第2話 赤字の領地
レヴァン領の城館は、城と呼ぶにはあまりに質素だった。
灰色の石壁は所々が崩れ、外塀には補修の跡がいくつも残っている。王都の屋敷のような装飾はなく、門前に並ぶ兵士たちの鎧も統一されていない。槍の穂先は錆び、靴は擦り切れていた。
歓迎の列は、なかった。
代わりにあったのは、沈黙と視線だ。
馬車を降りた瞬間、空気の冷たさが肌を刺す。王都の冬よりも厳しい。風が乾いている。人の気配はあるのに、声がない。
「……ようこそ、レヴァン領へ」
出迎えたのは、痩せた中年男だった。名乗りは執政補佐官、ハロルド。目の下に深い隈。疲労が刻み込まれている。
私は軽く頷く。
「形式的な挨拶は不要です。まず帳簿を」
周囲の空気がわずかにざわめいた。
普通なら、労いの言葉や視察の予定を問うのだろう。だが私は観光に来たのではない。ここは私の“結果”だ。感傷に浸る資格はない。
執政室に通される。
机の上に積まれた帳簿は、想像より少なかった。いや、少なすぎる。
「直近三年分です」
「それ以前は?」
「……一部、紛失しております」
横領だ。
私は椅子に座り、帳簿を開く。数字が並ぶ。収入、支出、未払い、借入。頭の中で計算が走る。癖のように。
年収入、およそ四万金貨。
負債、九万三千。
兵士未払い給与、二年分。
利子率、年一五%。
私はページをめくる手を止めた。
「なぜ借入を続けたのです」
「王都からの臨時徴税が……」
言葉が途切れる。
署名欄に目を落とす。
そこにある筆跡は、見慣れたものだった。
——アレクシア・ヴァレンタイン。
胸の奥で何かが沈む。だが表情は動かさない。
「増税分はどこへ」
「王都への納付と、治安維持費に」
「治安は維持されていますか?」
沈黙。
答えは聞くまでもない。
窓の外から怒号が上がる。遠くで、何かが割れる音。
「盗難と脱走が増えています。兵の士気も……」
私は帳簿を閉じた。
数字は嘘をつかない。だが数字だけでは、人の顔は見えない。王都で私は、それで十分だと思っていた。
「兵を集めなさい」
補佐官が目を見開く。
「粛清ですか」
「確認です」
私は立ち上がる。長旅の疲れが足に残っている。だが止まる理由はない。
中庭に兵士たちが集められた。鎧は不揃い。視線は敵意と諦めが混じっている。
「未払いは事実ですか」
ざわつき。前列の若い兵が声を上げる。
「二年分、払われていません!」
「家族は?」
「村に戻りました。俺も、いつまで持つか……」
私は視線を流す。何人が痩せているか、何人が装備を失っているか、何人が目を逸らしているか。
「兵站責任者は」
後方から男が出てくる。太っている。指輪が光る。
「私ですが」
私は帳簿の一頁を広げる。
「この支出。兵糧購入額が市場価格の二倍。差額はどこへ」
「輸送費が——」
「レヴァンは港を持たない。陸路のみ。輸送費は上がるが、倍にはならない」
男の額に汗が浮く。
「王都からの命令で——」
「命令書を」
出てこない。
沈黙が落ちる。
私は兵士たちを見る。
「未払いは、横領によるものです」
ざわめきが怒りに変わる。
「裁定を下します」
兵站責任者は膝をつき、叫ぶ。
「お前が増税したからだ! お前が!」
正しい。
私は増税を承認した。ここを苦しめたのは私だ。
だが横領を許す理由にはならない。
「財産没収。投獄。公開監査の上、損失分を補填させます」
兵士たちの顔に、戸惑いが浮かぶ。処刑ではない。だが甘くもない。
私は続ける。
「未払い分は段階的に支払います。まず三ヶ月分」
「そんな金がどこにある!」
誰かが叫ぶ。
「削減する」
私は淡々と答える。
「無駄な補助金。貴族免税。教会への優遇。全て見直す」
空気が凍る。
補佐官が青ざめる。
「教会に手を出せば——」
「出します」
私の声は静かだ。
王都で私は、教会監査を凍結した。政治的均衡のため。だがその均衡は、ここを犠牲にしていた。
ならば今度は逆だ。
「監査を行う。数字は神より正直です」
兵士たちは顔を見合わせる。信じていない。だが完全に否定もできない。
中庭の端で、年老いた兵が私を睨んでいる。深い皺。片腕がない。
「お嬢様の税で、息子が出ていった」
静かな声だった。
「戻らなかった」
言葉が胸に落ちる。
私は一瞬だけ目を伏せた。
「責任は、私にあります」
老兵の目が揺れる。
「だが」
私は顔を上げる。
「横領は許さない。飢えも許さない。感情で判断もしない」
冷たいと自覚している。
それでも、これしか知らない。
老兵は吐き捨てるように言う。
「やっぱり悪役だな」
周囲に小さな笑いが広がる。
私は頷いた。
「ええ。そうでしょうね」
その瞬間、風が強く吹いた。空は鉛色。遠くで雷が鳴る。
冬が来る。
私は城館へ戻る途中、補佐官に言う。
「備蓄は」
「……倉庫に。だが、春までは持ちません」
「計算を」
執政室に戻り、再び帳簿を開く。
小麦在庫、三千袋。
領民人口、四千二百。
一人当たり配給量を半分にしても、冬を越えるには足りない。
私は静かに呟く。
「足りない」
補佐官が顔を覆う。
「配給を増やせば暴動は収まります」
「春に死にます」
沈黙。
私は椅子にもたれた。
王都では、私は数字で人を切った。
ここでは、数字で人を救うつもりだった。
だが数字は同じ顔をしている。
救う数と、捨てる数。
私は深く息を吸う。
「まず横領分の回収。教会監査。徴税再設計。冬までに黒字化する」
補佐官は呆然とする。
「不可能です」
「不可能かどうかは、計算してから言いなさい」
窓の外、領民たちがまだこちらを見ている。
敵意と疑念。
歓迎はない。
赦しもない。
私はゆっくりとペンを取る。
かつてと同じ動作。
だが今回は違う。
これは誰かに見せるための署名ではない。
逃げないための署名だ。
「嫌われることに慣れましょう」
自分に言い聞かせる。
ここからが、本当の因果だ。
雷鳴が近づく。
レヴァン領の冬が、始まろうとしていた。




