ただいま
イスオドスの王都で、ノーラは待ち続けていた。
ガーズィム将軍は、イスオドスにつくや、残存兵力をすばやくまとめ上げ、セドルナの港へ進発した。
その際、インバレラ帝国現地で雇われた傭兵や下働きなどは、すべて解雇・解放された。
ノーラも、自由の身となった。
マンスドゥス人たちが作らせた新街は、怒り狂う光耀教徒たちによって、打ち壊されつつある。
街は、今では瓦礫の山だ。
そこで暮らす人々は、もういない。
もう、あれから何日も経った。
イスオドスにも、いろいろな噂が流れてくる。
聖騎士エルザが戦死して、列聖されたとか。
ユランサスの屍が、悪魔として、カスラージュで晒されているとか。
どれも、過激で不確かな噂だ。
しかし、人狼の剣士がどうなったという噂は、ひとつも聞かなかった。
だから、ノーラは信じて待った。
イスオドスの下町の食堂で雇ってもらい、慣れない炊事や給仕をした。
手際の悪さを叱られたり、他の女給に笑われもしたが、今はもうくじけなかった。
ノーラは懸命に働いた。
料理の腕も、少しは上がった。
そして、仕事のない時間は、新街の跡地へ行って、毎日北のほうを見つめていた。
日も登らぬ早朝に、ノーラは予感がして目覚めた。
身支度をして、家を出る。
足は、自然と新街に向かった。
青みを帯びた薄闇の中で、瓦礫の街は冷えていた。
ノーラは、一人で歩いた。
何度も歩いた道のりを。
ふと、顔を上げると、蝶がいた。
ひらひらと、舞い踊るように飛んでいた。
何気ない会話を思い出した。
『ノラ、見て。蝶が飛んでる』
『本当ね。羽が灰色だわ。シグにそっくり』
『おれ、蝶なの?』
『似てるわよ。シグが剣のお稽古するとき、くるくる回るでしょう。そっくりよ』
彼が、何と答えたのかを、思い出した。
『そうでもない』。
大真面目な顔で。
重々しい声で。
ノーラの顔が、くしゃりとゆがんだ。
その時だった。
ガラン、と、物音がした。
はっとして、顔を向けた。
ノーラは、音のした方に駆けた。
彼ほど、正確にはわからない。けれども、手当り次第に辺りを探した。
いた。
シグがいた。
打ち壊された建物の影に。
ノーラは、叫ぶまいと息を呑んだ。
そして、急いで駆け寄って、小声で呼んだ。
「……シグ!」
「……ノラ……」
シグはボロボロだった。
いやなにおいがしていた。
右目と右足が血まみれで腐っていた。
乾いた黒い血が、全身にこびりついていた。
それでも、生きていた。
ノーラは、構わず抱きしめた。
「シグ……!」
「……ただいま、ノラ……」
「おかえり……、おかえりなさい……」
シグは、かすれた声で、ぽつぽつと話した。
城塞の戦いで、足を怪我したのだそうだ。
すばやく移動できなかったから、聖炎軍が使った道は使わず、見つからないように山中を逃げた。そこで、山賊や落人狩りの村人たちに襲われて、戦ったのだそうだ。
だから、遅くなってしまったと。
シグは、こうも言った。
「ススロに行けって。ユラが言ってた。
ノラと会えたら、ススロに逃げなさいって」
なぜススロなのかを、ノーラは理解した。
あの国には、異人街がある。
人狼族のシグでも、身を隠しやすいだろう。
「そうね。確かに、それがいいわね」
「……それから……」
「うん……?」
「ユラが、後から来るって。
ススロで会いましょうって、言ってた。
おれに、先に行ってくださいって」
ノーラは、その意味をすぐに悟った。
そして、ぎゅっと唇を噛んだ。
彼は、最後の最後で、シグを手放したのだ。
(……ありがとう。
シグを、死なせずに帰してくれて……)
ノーラは、苦労して涙を呑み込んだ。
そして、「さあ、シグ!」と、明るい声を作った。
「まずは、私の家に行きましょう。
やることは、たくさんあるわよ。
手当をして、ご飯を食べて、お風呂に入らなきゃ。
お昼寝だってしなくちゃね」
「……うん。ご飯食べる。
ノラ、お家に連れてって」
ノーラの肩を借りて、シグは何とか立った。
二人は、ゆっくりと歩き出した。
歩きながら、ノーラは言った。
「シグが元気になったら、お引越しの準備もしましょうね。
……そうだ。ススロで暮らすなら、名前も変えたほうがいいかも知れないわ」
「名前?」
「そうよ。どんな名前がいいかしらね……」
「……自分で、決めてもいい?」
「え?」
ノーラは、シグの顔をのぞき込んだ。
シグは、一つだけになった目で、ノーラを真剣に見つめた。
「おれの名前、おれが決めたい。
小波でも、真見征春でも、シグでもない、おれの新しい名前。
……いい、ノラ?」
ノーラは笑って「もちろんよ」とうなずいた。
「あなたのことは、何だって、あなたが自分で決めていいの。……どんな名前にするの?」
シグは少しうつむいて、ノーラの肩に頭を預けた。
しばらくして、言った。
「……むずかしい。ゆっくり考える」
二人は、笑った。
笑いあった。
東の果てに、新しい太陽が生まれていた。
(第五章:灰は灰に 完)
■次話:『ある晴れた春の昼下がり』




