第7話 監査官の父
エミルの名が掲示されてから、広場の空気は変わった。
怒号は減った。
代わりに、視線が重くなった。
責める声よりも、測る目。
私はその目を受け止めながら、執政室で新たな帳簿を開いていた。
「医療費が増えています」
ハロルドが報告する。
「予想範囲内」
「教会診療所への支出も」
「共同運営の代償」
セドリックが補足する。
「ですが長期的には、労働損失が減る」
私は頷く。
「数字は」
「まだ赤字圏内」
当然だ。
黒字化は一朝一夕ではない。
そのとき、セドリックが一枚の古い書類を机に置いた。
「ご覧ください」
封印は解かれている。
王都財務監査局の報告書。
署名は——ハルヴァイン。
彼の父。
私は目を細める。
「なぜ今」
「あなたが監査を強行したからです」
静かな声。
「父は三年前、教会の財務不備を指摘しました」
ページをめくる。
未報告寄進、使途不明金、二重帳簿の疑い。
報告は途中で終わっている。
「そして失脚した」
「あなたの政策と重なった」
私は書類を閉じる。
あのとき、私は教会との対立を避けるため監査を凍結した。
均衡を保つため。
その結果、彼の父は切られた。
「復讐か」
私は問う。
セドリックは首を振る。
「いいえ。検証です」
その瞳に揺らぎはない。
「父は正しかった。しかし政治に負けた」
「今も同じだ」
「ええ」
彼は淡々と言う。
「あなたも正しい。だが政治は別です」
私は椅子に背を預ける。
「ではどうする」
「教会の帳簿を完全公開させる」
「不可能だ」
「だから政治です」
彼は机の上に新たな計算表を広げる。
「教会は塩の一部を放出しました。民衆の支持は維持している。だが財源は減る。寄進が減れば、内部で軋む」
「内部から崩す?」
「交渉です」
私は彼を見る。
「あなたは冷静だ」
「感情を使うのは父で終わりにしました」
その言葉に、わずかな棘がある。
私は静かに言う。
「あなたの父を切ったのは私だ」
「ええ」
「恨んでいる?」
「評価しています」
私は目を伏せる。
赦しではない。
記録だ。
——
その日の午後、商人ギルド長ヴァルターが再び現れた。
「塩の流通を再開する。ただし条件がある」
「言いなさい」
「教会と敵対するなら、我々は中立を保つ。だが独占権は要求しない」
「価格は市場準拠」
「当然だ」
私は頷く。
「契約書を」
ヴァルターは笑う。
「あなたは橋を焼くが、同時に新しい橋を架ける」
「燃料は尽きない」
「尽きるさ」
彼は去る。
セドリックが言う。
「商人は風だ。味方ではない」
「敵でもない」
夜、教会から使者が届いた。
マルケスの書簡。
『統治は救済である。あなたの透明化は民の不安を煽る。死者を掲示するのは残酷だ』
私は短く返す。
『残酷でなければ、忘れる』
返書を託す。
セドリックが問う。
「あなたは変わりましたか」
「変わっていない」
「では何が」
私は窓の外を見る。
配給の列が整然と並んでいる。
エミルの名は消えていない。
「逃げなくなった」
セドリックは頷く。
「父もそうでした」
その一言が、胸に残る。
翌朝、教会内部で寄進減少の噂が流れた。
民衆は掲示板を見る。
数字が動く。
塩在庫、増加。
赤字、わずかに縮小。
小さな変化。
だが確実だ。
私は静かに帳簿へ新たな署名をする。
これは、かつてと同じ動作。
違うのは、誰のための署名かということ。
セドリックが言う。
「あなたは正しくない」
「知っている」
「だがあなたは必要だ」
私は苦く笑う。
「それで十分だ」
冬の風が城館を打つ。
まだ黒字には遠い。
支持も低い。
だが秩序は崩れていない。
私はペンを置く。
悪役のままでいい。
だが、今回は——
結果から逃げない。




