第3話 署名の重さ
夜半、城館の一室で私はひとり机に向かっていた。
蝋燭の火が揺れる。帳簿とは別に、王都から運び込ませた書類箱を開ける。封印は解かれていない。私しか触れられないよう、王城を出る前に自ら封をしたものだ。
逃げるためではない。
確認するために。
私は一通の羊皮紙を取り出す。
辺境諸領臨時増税案——承認印。
そこにある筆跡は、紛れもなく私のものだった。
あの日のことを思い出す。
王都の執務室。財政赤字の報告。王太子の理想的減税案。貴族たちの反発。教会の沈黙。私は計算した。軍備維持、治安費、王都の穀物備蓄。数字は足りなかった。
足りないなら、どこかから持ってくるしかない。
辺境は、声が小さい。
だから選んだ。
それだけの話だ。
紙の端を指でなぞる。署名のインクは乾ききっているのに、指先が重い。
昼間、老兵ガルドが言った。
『お嬢様の税で、息子が出ていった』
あの息子は、どこへ行った。
盗賊か。傭兵か。墓か。
私は視線を落とす。
数字の向こう側に、顔はなかった。
だから私は迷わなかった。
だが今、この紙は重い。
そのとき、扉が叩かれた。
「入れ」
執政補佐官ハロルドが顔を出す。焦りが滲んでいる。
「報告が。西の農村で略奪が」
「盗賊か」
「はい。数は五名。捕縛済みですが……その」
「何です」
「元領民です。増税後に土地を失った者たちで」
私は書類を静かに畳んだ。
「連れて来なさい」
中庭に縛られた男たちが跪いている。痩せ、目が血走っている。若い者が多い。
ひとりが私を見るなり唾を吐いた。
「お前が……!」
衛兵が殴ろうとするのを手で制す。
「名前は」
「ローレン」
「土地を失ったのは、いつ」
「三年前だ! 増税の年だ!」
三年前。私はちょうど王都で財政再建案をまとめていた頃だ。
「家族は」
「妻と娘がいた。娘は病で……」
言葉が詰まる。
私は胸の奥に小さな痛みを感じた。だが顔には出さない。
「略奪で何を得た」
「食料だ」
「武器は」
「売るつもりだった」
つまり生きるためだけではない。延命のための資金。
私は兵士たちを見る。
「法では盗賊は死刑だ」
ざわめき。
ローレンが笑う。
「どうせ俺たちは死ぬ。あんたが殺したも同じだ」
正しい。
だが。
「死刑にはしない」
全員が顔を上げた。
「労役刑。城壁修繕と農地再生に従事させる」
「甘い!」と誰かが叫ぶ。
私は首を振る。
「殺せば終わる。働かせれば戻る」
老兵ガルドが低く唸る。
「戻らねぇよ。あんたは知らねぇ。奪われた側は、戻らねぇ」
その言葉は刃より鋭い。
私はローレンを見る。
「戻りたいか」
彼は沈黙した後、吐き捨てるように言う。
「……戻れるなら」
私は兵に命じる。
「拘束を解き、労役へ」
兵たちは戸惑いながら従う。
処刑を期待していた空気が、宙に浮いたまま落ちない。
私はその重さを感じながら言う。
「だが再犯は死刑だ」
冷たい宣告。
ローレンの目に憎悪が残る。
許されたわけではない。
赦したわけでもない。
中庭を去る途中、ガルドが低く言った。
「……迷ってやがるな」
「迷っていません」
「顔に出てる」
私は足を止めない。
迷いはある。
だがそれを判断に混ぜないと決めた。
執政室へ戻ると、別の報告が待っていた。
「商人ギルドが塩の搬入を止めました」
私は振り返る。
「理由は」
「横領摘発の余波で、契約見直しを要求しています」
塩。
保存に必須。冬備蓄に直結。
私は机に広げた備蓄表を見る。
小麦三千袋。塩在庫、残り二百。
冬まで四ヶ月。
足りない。
胸の奥が、わずかに速く打つ。
計算が崩れた。
私は初めて、小さく息を呑んだ。
「……私の手が早すぎた」
横領摘発は正しい。
だが、順番を誤った。
商人を敵に回す前に代替ルートを確保すべきだった。
私は椅子に腰を下ろす。
失敗だ。
誰にも聞こえない声で呟く。
「私は間違えた」
その言葉は、重い。
だが逃げない。
すぐに顔を上げる。
「代替を探す。近隣領との取引記録を。塩の自家生産は可能か調査」
「無理です」と補佐官。
「可能性を探せと言った」
冷静さを取り戻す。
感情は後だ。
そのとき、控えめなノック。
「入れ」
若い男が入ってくる。黒髪、痩せた体躯。目だけが鋭い。
「セドリック・ハルヴァインと申します。臨時財務補佐官として任命されました」
その名に、記憶が反応する。
王都財務監査官ハルヴァイン。
私が失脚させた男。
目の前の青年は、淡々と頭を下げる。
「帳簿を拝見しました。あなたの計算は正しい」
私は眉をわずかに動かす。
「だが?」
「順序を誤りました。塩は民衆感情の臨界点になります」
彼は私の失敗を、感情ではなく分析で突く。
私は椅子に背を預ける。
「代案は」
「あります」
短い言葉。
その瞳には、憎しみも、敬意も、混じっている。
冬の雷鳴が近づく。
私は署名の重さを思い出しながら、言った。
「話しなさい」
レヴァン領の再建は、静かにだが確実に、難度を上げていた。
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