第4話 塩の値段
セドリックは机の向かいに立ったまま、帳簿を指先で叩いた。
「商人ギルドは塩を止めることで圧力をかけています。理由は単純です。横領摘発により、彼らの“裁量”が脅かされた。ならば交渉材料を握る」
「塩か」
「塩です。冬を前にして最も効く」
私は備蓄表に目を落とす。
塩在庫、二百袋。領民四千二百。保存食の必要量を考えれば、最低でも五百は欲しい。
「代案を」
セドリックは即答した。
「三つ。第一に、近隣の山岳領との直接取引。第二に、教会倉庫の監査を強行し、余剰を市場へ流す。第三に、塩税の一時撤廃で商人を呼び戻す」
「二番目は衝突を招く」
「はい」
「三番目は譲歩になる」
「はい」
彼は淡々としている。父の失脚について触れない。だが、その目の奥に静かな評価がある。
「あなたは正しい判断をしました」と彼は言う。「しかし順序を誤った」
私は小さく息を吐く。
「順序の修正は可能?」
「可能です。ただし、嫌われます」
「既に嫌われています」
セドリックは一瞬だけ口元を緩めた。笑ったのか、皮肉か、判別できない。
「では第二案を推します。教会倉庫には余剰がある。慈善の名目で溜め込まれている」
「証拠は」
「推計です。昨年の寄進額と配給量が一致していない」
数字の論理。私は頷く。
「監査を行う」
その言葉が室内の空気を硬くする。ハロルドが蒼白になる。
「司祭マルケスは黙っていません」
「黙らせる」
私は立ち上がる。
「今から教会へ行く」
——
石造りの教会は城館よりも立派だった。白い壁は磨かれ、門前には人が集まっている。祈りの時間らしい。私の到着にざわめきが広がる。
司祭マルケスが現れる。四十代半ば、穏やかな笑み。目は静かだが、底が見えない。
「これは珍しい。ご領主様自ら」
「倉庫を拝見します」
挨拶は省いた。
周囲が息を呑む。
マルケスは柔らかく首を傾げる。
「慈善は神への奉仕。監査の対象ではありません」
「領内に流通しない穀物と塩は、奉仕ではない」
言葉がぶつかる。
マルケスは微笑みを崩さない。
「統治とは救済です、レディ。人は赦しで動きます」
「統治とは継続です。人は食料で動きます」
沈黙。
周囲の民衆が私を睨む。
「あなたは冷たい」と誰かが言う。
マルケスが静かに続ける。
「塩を求めるなら、祈りなさい。神は飢えを試練として与える」
「私は試練を受け入れない」
私は衛兵に命じる。
「倉庫を開けなさい」
扉が軋みながら開く。
中に積まれた袋。小麦、干し肉、そして塩樽。
数は十分ではない。だが、ゼロではない。
私は振り返る。
「寄進記録を提出しなさい」
マルケスの目が初めて冷える。
「これは越権です」
「いいえ。統治です」
空気が張り詰める。
民衆の中から怒号が上がる。
「神に逆らうのか!」
石が飛ぶ。衛兵が盾で防ぐ。
セドリックが低く囁く。
「臨界点です」
私は一歩前に出る。
「塩は市場価格で買い取る。教会の損失にはならない」
ざわめきが揺れる。
「ただし、在庫の一部を今夜中に放出する」
マルケスが静かに言う。
「あなたは人心を失いますよ」
「人心で冬は越せません」
視線が交錯する。
長い数秒の後、マルケスは微笑んだ。
「……半分です」
「三分の二」
「五割」
「六割」
沈黙。
マルケスは目を細める。
「五割五分」
私は頷いた。
「合意」
緊張がわずかに緩む。
倉庫から塩樽が運び出される。民衆がどよめく。怒りと安堵が混じる。
私はその様子を見ながら、胸の奥に残る違和感を感じていた。
これは勝利ではない。
ただの延命だ。
教会との対立は深まった。商人も戻らないかもしれない。
城館へ戻る途中、セドリックが言う。
「あなたは一歩踏み込みました」
「踏み込み過ぎたかもしれない」
「ええ」
即答だった。
「ですが、必要でした」
私は歩みを止めない。
夕空は鉛色のまま。冬は待たない。
執政室に戻り、塩の在庫を再計算する。
不足はまだ大きい。
私はペンを握る。
「塩税を一時撤廃。商人への再契約提示。代替交易路の調査を急ぐ」
「譲歩ですか」とセドリック。
「順序の修正です」
彼は頷く。
「嫌われます」
「慣れています」
だが本当は、慣れてなどいない。
窓の外、塩を受け取った民衆の顔が見える。感謝はない。疑念も消えない。
それでいい。
私は椅子にもたれ、目を閉じる。
署名の重さは消えない。
だが次の署名は、逃げるためではない。
レヴァン領の冬が、確実に近づいていた。




