第6話 臨界点
最初の死者は、静かに出た。
暴動でもなく、盗賊でもなく、処刑でもない。
ただの、病死だった。
塩の段階配給が始まって十日目。西区の貧民街で、保存食の腐敗による食中毒が発生した。三名が重症、一名が死亡。
名前はエミル。八歳。
報告書を受け取ったとき、私は瞬きを忘れた。
「保存義務違反です」とハロルドが言う。「規定量以上を一度に消費し、保存法を守らなかった」
規則は守られていた。配給は計算通り。違反は罰金対象。
だが、死んだ。
私は報告書を閉じる。
「家族は」
「母親のみ。父は三年前に流出」
三年前。
増税の年。
私は立ち上がる。
「現地へ」
——
西区は湿気が多く、石畳の隙間に水が溜まっている。腐敗の匂いが残る家の前で、母親が膝を抱えていた。泣き声はもう枯れている。
私が近づくと、周囲の視線が集まる。
「あなたが決めた配給だ」と誰かが言う。
私は母親の前に立つ。
「……申し訳ありません」
謝罪は、初めてだった。
だが赦しを求める言葉ではない。
「保存法は説明した」
母親は顔を上げない。
「でも足りなかった」
短い言葉。
私は喉が詰まるのを感じた。
足りない。
それは事実だ。
私はエミルの名を記憶する。帳簿には載らない名前。
「医師は」
「教会の診療所が対応しました」とハロルド。
マルケスの顔が浮かぶ。
救済。
彼はこの死をどう語るだろう。
私は立ち上がる。
「保存指導を強化する。塩の配給基準を微修正」
「増やすのですか」
「増やせない」
言葉が重い。
私は母親に金貨を一枚差し出す。
「葬儀費用です」
彼女は受け取らない。
「要らない。息子を返して」
当然だ。
私は金貨を地面に置き、踵を返す。
背後から罵声が飛ぶ。
「やっぱり悪役だ!」
胸が痛む。
だが足は止めない。
——
城館へ戻ると、セドリックが待っていた。
「報告は受けました」
「あなたの計算に死者は含まれていた?」
私は問い返す。
「統計上は、はい」
冷たい答え。
「だが名前はありませんでした」
彼は一瞬だけ沈黙する。
「臨界点です」
「何の」
「支持と恐怖の均衡が崩れ始めています」
私は椅子に座る。
「教会は動く」
「既に。エミルの葬儀を教会主導で行うそうです」
予想通りだ。
救済は物語を作る。
私は机を叩く。
「塩の保存講習を全区域で実施。医療班を増員。教会と共同で行う」
セドリックが目を細める。
「協力?」
「利用だ」
彼は小さく頷く。
「あなたは橋を焼くと言った」
「焼きすぎた」
沈黙。
私は初めて、机に額を押し当てる。
ほんの一瞬だけ。
「……私は間違えた」
声は低い。
セドリックは何も言わない。
数秒後、私は顔を上げる。
「だが立て直す」
「どうやって」
「透明化を拡大する。死者も記録する。隠さない」
「不利になります」
「承知している」
私は立ち上がる。
「広場に掲示する。エミルの名も」
セドリックは静かに言う。
「あなたは残酷だ」
「ええ」
「だが逃げない」
「逃げれば、彼は数字になる」
夜、広場に掲示板が立てられた。
配給量、在庫、支出、そして死者一名。
エミル。
民衆が集まり、ざわめく。
ルカが涙を浮かべる。
「神は彼を迎えた」と彼は言う。
私は答える。
「私は彼を記録した」
マルケスが遠くで微笑む。
「あなたは人の心を知らない」
「心は守れない」
私は広場を見渡す。
「だが冬は守る」
静かな風が吹く。
支持はさらに下がるだろう。
だが配給秩序は保たれる。
臨界点は越えた。
ここからは、落ちるか、踏みとどまるか。
セドリックが隣に立つ。
「あなたは正しくない」
「知っている」
「だが必要だ」
私は目を閉じる。
冷たい冬の空気が肺を満たす。
悪役であることを、恐れない。
そう決めるには、まだ痛みが足りない。
だが、進む。
レヴァン領の灯は、まだ消えていない。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




