復讐者
ユランサスは、インバレラ帝国で生まれた。
父は交易のために訪れていたマンスドゥス人、母はインバル人の商家の娘だ。
彼は、混血児であった。
とある商談で父と母は出会った。
二人は愛し合い、母の腹にはユランサスが宿った。
そのことを知ってか知らずか、父は身ごもった母を置き去りにしてマンスドゥスに帰国し、その後二度と戻らなかった。
私生児を産んだ母は、実家から勘当された。
親戚にも友人にも見放され、どこにも行く宛がなかった。
『それでも、光耀教ならば。きっと弱者に手を差し伸べてくださるはず』
母は、隣町で光耀教の教会に身を寄せ、住み込みで司祭の仕事を助けることになった。
だが、この司祭が性根の腐った悪党だった。
財産も身寄りもない子連れの女を手篭めにして、妾として好き放題に扱った。
光耀教の聖職者は、位階によらず妻帯できる。
だが、弱みに付け込んで女をなぶるのは、明らかに教義に反していた。
しかし、それを訴えたところで、いったい誰が信じるだろう?
かたや、地域の信望厚い司祭。
かたや、父親のない混血児を連れた女だ。
人々がどちらの言い分を信じるかなど、目に見えていた。
母は、自分と子の生活のために耐えた。
幼年期のユランサスに、友人はいなかった。
インバル人の金の髪と、マンスドゥス人の褐色の肌。
明らかに異人の血を引く幼子は、奇異の目に晒され続けた。
だから、町へは行きたがらなかった。
時折聞こえる母の悲鳴に、耳を塞いで耐えながら、それでも教会の中に閉じこもっているしかなかった。
そんな彼でも、否応なしに、他人と接する機会があった。
光耀教の日曜礼拝。
近隣の人々が集まり、教会で祈る日があった。
この日は、性根の汚れた司祭も、上辺を優しく繕い直し、ユランサスら母子を助手として、光耀教徒たちに向かって、ありがたいお説教を語るのだ。
礼拝がひと通り済んだ後、人々は司祭に群がって、日頃の困りごとを話したり、くつろいだ雑談をしたりして、世間話に花を咲かせる。
そして、そんな大人たちに連れてこられた子どもたちは、親の井戸端会議が終わるまで、暇を持て余して過ごすのだ。
ユランサスにとっては、苦難の時間であった。
『あんたの母さん、莫迦なことして、家を追い出されたんだって、本当?』
意地の悪い笑みを浮かべながら、取り巻きの子どもたちを引き連れ、決まってユランサスをいじめたがる少女がいた。
この街で一番大きな交易商の娘だった。
『莫迦なこと、って、あんたのことでしょ?
そんな肌の子、見たことないわ。
目の色だって、作り物の安物硝子みたいじゃない』
『……ごめんなさい』
ユランサスは、どうにかやり過ごそうとして、蚊の鳴くような声で謝った。
彼女を不快にさせてしまうらしい、赤みがかった琥珀色の瞳も、地面に伏せて、目を合わさずに。
それでも、少女はなぜか苛立って、執拗にユランサスをいじめた。
『謝れば良いって思ってるんでしょ?
なによ、あたしが悪いみたいじゃない』
『……ごめんなさい。ぼく、そんなつもりじゃ……』
『じゃあ、何よ! ……変な色の目のくせに!
ちょ、ちょっとくらい、こっち向いたらどうなのよ!』
少女が、一歩詰め寄った。
ユランサスが、そのぶんだけ逃げた。
取り巻きの女の子たちは、それを見てクスクスと笑った。
いじめっ子の少女は、顔を赤くして怒った。
『……ふん、だ! この……弱虫!
あんたなんか、誰も仲良くしたがらないわ!
あ、あたし以外は誰も、あんたなんかに話しかけたりしないんだからね!』
(そんなこと……わざわざ言われなくたって、わかってる……!)
ユランサスは、目に涙を浮かべて、その場から逃げ去ろうとした。
少女は、それを許さなかった。
『あ、ちょっと、どこ行く気!』
とっさに服の袖を掴まれた。
互いの指が、ほんの少し触れた。
ユランサスは、びくりと怯んだ。
取り巻きの女の子たちは、『きゃあ』と顔を見合わせて、ユランサスを指して、嘲笑した。
いじめっ子の少女が、『違うわよ』とか『こいつが勝手に』とか、何か言い立てていた。
ユランサスは、必死に手を振り払って逃げた。
『ご、ごめんなさい。ごめんなさい!』
彼は、女の子たちから逃げた。
そして、薄暗い物置で、みじめさに唇を噛み、泣いた。
(どうして、こんな目にばかり遭うんだ。
ぼくが何か悪いことをしたの?
天の光の女神様は、正しく生きる人のことを、助けてくれるんじゃなかったの?
ぼくが……インバル人じゃないから、女神様は助けてくれないの……?)
ある日、ユランサスは母に呼ばれた。
そして、『これを着てごらん』と言われ、言われるがまま服を着替えた。
少女用の衣服だった。
母は、過剰なほど、ユランサスを褒めた。
『とても可愛いわ。とってもあなたに似合ってる』
そして、手を引き、背を押しながら、笑顔で彼を導いた。
『きっと、気に入ってくださるからね』
連れて行かれた先の部屋では、太った司祭が待っていた。
鼻の穴を醜く広げて、ユランサスを見て、喜んだ。
ユランサスは、怯えて振り向いた。
母は、笑顔で立っていた。
目には、すさんだ光があった。
『お母さん、あなたのために、ずーっと、頑張ってきたのよ。
あなたも、大きくなったでしょう。
もう、じゅうぶんよね?
お母さんのお仕事、代わってくれるわよね?
あなたも、お母さんのこと、愛してるわよね?』
母の痩せた手が、ユランサスの背を押した。
司祭のぶくぶく太った指が、ユランサスに伸びてきた。
少年は叫んだ。
ユランサスは必死に逃げた。
脱げた靴は放り出し、乱れた衣服もそのままに、必死に走って町まで逃げた。
普段、出歩くことがなかったから、道も方角もわからない。
とにかく、あの教会に背を向け、息を切らして死に物狂いで駆けた。
(嫌だ。助けて。お願い、誰か)
しかし、助けてくれる「誰か」の顔など、ひとつも思い浮かばない。
彼の狭い世界には、母と司祭しかいなかった。
その二人ともが、もう敵だった。
大人たちも、信用ならない。毎週の日曜礼拝で、司祭の本性に気づかずに談笑している大人たちなど。
そして、神にさえ、ユランサスは頼れないのだ。
(ぼくが悪いの?
生まれてきたから?
どうして、ぼくだけがこうなの?)
涙で視界が歪んだままで、ユランサスは走り続けた。
前もろくに見えていないせいで、どん、と何かにぶつかった。
ユランサスは、地面に倒れた。
息を切らして、それを見上げた。
いじめっ子の少女が、目を見開いて立っていた。
(どうして。よりによって、こんな時に)
ユランサスは、その場で凍りついた。
心が冷えていくのを感じた。
おしまいだ。
少女の手が、ユランサスに伸びてきた。
ここで捕まってしまうのだ。
ユランサスは、ぎゅっと目を閉じ、身をすくめた。
しかし、腕も肩も掴まれなかった。
頬に、何かの温度が触れた。
それは少女の指だった。
『ど、どうしたの、あんた。大丈夫……?』
少女はしゃがみ、ユランサスに目を合わせた。
そして、少年の着ている服と、その乱れにちらちらと目をやり、いじめてくる時とは違う声で、ユランサスにどぎまぎとささやいた。
『何か……あったの?
その、まさか、ひどいことされそうになったの?』
ユランサスは、呆然と少女を見つめた。
彼が、瞳の色を隠さず、真正面から彼女を見たのは、この時が初めてだった。
少女は、頬をじわじわ染めて、もじもじしながら、小声で言った。
『あの……な、何があったか、知らないけど……。
困ってるなら、あたし、その……』
ユランサスは、急に腑に落ちた。
(ああ。
この人、ぼくが好きなんだ)
今まで彼女から受けた仕打ちが、パズルのようにぴたりと組み合わさった。
どす黒い嫌悪が胸を染めた。
少女に対する無数の罵倒が、嵐のように頭の中を駆け巡った。
その黒い嵐の中心に、静かな思いがぽつんと生まれた。
(利用してやろう。この女を)
(誰も助けてくれないのだから)
(自分の力で、助かるしかない)
(周りを使って。どんなことをしても)
(こいつは、きっと操れる……)
ユランサスは、おずおずと少女の手に触れた。
少女は『えっ』と肩を跳ねさせて、わずかに後ろに身を引いた。
ユランサスは、逃さず詰め寄り、両手で彼女の手を握った。
そして、弱々しく見えるように、声を震わせて、途切れ途切れに訴えた。
『ぼく……、ぼく、もう帰れないんです』
『え、あ、……あんたの家って、教会よね』
ユランサスは、うなずいた。
そして、静かにうつむいた。
『もう帰れない。帰りたくない。
……でも、きっと、誰も信じてくれない。
ぼくなんかの……。混血の、変な子どもの言うことなんか……』
ユランサスは、ぎゅっと目を閉じた。
少女の反応を予想しながら。
『あ……あたしは、信じるよ!』
少女は、必死に言い募った。
『あたしだけは、あんたを信じる……!
大人の言うことよりも、あんたの言うことのほうを信じてあげるから……!』
かかった。
ユランサスは、驚いたようにはっと顔を上げ、目を大きく見開いた。
自分の瞳が、少女にはっきり見えるように。
彼女はきっと、この目の色が好きだから。
『本当に……? 助けてくれるの?
大人たちにも、誰にもぼくのこと言わない?』
『う、うん。あたし、あんたを助ける……!
誰にも……誰にも秘密にする!
ね、あの、あたし、あんたのために、何をしてあげればいいの……?』
『……ありがとう!』
ユランサスは、少女に抱きついた。
ぎゅっと、固く抱きすくめた。
少女の首筋が赤く染まるのを見てから、その耳元でささやいた。
『……ぼくを、どこかに隠してください。
大人たちに見つからない場所に。
……どこか、知らないかな?』
少女は、ユランサスの背におずおずと手を回し、つっかえつっかえ、こう答えた。
『あ、ある……。うちの、船の倉庫。
誰も来ないから、あそこなら……』
船。港。
そこならば、きっと。
ユランサスは、光の消えた闇の中に、希望が灯ったことを知った。
じりりと焦げる、赤い炎が。
そして、少女に優しい声でささやいて、そこに案内してくれるよう頼んだ。
そうしてユランサスはマンスドゥス王国へ渡り、聖炎教に保護された。
彼は、聖炎教を知った。
この国では、聖職者が政治に密接に関わる。
特に『導師』は、教義の解釈を司り、法や政策を左右することさえ可能な、国の要であった。
ユランサスは、その座を得るために、あらゆる手段を駆使した。
敵対者たちの弱みを密かに握り、時にちらつかせ、時には暴いた。反対派に異端の疑惑をかけ、何人もの政敵を失脚させた。
一方で、若年の者や地方の者には、過剰に寛容に振る舞った。彼らの自尊心をくすぐって、自身の信奉者に仕立て上げた。
貧しい孤児を喜捨で救った。悪しき官吏の不正を暴いた。大衆からの支持は、わかりやすい演出で勝ち得た。
王宮の侍女に甘くささやき、独自の情報網を作り上げた。王族からの信頼は、評判を重ねて地道に育てた。
こうしてユランサスは、聖炎教の中枢に食い込み、国内で指折りの権力を持つ『導師』の座を手に入れた。
彼の見出した希望の炎は、悪意と欲望を糧にして、今も胸に燃え盛り続ける。
そして、この炎で過去を焼き尽くし、あの日々の復讐を果たすために、ユランサスはインバレラ帝国に舞い戻ってきたのだった。
■次話:『垂らした釣り針』




