参れと伝えよ」
「かしこまりました」
氷人が静かに出て行くと、月詠命は震えている瀬緒里に優しく問いかける。
「……媛、何やら不測の事態が起こっているようでおじゃるな? 麿に話してみい。月宮の坊のことでおじゃれば、麿もできる限りのことをしようぞ」
その言葉にすがりつくように、瀬緒里はがばっと頭を床にこすり付けて、ほとんど泣き声で訴えた。
「月宮の皇子様、どうか我が背をお助けください!」
月詠命は懐から扇を取り出し、脇息にもたれながら難しい顔をして答える。
「助けよと申しても、麿は仔細を知らぬゆえ何とも応えをし辛いでおじゃる。
まずは酒を飲んで落ち着くことでおじゃる」
「我が背は、我が背は黄泉に繋がれてしまったかもしれませぬ!」
瀬緒里は必死の顔でそう訴える。涙が幾筋も頬を伝っていた。
月宮の皇子も、その様子を見て眉をひそめる。扇を少し開き、パンと閉じると、身を乗り出して訊いた。
「……黄泉に繋がれたかもしれんと申したでおじゃるか? 仔細を話してみよ」
「……ふうむ。確かに申非五蝿が狼藉をしおった時に、麿が坊を助けたが、あの時に再び黄泉との縁が結ばれてしもうたのかもしれんな」
「やはり、私たちが向かった店というのは、黄泉に繋がっていたのでございましょうか?
我が背の稚き折の友人が、黄泉と何か縁を結んでいたと……」
月宮の皇子は、瀬緒里の話を聞きながら、扇を閉じたり開いたりしている。その双眸は虚空を見つめていたが、ふっと廊下に視線を投げる。鬟を結った童子がそこに控えていた。
童子にも、瀬緒里が泣き崩れている姿や月宮の皇子が不機嫌そうに扇を開閉するのが見えているのだろう、何か言いたげではあるが部屋の空気に遠慮している様子が窺えた。
「桂人か。月宮の坊はいかがいたしたでおじゃるか? 麿は探してお連れせよと命じたと思うが?」
月宮の皇子がそう声をかける。空を帯同していないことに対し、少し心配そうな声色だった。
「はい、月兎たちに命じてあちこちをお探しいたしましたが、お姿がどこにも見えませぬ。
ただ奇妙なことに、月宮の里にこのようなものが落ちておりました。月宮の坊の波動が残っておりますゆえ、とりあえず持ち帰った次第にございます」
そう言って差し出したのは、色とりどりの撚糸で作られた輪っかであった。
「! それは我が背と私の大事な……」
瀬緒里はただそれだけ言うと、崩れるように倒れ込んでしまう。
「川津媛! 気をしっかり持ちゃれ。誰ぞある、媛が気を失のうた。すぐ参れ!」
驚いて腰を浮かせた月宮の皇子だったが、すぐに臣下を呼び立てる。皇子の声を聞いた者たちは、何事かとすぐに部屋に駆け付けた。
「……皇子様、御心配はいりませぬ。余りの驚きと心配で気を失ってしまわれたと思いますが、身体には特に悪いところは見受けられませぬ。
妾たちが介抱いたしまするゆえ、媛のお願いを聞き届けていただけますよう」
氷人が瀬緒里を仔細に診て、月宮の皇子にそう微笑みかける。
「……ふむ、そなたが微笑むのであれば心配はおじゃらぬか。
では麿は、少し姉君のところに参る故、桂人、先触れを姉君の許に差し向けておじゃれ」
そう言った後、天を仰いでつぶやいた。
「……月宮の坊ともあろう者が、縁を見違えるとはのう。したが、坊にとっては宿世の因縁というべきでおじゃろうか……はてさて、難しいものにおじゃるな」
(悪しきものを商う者の所に向かうため『縮地』を使ったが、媛だけが弾き飛ばされて黄泉平坂の途中にいた……つまりは、坊が向かった先は媛の推察どおり黄泉に通じておったということになるでおじゃるな。
地祇は入れぬという制約がある故、媛は弟者の結界に拒まれたのでおじゃろう。
だが、坊は特別な縁を持つ者におじゃれば、弟者とて坊に軽々しく手は出せまい。早う姉君に相談せねばならぬな)
月宮の皇子は、布団に寝かされた瀬緒里の泣きぬれた頬を見て、キッと唇を引き結んだ。
ぼくは『JUON』の近くまで来て、瀬緒里さんがいつの間にかいなくなっていることに気付いた。おかしい、出口近くまでは確かにぼくの後ろにいたはずなのだが。
(思い直して『無常堂』に帰ってくれたのか? いや、瀬緒里さんはあれほどぼくのことを心配してくれていた。だったら、いなくなるのは変だ)
ぼくは目を閉じて瀬緒里さんの気配を探す。しかし、どこにも彼女の存在を感じられなかった。これはますますおかしい。
彼女は地祇だ。その存在は隠しても隠しきれるのものではない。それが感じられないということは……。
「……ふふ、あたしが呼んだのはソラだけだよ。だから邪魔者はよそに行ってもらったの」
ぼくの後ろから聞いたことがある声がした。
「茜……」
振り向いたぼくの目に、うねるような濃いブラウンの髪の女性が立っていた。
その褐色の瞳には、懐かしさと嫉妬のような感情が渦巻いている。間違いない、やはり茜だ。
「……久しぶり、ソラ。3年ぶりね?」
薔薇のくちびるが動き、あの頃より大人びた声でそう言う。その美しさは、3年前に会った時よりさらに輝いていた。
ぼくは目を閉じ、首を緩く横に振る。月宮の里で小学校卒業まで一緒に過ごした仲だ。懐かしい気持ちがないわけではない。ましてや同じ幼馴染だった昌がいなくなった今、少年時代のぼくを知るのは瀬緒里さん以外は彼女しかいない。
しかし、平島梅子准教授のクリスマスパーティー事件や、根田見氏のイシュテリア事件には、どちらも『JUON』という店の『木庭茜』という人物が関わっている。
どちらも『呪いを通じた悪意』が感じられるものだっただけに、ぼくは名刺の木庭茜がぼくの知る木庭茜ではないことを祈っていた。残念ながらそうではなかったみたいだが……。
「どうしたのソラ。なんで黙っているの? あ、3年ぶりに会ったあたしが、あんまり綺麗になってるんで見とれてる?」
茜は、両手を腰に当て、やや前のめりになって笑顔で聞いて来る。ぼくを揶揄うときの癖だった。
だが、ぼくは違和感を覚えていた。ここにいる茜は、あの頃のままの茜だ。元気で、人懐っこくて、底抜けに明るい……だが、ぼくが神鏡で見た茜は、人の感情をどこかに落としてきたような、抜け殻のような表情をしていた。
ひょっとしたら、ぼくが神鏡で見た茜は、この茜とは別人なのかもしれない……そんなかすかな期待が浮かぶ心を、ぼくは必死で抑えつける。
茜はしばらくぼくの顔を見つめていたが、やがて腕を組み寂しそうに言った。
「…ソラってやっぱり、他の女のものになっちゃったんだね。あたしと目も合わせてくれないなんて……」
そう言った途端、茜の雰囲気が変わった。昔の柔らかい雰囲気は消え、周囲の温度が急降下する。指の先が冷たくなるような、痺れるような感覚と共に、ぼくの左手首にはめていた撚糸の輪っかが、ブツっと音を立てて切れた。
「……何が瀬緒里さんよ。何が神様との結婚よ。そんなのあたし、絶対に認めない」
地の底から響いて来るような茜の声とともに、ぼくの身体が一気に奈落の底に落ちるような感覚が包んだ。
★ ★ ★ ★ ★
承・苦い再会
どこまでも落ちていく感覚が、ぼくの五感を狂わせようとしている。だが、これが幻覚だということは、周囲のざわめきが聞こえることから分かっていた。
(……これは、黄泉の住人の感覚だ。とすると茜はすでに……)
愕然とした思いが胸に浮かぶ。
しかし、ぼくはすぐに3年前に会った茜がすこぶる元気だったことや、画家でもある彼女の最新作がついひと月前に発表されていたことを思い出し、
(……それはない。少なくとも茜は肉体的には死んでいない)
そう結論した。
茜はぼくに、冷たく平板な声で呼びかける。
「……目を開けていいわよ。さすがはソラね、この程度の目晦ましじゃ心を乱さないか。あいつの言うとおりだったわ」
ぼくは周囲の様子を探る。雰囲気的に黄泉の国ではない。黄泉ならもっと粘りつくような空気の重さがある。小学生の時に一度黄泉を見たことがあるぼくは、今いる空間は、
(恐らく、黄泉平坂の途中だ。幽冥の境だから、生きている茜がこの場に居られるわけか)
そう見当を付けた。
目の前の茜が本物の茜なら、ここからならぼくだけの力で引き戻すことは可能だ。
だが、もしもぼくが考える最悪のパターンであれば、ぼくだけの力では何もできない。これは一度引き返して瀬緒里さん、できれば月宮の皇子様に相談すべき事項だ。
ぼくは剣印を結び、目を開く。茜の胸から腰にかけて、どろりとした青白いものがまとわりついている。それを見た途端、茜がにまぁっと笑って言った。
「ソラ、見たわね? あたしを見てくれたわね?」
そう言って彼女が……正確には彼女にまとわりついていた青白いものが、飛び掛かるようにぼくの身体に巻き付いてきた。
「これは!?」
ぼくは失敗したかもしれない。少なくとも、瀬緒里さんの言うとおり、茜が何者で、どんな状態にあるのかを知ってから会いに来るべきだった。
(……引き込まれる。これはぼくが思っているより事態はマズいな)
そう思いながら、ぼくは身体中の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
だが、意識はしっかりしている。再び目を閉じたぼくを、気を失ったと思ったのだろう。茜はゆっくりと近付いて来てしゃがみ込み、ぼくの髪をなでながら昔の茜に戻って言った。
「ねぇソラ。一緒に二人で暮らそう? あたし、3年前にソラと再会してから、ソラのこと一日だって忘れたこと、なかったよ?」
そう言うと、彼女はぼくを陰気な店の中にかつぎ込んだ。不思議なことに、ここの空気は黄泉のような粘っこさはない。ぼくは茜に支えられながらも、身体の自由が戻って来る感覚を覚えた。
「どう、ソラ。ここはあたしたちが住んでいた世界と同じなの。痺れは無くなったでしょう?」
声がする方に顔を向けると、そこには茜がにこにこして立っていた。
「……ありがとう。もう休んでいいわよ」
茜が、ぼくを支えている茜に声をかける。するとぼくの隣にいた茜は木偶人形になった。
「……どうして、悪魔の魔導書や呪物を広めたりするんだ?」
ぼくがこの世界に来て最初に発した言葉がこれだった。茜はそれを無視するように、店の中をぐるりと見回す。
「ここには、世の中で受け入れられなかった思いがたくさん集まっているわ。失望や絶望、嫉みや劣等感、憎しみと苦しみ……それに、失恋……」
その顔は、ぼくが神鏡で見たあの顔だった。ぼくが黙っていると、茜はぼくに笑いかけ、
「もっと近くに来てよ。せっかくソラと二人で住むために造ってもらった家なのに」
そう言うと、自分からぼくに歩み寄ってぼくの手を取る。茜の手は思ったよりも温かかった。
(……やはり、茜はまだ生きている。生きていながら黄泉に魂を踏み込ませるほどの何かがあったんだ……)
今までの茜を見て、ぼくはそう思った。とすると、ぼくは何とかして茜をこの『中途半端に生きている』状態から抜け出させねばならない……幼馴染として、そして親友として。
「……茜、3年前に僕は瀬緒里さんのことを君に話したと思うが?」
うっとりとしてぼくの腕にしがみついていた茜の手が、ぼくの腕をぎゅっとつかむ。爪が立つほどに力を入れていた。肩が震え、そして豊かなダークブラウンの髪も小刻みに揺れている。
「だから、あたしはソラが神様なんかの婿になったってこと、絶対認めないって言ったでしょ?
あたしの前で、他の女の名前なんて出さないで!」
顔を伏せたまま、絞り出すような声で言う茜だった。
ぼくは、その様子を見て眉を寄せる。さっきは彼女を激情が襲った時、声は平板で地の底から響くようだった。
だが今の茜は、声こそ低いものの、ちゃんと感情が乗っている。
(……つまり、この空間の中なら、茜は人間でいられるってことか……)
そう思ったぼくは、茜の肩にそっと手を載せる。細いがちゃんと温かみがあった。
茜は、ぼくの手の温もりを感じると、ピクリと大きく肩を動かし、そしてゆっくりぼくを見上げる。頬は涙でぬれていたが、褐色の瞳は期待と不安で揺れていた。
「ソラ、あたしとここで暮らそう? あたし、死んじゃいないんだよ。ただ、あの世界が嫌になったから、アイツの言うとおりここに住んでいるんだ」
小さな声で言う茜に、ぼくは確認した。
「……アイツって? この世界の住人かい?」
こくりとうなずく茜。
「……最初は怖かった。鬼かと思った。でも、話してみると優しかった。あたしの話をちゃんと聞いてくれて、同情もしてくれた」
「そいつの名前を教えてもらっていいかな?」
ぼくの問いに、茜は首を振る。
「名前は言わない約束なの。呼んだらあたしはこの世界にいられなくなるって」
ここまで聞いて、ぼくは茜に近付き、この世界に誘い込んだ奴の正体が判った。
だが、茜がぼくたちの世界に戻る気がない以上、その名を勝手に呼ぶわけにはいかない。今の茜は、ぼくたちの世界で生きて行くには心が疲れすぎている。
茜が絶望や悲しみを抱えているうちにここを連れ出しても、また何かの拍子で黄泉に呼ばれないとも限らない。いや、奴がぼくの思っている奴なら、確実にまた茜を狙うだろう。そしたら今度こそ、ぼくは茜を……。
「……茜、君の話を聞かせてくれないか? 本来ここは、人間が住む世界じゃない。
それなのに君はここに来て、この世界に受け入れられかけている。これはあっちゃいけないことなんだ。
さっき君は、ぼくたちの世界が嫌になったって言ったね? 何があったか、よかったら聞かせてほしい」
ぼくが真剣な顔で言うと、茜はくちびるを引き結んで、
「……ソラが一緒に住むって約束してくれないと、話したくない。
それに、話したらきっと嫌われちゃう。それならソラをアイツに引き渡す方がマシ」
「茜、君のことは絶対に嫌わないって約束する。それに、ぼくは生きている間はぼくたちの世界で生きなきゃって思う。茜をぼくの世界に連れ帰りたいんだ」
「……哀しいし、切ないし、寂しいし、苦しいだけなのに?
ソラと離れてから、何にもいいことなかったのに?
ソラとの文通だけがあたしを支えていたのに?
そんなソラが、あたしを捨てて他の女のものになっちゃったのに?」
「茜!」
涙を流し、大声で食って掛かる茜を、ぼくはやんわりと抱きしめる。そしてその耳元で、静かに言った。
「ゴメン、茜。君の苦しみを100%分かるわけじゃない。でも、昌のことを思い出してくれ。昌だって、もっと生きていたかっただろうと思う。
昌の最後の手紙に、ぼくたち三人で酒を飲みたかったって書いてあった。
だからぼくは、茜をなんとかしてここから連れ出したいんだ。
だから茜、ぼくに君の苦しみを分けてくれないか? そして二人で、ぼくたちの世界に戻ろう」
ぼくがそう言うと、茜はしばらく僕の胸に顔をうずめていたが、そのままの姿勢で聞く。
「……ほんとうに、あたしを嫌わない?」
「うん。約束する」
ぼくの答えを聞いて、茜はゆっくりと身体を離す。そして恥ずかしそうに眼を逸らして、ポツリポツリと話し出した。
………………
「あたしね、3年前にソラに会った時、本当はソラに連れて逃げてほしかったんだ」
ダークブラウンの髪に人差し指を絡ませながら言う茜に、ぼくは黙ってうなずくと先を促す。
「ふふ、何でかって聞かないのね。ソラってそんなとこ、昔から鋭かったもんね。
あの時さ、あたしさ、お父さんの頼みで結婚することになっていたんだよね。
相手はお父さんの会社に資金援助している方でさ、あたしより20も年上だったんだ……」
ぼくは何も言えない。優しくてお父さんのことが大好きだった茜のことだ、最後の最後まで迷っただろう。実際、3年前のあの時、茜は何度かぼくに
「あたし、今日は帰りたくないなぁ」とか、
「昌がいなくなっちゃったから、幼馴染は二人きりだね。
あたしはソラとの縁が切れたら寂しくて死んじゃうかもしれないなぁ」とか、
「ソラと『ただの幼馴染』では終わりたくないなぁ」
とか言っていた。
それが茜の本心だとは正直思っていなかったが、彼女の顔にどことなく焦りや悲しみが浮かんでいるのを見て、何かのっぴきならない悩みを抱えているんじゃないかとは感じていた。
茜は手を組んで前に伸ばしながら言う。
「……でも結局、ソラはあたしの誘いに乗ってくれなかった。あたしさ、ソラが連れて逃げてくれなくても、せめて初めてはソラとって思ってたんだ……」
そう言うとぼくに背中を向けて、
「……でもソラ、ずるいよ。神様との結婚だなんて、一言も言ってくれなかったじゃん。
ずーっと文通もしてくれてたじゃん? あたしが高校を卒業するまで。
だから、あたし信じてたんだ。きっとソラがあたしを迎えに来てくれるって」
そう言うと、肩を落として、声も小さくなる。
「……あたしさ、ソラを諦めるつもりでお嫁に行ったんだ。相手が20も年上だって、優しくてソラみたいな旦那様ならいいかって。
でも……地獄だった……」
そう言うと、茜はブラウスのボタンを外し、前をぐっと押し広げる。白い胸が露わになったが、ぼくは眼を逸らせなかった。彼女の左胸には、大きなケロイド状の傷があった。
「旦那ってさ、どうしようもない男だった。女はとっかえひっかえ、そのくせあたしが友だちと遊んで遅くなると暴力をふるってさ。
この傷は、ソラとの文通の手紙が見つかった時に、熱湯をかけられたんだ。『昔の男がそんなにいいのか』って。鬼みたいな顔だった。だからあたし、お父さんに頼んで1年半くらいで離婚したんだ。子どもがいなかったのが幸いだよね」
自嘲気味に言う茜。その目には涙が光っていた。
「……茜、辛いならもういいよ」
ぼくが言うと、茜はムッとした顔で、
「ソラが話せって言ったんだよ? だから最後まで聞いて!
あたしがこうなったの、半分はソラのせいなんだから。ソラが優しすぎたから」
そう言うと、続きを話し出す。
「離婚しても学芸員資格を持っていたから、運よく仕事にはありつけたんだ。
そしてさ、好きだった絵で賞をもらって、ようやくあたしは自分のために、自分の人生を歩けるって思った。
でもそんなときに前の旦那がさ、投資に失敗したとか言って、お金の無心に来て、むりやりされそうになったの。
だから、夢中で突き飛ばしたら、運悪くお空の星になっちゃって……おかげで博物館の職を失っちゃったし、1年くらいは塀の中だったの……」
………………
それきり黙りこむ茜。視線はぼくに向けられていない。焦点の合わない瞳を、ずっとぼくの足元に向けている。
どのくらいの時間が流れただろう。ただ、茜のか細い呼吸と、ぼくの呼吸する音だけが空間を支配していた。
沈黙の重さに耐えかねたのか、茜がぼくを見て言った。
「ね? 聞かなきゃよかったって思ってるでしょ?
ソラのことが好きだったあたしは、バツイチで、人殺しで、もうソラに似合うような女じゃないんだよ?
おかしいでしょ? そんな女なのよあたしは。でもソラのことが諦められなくて、絵のモデルにもしちゃうくらいなんだよ? ソラと二人で暮らせるって聞いたら、怪しい奴の話にホイホイ乗って、怪しいものを売りつけるんだよ? あははは……」
茜の目には、涙がたまっていた。眉は下がり、唇はわなないていた。
明らかに茜は、壊れようとしていた。
「ソラが他の女のものになったって聞いた時、あたし死のうと思ったんだよ?
ソラのくれた手紙と一緒に、消えてなくなろうって。
でもそれがアイツに見つかって、あたしに酷いことしたの。あたしが嫌って言っても、何度も何度も何度も何度も。男なんて嫌っ……!」
そこで、茜はふり乱した髪を直しもせずに、ゆっくりと首を振る。
「……でもソラのことは好きなの。
好きになっちゃいけないのに好きなの。
好きになる資格なんてないのに好きなの。好きなの、好きなの、好きなの……。
おっかしいでしょ、あたし?」
そして茜の口角がゆっくりと上がる。傷ついた目でぼくを見て、茜は叫んだ。
「あたしは、ソラのことが好きなの! 好きになっちゃいけないけど、好きになる資格なんてないけど……」
そこでぼくの方に一歩踏み出して、ゆっくりと手を伸ばし、
「でも……好き、なんだ……」
そう言って、ボロボロと涙を流す。
ぼくは理解した。壊れかけた茜を連れ帰るわけにはいかない、少なくとも今は。
でも、このままにもしておかれない。
ぼくはしっかりと茜を抱きとめると、髪をなでる。茜はニコニコしてぼくに甘えて来た。
「あはは、茜ねぇ、こうやってソラによしよししてもらいたかったんだぁ~。
ソラに頭ぐりぐりしてぇ、ソラに抱っこしてもらってぇ、ソラにぎゅーってしてもらいたかったんだぁ……」
子どものように甘えていた茜は、やがてぼくの腕の中ですうすうと寝息を立てて寝入ってしまった。
ぼくは茜の髪をなでながら、奥歯をかみしめる。茜をこういう風にしてしまったやつ。茜をここまで追い詰めた奴を絶対に許せないと思った。
(……やはり、瀬緒里さんに相談するべきだ。それに、できれば樟葉や周の力も借りたい。茜が完全に飲まれる前に、いったんここを脱出するべきだな)
ぼくはそう考えながら、茜が目覚めるのを待った。
★ ★ ★ ★ ★
転・予想もしなかったこと
炎が迫ってきます。私の頬に、麓から吹く焦げ臭い、熱い風が吹き付けてきます。
火の粉が舞い、あの麗しい月宮の里は、燃え盛る炎に嘗め尽くされていきます。
その光景が、まるで陽炎越しに見るようにゆらゆらと揺れ、ぼやけて滲んでいくのは、熱気のせいだけではありません。
「……やはりだまし討ちでしたか!……ああ、私は我が背に、もう少し強くご意見申し上げるべきでした……」
私は、麓の館に住む月岡円空様のお顔を思い出し、涙に暮れていました。
『……講和の宴会? それは真のことですか?』
……我が背の父君が治める月宮の里には、1年ほど前から不穏な空気が流れていました。何でも、“朝廷”というところから、土地の支配権を譲れと迫られているそうなのです。
父君や円空様は、土地の人々を戦渦に巻き込むことを嫌い、『朝廷の傘下に入るもやむなし』とのご判断でした。
『大丈夫です、川津媛様。たとえ支配者が変わっても、あなたが依る瀬織川やその上流には手を出させませんから』
我が背はそう言って私に心配をかけまいとしましたが、やはり私は胸の中に嫌な予感が広がるのを抑えることができませんでした。
里の人々も同じ気持ちだったのでしょう。最初の勧告を受けてからひと月ほどして、我が背は思い詰めた表情をして私の所にやって来られました。
そして、里の人々や臣下の意見に押される形で、我が背や父君の意に反し、“朝廷”と戦うことになったことを話されました。
『敵わぬかもしれません。あるいはぼくも命を落とすことになるかもしれません。
しかしぼくは、この命ある限り、あなたとこの里を守るために戦い抜きます』
悲壮な顔で言われる我が背に、私は笑いかけました。この時ほど我が背を愛しく思ったことはございません。
『私は我が背と縁を結んだ仲です。それにこの里は、私が依って立つ里。
ですから、我が背とこの里を守るため、私も我が背に力をお貸しいたします』
その約束により、私は我が背に、相手の位置や勝手知ったる里の地形をお教えし続けました。もともと父君はこの辺りでは名の知られた名将、我が背もその血を引いて戦上手でしたので、月宮の里の軍はわずか2千に満たないといえど、3万を超える敵を半年以上も翻弄していたのです。
その頃には、敵将、弓削帯刀土師見も攻め手を無くし、にらみ合いを続ける中で、父君をこの地の代官として取り立てるよう意見していることも私には判っていました。
(……敵将もなかなか見事な人物ですね。もし、その意見が取り入れられるなら、我が背も命永らえるでしょう)
そうは思っても、やはり心配の雲は晴れません。
そんな時に、我が背が『講和のための宴会』を知らせて来たのです。
『川津媛様のおかげで、この里にもやっと平和が訪れようとしています。本当にありがとうございました』
晴れやかな顔でそう言う我が背に、私は思わぬ言葉を放っていました。
『私は心配です。相手にどんな策略があるか分かりません。兵を整え、宴会場を急襲されることをお勧めいたします』
我が背は心底びっくりした顔で、
『……しかし、敵将弓削帯刀殿は、父上をこの地の代官に推挙したそうではありませんか?
そんな相手に、違約して奇襲を仕掛けるなどできません。
大丈夫です、媛。媛の活躍あってこその今回の講和ですから、ご心配なく』
そう言うと、父上の許に戻られて行きました。
私は、それが我が背との千年にも及ぶ別れとなるとは、思いもしませんでした。
まさか“朝廷”が弓削帯刀を将軍から更迭し、冷徹な人物を秘密裏に送って来ていただなんて!
『講和を終えて落ち着いたら、父上に媛を紹介したいと思ってます。吉左右をお待ちください』
照れながらそう言ってくれた我が背を、私は神力を使ってでも押し留めるべきだったのです!……。
「……媛、川津媛。悪い夢なら覚めた方がよいでおじゃるぞ。現に戻られよ」
月宮の皇子様の声で、私ははっと現に引き戻されます。嫌な汗をじっとりとかき、髪が首筋にべったりと張り付いていました。
肩で息をする私に、皇子様は優しく声をかけてくださいました。
「……うなされておじゃったぞ。心配は神力を蝕む。坊のことが心配なのは分かるでおじゃるが、かような時こそ坊を信じねばならぬのではおじゃらぬかのう?」
「……あのような別れを、もしも三度経験することになるのなら、いっそのこと神去った方が……」
パチンッ!
私が言いかけると、皇子様は扇を鋭く鳴らし、眉を寄せて仰います。
「……媛、麿は天神地祇の垣根を越えて、媛を麿の娘じゃと思うておじゃる。これしきの試練に負けて、神去るなどと情けないことを申してくれるでない。
此度の縁は最後の縁……二人ともそう誓うておじゃったは嘘におじゃるかの?」
扇の音に驚いて顔を上げた私は、初めて周囲の違和感に気付きます。眉を寄せながらも優しい目をした月宮の皇子様の向こうに、見慣れた襖が見えます。
「ここは……無常堂……?」
茫然とつぶやく私に、皇子様はにんまりと笑って立ち上がられ、
「待たせて済まぬな月宮の坊。此度の件について月宮の坊の見立て、麿もぜひ聞きたいでおじゃる」
その声とともに、我が背が静かに部屋に入って来ます。かなり疲れた様子でしたが、常と変わらぬ微笑を浮かべていました。
「……瀬緒里さん、心配かけました」
何も言えずに涙ぐむ私に、我が背がそっと手を握ってくれます。我が背のぬくもりにふれ、私はそれだけで心に渦巻いていた不安が、潮が引くように消えていくのを感じました。
と共に、我が背がひどく大きな悩みを抱えていることも……。
「……我が背の無事な姿を見て、私はもう安心しました。
それより、木庭茜殿は、やはり幼馴染さんでしたのですね?
そしてその処遇を迷っていらっしゃる、と」
私が訊くと、我が背は肩を落としてうなずき、
「はい。茜は恐らく申非五蝿によって嘘の過去を吹き込まれ、人格を壊されたんだと思います。こちらに連れ帰りたいんですが、今のままでは同じことを繰り返すでしょう。
茜にはこれ以上、あちらとのつながりを持ってほしくないんです」
我が背が静かに、顔を歪めながら話します。我が背は月宮の皇子様の様子を気にしていました。
きっと我が背は、この後月宮の皇子様が何と言われるのか判っていたのでしょう。
皇子様は鋭い目で我が背を見て、話が終わると同時に扇をパッと顔の前で広げられました。そして、冷たく、威厳のある声で仰ったのです。
「……月宮の坊にしては珍しゅう縁を見誤ったでおじゃるの?
その縁、すっぱりと切るがその娘にも、坊にとっても最善におじゃる」
目を閉じて皇子様の話を聞いていた我が背は、その瞬間、ぴくりと眉を動かし、ぎゅっと両手を握りしめました。
「皇子様、茜殿は我が背にとって、少年時代を共に過ごした、忘れ得ぬ友人の一人にございます。
もう一人の友人は身罷っておりますれば、茜殿との縁を切れというのは、あまりに我が背に酷でございます」
私は身を乗り出して皇子様に訴えましたが、皇子様は冷たい目で虚空を見据え、
「大きな未練が妄想を生むと、やがて妄執になって縁を壊すにおじゃる。
すべてはその娘の未練が原因でおじゃるが、その一端は坊に帰すべきでおじゃろう。
……月宮の坊、麿は何か間違ったことを申しておじゃるかの?」
そう仰います。
我が背は何も言わずに首を横に振り、静かに立ち上がりました。
そして私に、大事なものを捨てられた子どものような眼で言いました。
「……瀬緒里さん、樟葉と周に、すぐ黄泉平坂の入口に来てくれと伝えてもらえませんか?」
私が何も言わずにうなずくと、我が背はふっと笑って無常堂を後にしたのです。
アタシ(樟葉)は、瀬緒里さんの神使である蛟から連絡を受け、すぐに黄泉平坂の入口に向かった。駐車場にバイクを止めた時、すでに周は着いていて、彼の車は空っぽだった。
アタシが周のようにバイクをその場に置いて行こうとしたとき、空さんが現れて言った。
「樟葉、今回は君のオートバイが必要だ。乗って行ってくれないか?」
「え? 黄泉の国って機械OKなの?」
アタシが訊くと、空さんはいつものニヤニヤ笑いと共に持論を展開する。
「オートバイだって付喪神になるんだ。縁が結べるものなら持ち込み可能さ」
「だからアタシに、今日はオフロード仕様のバイクで来いって言ったのね?」
アタシが言うと、空さんはメットをかぶりながら後席にまたがり、皮肉っぽく言った。
「ああ。今度の行き先は黄泉の国でも鬼がいる階層だ。舗装道路なんてあるわけないからね」
アタシたちが入口についた時、周は近くの木にもたれかかって腕を組んでいた。
何かぶつぶつつぶやいているが、これは周の癖……というより仕事前の“儀式”だ。きっと彼の相棒である狗神たちと打ち合わせをしているに違いない。
「やあ周、急に呼び出して申し訳ない。だが、どうしても君たちの力を借りたいんだ」
空さんがメットを脱いで話しかけると、周はゆっくりと空さんを見て、ことのほか機嫌が悪そうに、
「……空さん、できれば思い止まらないか? 俺は別に鬼が怖くて言ってるんじゃない。黄泉に繋がれた人間を助けるのは不可能に近いから言ってるんだ。
その娘も、言ってみれば自分で黄泉との縁を結んだんだろう? それを助けたいだなんて、いつもの空さんらしくないのも心配だ」
そう、ぶっきらぼうに言う。
空さんはニコニコして周の言うことを聞いていたけれど、静かにうなずきながら
「周の言うとおりだ。自分で縁を求めて黄泉に繋がれたのなら、帰る気もないだろうから、手を出しても余計なお節介になりかねない」
「だろう? だったら、この任務は放棄しようぜ。その方が瀬緒里さんだって心配の種が少なくなるってものさ」
周は勢いづいて言ったが、空さんの言葉で目を細めた。
「……その娘の名は、木庭茜というんだ」
アタシも、今回の仕事内容は詳しく知らなかった。ただ、瀬緒里さんからは『黄泉に繋がれた女性を助け出し、我が背と黄泉の縁を切ります』……それだけを聞いていたのだ。それがまさかあの茜さんだとは。
……しばらくして、周はかすれた声で空さんに聞く。
「木庭茜さんって……空さんや兄貴の幼馴染の?」
空さんはうなずきと共に言った。
「ああ。それに呪物や悪魔の魔導書なんかを売っていた。全部、黄泉の奴らに操られているんだ。
ぼくはそれを止めたいし、茜をこっちに連れ帰りたい。助けてくれるかい?」
周は頭をかきながらぶつぶつ何かを呟いていたが、不意に明るい顔になって言った。
「スケキヨはOKだそうです。こいつらがうんと言ったからにゃ、俺も嫌とは言えませんね。空さん、俺は何をすればいいですか?」
結局、空さんと周は一緒に『縮地』で三途の川を越えて茜さんのところへ直行し、アタシはバイクで三途の川との中間地点で待っていることになった。
「空さん、無茶はダメだよ? 周、アタシの空さんを頼むわね?」
「ヘイヘイ。そっちこそ無茶するなよ樟葉」
アタシは周とそんな会話を交わして、落ち合う場所へ急ぐ。空さんのことだ、申非五蝿さえ邪魔しなければ、ものの30分もあれば茜さんを救出してくるだろう。
アタシはランデブー地点でバイクを停め、念のために赤白の飾り紐を解く。アタシの管狐、崑ちゃんと捲ちゃんを呼び出しておいた方が良い。
(空さんたちまだかな? もう、とっくのとんまに30分は過ぎているのに)
アタシが腕時計を見てそう思った時、崑ちゃんが低く唸った。これは警戒信号だ。
「なに、崑崙比丘尼。何か変なものでも?」
アタシがそう訊いた時、向こうに亡者の群れが雪崩のように走っているのが見えた。よくよく見ると、その先には男の子が一人、亡者たちから必死で逃げている。
(あの子は何者だい? まさか黄泉に迷い込んできたってわけじゃないだろうね?)
そう思っていると、崑崙比丘尼だけでなく捲簾比丘尼までもが、毛を逆立てて唸りだす。
(これは、助けた方が良いかもね?)
アタシは崑ちゃんと捲ちゃんに
「あの子を救うわよ。あなたたちは亡者の群れを始末して」
そう命令し、バイクのアクセルをひねった。
驚いたことに、アタシが救った子は空さんそっくりだった……というか、空さんが10歳ほど若ければこうだったかな、って思うくらいには似ていた。
さらに驚いたことに、空さんと行動しているはずの周が、空さんの居場所を見失って、崑ちゃんたちと共にアタシの所に合流して来た。
「あれ、周。空さんは? 一緒じゃなかったの?」
「いや、あの川が見えた時、空さんが急に行き先を変えたんだ」
……空さんに頼まれて黄泉の国くんだりまでやって来たのに、肝心の空さんが居なければ動きようがない。
「ところで樟葉、その男の子は?」
周がハッとした顔で聞く。周もこの子があまりに空さんに似ていることに不審げな顔をしている。
「ああ、この子はね……」
アタシたちが説明しようとした時、やっと空さんがやって来た。苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
「……樟葉、周。ちょっと面倒なことになって来た」
空さんの言葉で、茜さんの所に行く間に、思わぬ障害があったと感じた。
「で、どうするの空さん。それにこの子はどうしたらいい? ここにほっぽって行くわけにもいかないでしょ?」
空さんは、アタシが助けた子どもをじっと見ていたが、
「……これも茜との縁、か……」
そうつぶやく。
「ね、坊やの名前は?」
アタシが聞くと、その子はおどおどしながらもはっきりと答えた。
「あ、助けてくれてありがとうございます。
ぼくは化野空と言います」
アタシと周は、顏を見合わせた。
アタシは空さんに視線で説明を求める。空さんは薄くうなずいて、
「……ぼくは12歳の時に黄泉に迷い込んだ。茜を山の怪異から守っていた時にね?」
それ以上は何も言いたくないように首を振る。アタシは溜息をつく。なんだってこんな時に、こんなややこしいことが起こっちゃうかなぁ?
「……ふぅ、とにかくこの子が帰れるようにはしないとね。周は知り合いよね? じゃ、アタシがこの子の時代の茜さんとの縁を見てみるわ」
そう言って、紅白の飾り紐を子ども時代の空さんの頭に巻きつける。空さん(子ども)はすぐに深い眠りに落ちた。
アタシは子ども時代の空さんの頭から、飾り紐を外しながら聞く。
「……茜さんって、空さんに寄りかかるくらい重い縁でつながってるわね。
で、空さん。この後は?」
そう言いながら、アタシはちょっと空さんが気の毒になってくる。だってこんな時代から、こんなに強い縁で結ばれている幼馴染さんが、今、黄泉に繋がれようとしているんだもの。
「……そろそろ茜もぼくの神力依坐で落ち着く頃だ。でもその前に申非五蝿を倒して、思い込まされた偽の記憶を消す必要がある。
それはぼくがするから、周は襲ってくるだろう亡者たちを牽制してくれないか?」
空さんがそう言うと、周は薄く笑ってうなずく。
「ちょっと待って! 鬼と戦うつもり? 何かあったら川津媛様が悲しむわよ」
アタシが慌てて言うと、空さんは緋色の瞳を宿した目を細め、
「心配するな。それより樟葉、君にはそのぼくを月宮の里まで送ってほしいんだけど?」
そう言う。アタシはうなずく代わりに、一つだけ聞いた。
「分かったわ。でも一つ訊かせて。茜さんはどうするの?」
その答えを言う空さんの透き通るような笑顔を、アタシは今でもはっきりと覚えている。
すべてを諦めた、悟ったような笑顔だった。
「ぼくとの縁を切る。そうすれば、二度と黄泉との縁は結ばれなくなる」
アタシは、それでいいの? と思った。
空さんと一緒に暮らしていた時代、茜さんは空さんに3日に1通は手紙を寄こしていた。
空さんだってそれを楽しみにし、必ず同じくらいの分量の返事を書いていたことを知っている。
そんな二人の縁を、これっきりにしていいの?
「……でも、それじゃ誰も幸せにならないよ」
アタシが言うと、空さんは目をつぶり、かすかに首を振って答えた。
「そんなことはないさ」
★ ★ ★ ★ ★
結・妄執と未練の物語
俺(周)は、空さんとともに黄泉の国が見えるところまで進んで行った。
黄泉平坂は薄暗く、空気はどんよりとしている。
そして坂の途中には、いくつかの広場があった。
“広場”と言っても、そんじょそこらの公園のようなものじゃない。だだっ広いが、そこに留まろうという意志がない者にとってはごく狭い。
現に俺と空さんは、いくつかの広場をほんの数十歩で通り抜け、茜さんがいるという“広場”までやって来た。
空さんはゆっくりと歩く。周囲には亡者の群れがひしめき、中には腐った食べ物を奪い合う者たちや、血みどろでケンカしている者どもがいたが、空さんはどれも興味がなさそうに無視して歩き続ける。
やがて、行き先に小さなあばら家が見えた時、急に地面が大きく揺れた。
ズズズーン……。
俺は立っていられないほどの揺れを感じて、とっさに身を伏せながら、
「空さん、姿勢を低くしてください!」
そう叫んだが、空さんはニコニコして言う。
「周、今のは幻覚だ。スケキヨたちを呼び出しておいた方が良いかもな」
……えっ!? こんなに揺れているのに? だが空さんは何事もないような顔で立っている。俺は不思議に思いながらも、言われたとおりバンダナを外してスケキヨたちを呼び出した。
「え?」
途端に、あれほど激しく揺れていたはずの地面が、急に静かになる。スケキヨたちは、地面に伏せている俺を、不思議そうな顔で見ていた。
「ほ、本当に揺れていなかったんですね」
俺は立ちあがり、服の埃を手で払って言う。なんか、鬼どもに馬鹿にされた気分だった。
その時、空さんが静かな声で言った。
「周、来るぞ。周囲はお願いする。
それと、茜とぼくが現れたら、躊躇なく二人を連れて『縮地』で逃げろ。行き先は駐車場だ。お願いするよ?」
……は? 茜さんと空さんが現れる? 空さんはここにいるのに?
俺はイマイチ命令の意図が汲み取れなかったが、空さんが言うからには間違いはないだろう。俺は黙ってうなずく。
「……周、『ぼくと茜』というのは、『ぼくの神力依坐と茜』という意味だ」
俺の一瞬の疑問を見て取って、空さんがそう説明してくれる。それで俺がやるべきことは分かった。
「分かりましたよ、空さん」
俺がそう言い終わらないうちだった、周囲の空気が急に冷え込み、俺たちを囲むようにぼわぁっと影が現れる。そしてその向こうに、身の丈5メートルはありそうな、赤銅色の身体をした鬼が現れる。
鬼は俺たちを、正確には空さんを見て、ガラスを爪で引っ掻いたような声で笑った。
『神籬、また会えたな。今度こそ汝をここに閉じ込めてやる』
すると空さんは、両手をズボンのポケットに突っこんだまま、笑って答えた。
「神籬? お前にはぼくが神籬に見えるんだな」
ザザザザッと音を立てて影たちが近づいて来る。俺は空さんと鬼の対峙を横目で見ながら、スケキヨたちに迎撃命令を出した。
鬼は、ぼくの言葉をせせら笑い、
『神籬は神籬だ。吾はご主人のために、境界を曖昧にしたい。しなければならぬ。
黄泉を黄泉たらしめた、至高の女神様を蘇らせねばならぬ。
汝のような上質の神籬は、もう見つけられないだろう』
そう言って、頬のこけた顔中を口にして笑った。
その聞く者の魂をざわつかせる笑い声が、途中で途切れる。
『……神籬……汝は、何者だ……?』
鬼はどす黒い炎をまとった剣を握りしめながら、目を見開いていた。今目の前に見えているものが信じられない……いや、“信じたくない”という表情だ。
ぼくの心は冷え切っていた。
こいつには“語るべき過去”がない。
邪剣という“怨嗟の念そのもの”しかない。
しかもその怨嗟の念は、剣そのものの意思とは無関係に“与えられた”ものだ。
イシュテリアと同じだ。“最初から悪として存在し、自身もそれを受け入れている。”
だからぼくは、こいつ自身とは縁でつながっていない。ただ、こいつが黄泉という場に対して強い感情を持っていたため、黄泉そのものとの縁が強くなっただけだ。
「申非五蝿、いいことを教えよう。神籬にはな、神籬としての縁がある。
例え国生みの神だったとしても、何にでも顕現なされるものじゃない」
ぼくは冷たい声で、目を剥いて固まってしまった申非五蝿に聞く。
「……茜に見せた偽の過去、どこからどこまでだ?」
茜が話してくれた凄惨な過去。すべてが嘘ではないだろう。いかに鬼と言えど、翳のない心に入り込むことはできない。
だが、茜の持つ縁が、あれほど過酷で容赦のないものだったとは思えない。これは幼馴染としての欲目ではない、彼女が月宮様に参拝する時の態度を見ていれば分かることだ。
“神は、真心には真心で返す”ものだからだ。
「申非五蝿、ぼくはお前ほど暇じゃない。ぼくを待っている人がいるんだ、早く聞かせろ」
相変わらずポケットに手を突っ込んだまま、ぼくは五蝿を急かす。ぼくの周りにゆらゆらと純白の神気が立ち込めるのが分かる。
『……前の夫が会いに来たところから、職を失ったところまでだ……』
五蝿は、裂けんばかりに目を見開き、食いしばった歯の間から漏れる息のような声で答えた。身体が小刻みに震えている。
「……つまり、茜が壊れる最後の一押しの部分を、お前が『でっち上げた』というんだな?」
ぼくの感情が一気に冷え込む。
境界を曖昧にして、世の理を混乱させようとした。
そのために、ぼくを“神籬”として手に入れようとした。
その手段として、茜の心を壊しかけた。
「そうか……。許せないな……」
ぼくは五蝿に右手を伸ばす。五蝿の顔が情けなく引きつった。
その時、野太いが威厳のある声で、
『待て、蕃の神よ。我の臣下に手を出すまいぞ』
そんな言葉が黄泉に響く。だが、ぼくは構わず五蝿を処断しようとした。
『待ちたまえ、蕃の神よ! そ奴の処断は我がやる。これは兄者と姉君からの要求でもある。
我を信じて、人間の娘を連れて早々にここから出て行ってもらいたい。
そなたがいると、黄泉の紡ぎ目がほどけてしまう』
慌てたような声が響き、
ドバンッ!
『ぎゃっ!』
目の前で申非五蝿は脳天から真っ二つになった。
『これでいいか、蕃の神よ?』
ぼくは無表情でうなずいた。心は空っぽのくせに、煮えたぎる渦が荒れ狂っていた。
「……ソラとこうして腕を組んで歩くの、夢だったんだ」
茜は夢見心地の表情で、ぼくの神力依坐に甘えている。まるで我慢していた時間を埋め合わせるように。
神力依坐は、ぼくの神力で創ったぼくの身代わりで、ぼく自身となんら変わらないが、茜を騙しているようで気が引ける。
かと言って、ぼくが茜と腕を組むわけにもいかなかった。そんなことをしたら、ぼく自身が茜との縁を諦められなくなりそうだったから……。
申非五蝿が消滅したことで、茜の中に埋め込まれた『元夫の死の原因』『それによる服役と失業』という幻想が解け、壊れかけた茜の心を救えた。
それだけが、ぼくの心を少しだけ温かくしてくれる。
ぼくは茜たちの後ろをゆっくりと歩いている。樟葉と周は、気を利かせて先に駐車場に行ってくれていた。
その代わり、この場には瀬緒里さんともう一方、月宮の皇子様が合流されていた。
瀬緒里さんは、哀しそうな顔をしてぼくの腕にしがみついている。
いつもより身体を押し付けるようにしているのは、一緒に黄泉の国に行けなかったことで心配ばかりしていたからだろうか。
一方で月宮の皇子様は、ずっと半眼で茜のことを視ておられた。
やがて、駐車場近くまで来ると、茜はぼく(の神力依坐)に向かって笑いかけて言った。
「ねぇ、ソラ。あたしさ、ソラに叶えてほしいお願いがあるの」
頬を染めて言う茜の顔には、寂しげな笑みが浮かんでいた。
「……何だろう?」
そう言って茜を見たぼくのくちびるに、彼女は背伸びしてくちびるを重ねてきた。
その瞬間、ぼくの腕を握っていた瀬緒里さんの手に力がこもる。そして瀬緒里さんはサッと横を向いた。
だが、月宮の皇子様は、ぼくに透き通った声で聞いてくる。
「月宮の坊、後悔はいたさぬでおじゃるな?」
瀬緒里さんがハッとした顔でぼくを見る。目を見開き、今にも泣きそうだった。
「我が背……」「お願いいたします」
ぼくがそう答えると、月宮の皇子様は一瞬、眉尻を下げて痛ましそうな眼を僕に向け、すぐに真剣な顔で腰の佩刀を抜き放たれた。
茜は、目を閉じて、幸せそうな、切なそうな顔をしている。
皇子様はぼくの後ろに歩を進められ、スッと目を細められると、
「はっ」
静かな気合と共に、ぼくと茜の胸を刺し貫かれた。
「……ソラ、ありがとう」
茜はぼくから離れると、本当に心からの笑みを浮かべ、すうっと目を閉じて眠りに落ちた。
倒れかけた茜を、白銀の髪をした冷たい感じがする女性が受け止める。
その時には、ぼくの神力依坐は、春の日の雪のように消えていた。
月宮の皇子様は太刀を鞘に納められると、
「……氷人、その娘を家まで送っておじゃれ」
そう命令し、茜の姿が消えると、ぼくたちの方へと歩いて来られた。
そしてぼくたちの顔を交互に見られて、静かな微笑みと共に仰った。
「……縁は、結ぶにも切れるにも意味がおじゃる。
そして、縁が切れても思いは残る。その残り方が大切でおじゃるよ。
坊は切れた縁は切れたままにすることを覚えよ。
川津媛は今ある縁をしっかりと生きよ」
そう言って、空に消えて行かれた。
ぼくらは、しばらく腕を組んだままその場に立ち尽くしていたが、
「……空さま、帰りましょう」
瀬緒里さんはそう言って僕の腕にしっかりとつかまり、
「……離さないで、くださいね? 瀬緒里を」
小さな声でつぶやく。首筋が真っ赤になっていた。
ぼくはうなずいて歩き出し、心の中で思った。
(……想い出は思い出として、心の中にしまっておこう。今の瀬緒里さんを大事にするために)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
夢の中でソラと会ってから1年後。
あたしは、1週間後に迫った結婚式の準備と引っ越しのために、住み慣れた部屋を片付けていた。
新しい彼は、博物館の先輩で、とても優しいひとだ。
あたしの離婚歴や、前の旦那から負わされた傷のことも知ったうえで、あたしを大事にすると言ってくれた。
あの人のところに持って行くもの、実家に送るものを仕分けしていた時、部屋の押し入れの奥から古いダンボールを見つけた。
「……ソラの手紙だ」
それを見た時、あたしの胸は甘くうずき、今朝方見た幸せな夢を思い出した。
(……ソラのこと、まだ忘れられないんだな。キスしてもらう夢を見るなんて)
ソラとは、小学校を卒業してから高校卒業までの間、ずっと手紙をやり取りしていた。あたしはその手紙を全部捨てずに持っていたのだ。6年間で6百通余り……あたしとソラの青春がそこにあった。
でも、あたしにはもう、愛してくれる人がいる。
そして、あたしも彼のことを愛していきたいと思っている。
今度こそあたしは、自分の人生を生きて、幸せをつかめる気がしている。
だから……
「これももう想い出にしなきゃね……」
あたしは微笑んでそうつぶやく。想い出さえあれば、心は温かい。
あたしは窓の外を見つめた。晴れ渡る空に、あの日のソラの笑顔が見える気がしたが、あたしも負けずに笑って過ごして行きたい。
さよなら、ソラ……
さよなら、あたしの初恋……。
【無常堂夜話16 妄執と未練の物語 おわり】
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
茜も、空も、過去を想い出とし、未来へ目を向け始めます。
そして瀬緒里にも、大きな心境の変化が起こります。
実質的に、『無常堂夜話』もここで大きな曲がり角を曲がったと思います。
今後、どのような人間関係が彩られていくのか、そして空が黄泉で言われた『蕃の神』とは?
最大の謎が出て、この物語も終盤かなーという気がします。
では、いつかまた。




