地獄の撤退戦
「何だ……これは……!」
ユランサスは、愕然と戦場を見下ろした。
眼下には、忌まわしい白旗が、無数に掲げられていた。
南部諸国の兵どもだ。
恥知らずどもが、裏切り始めたのだ。
敬虔なマンスドゥス人の正規兵たちは、背後からの奇襲を受けて、ばたばたと倒れた。
動揺した彼らを、正面からは北部連合軍も襲う。
黒い鎧の屍が、次々と積み上がった。
こぼれんばかりに目を見開くユランサスの隣で、総司令官のガーズィム将軍は、周囲の側近たちにすばやく命じた。
「撤退だ。軍を南に向けろ。
部隊を分割し、別々の道を用いろ。
騎兵たちは先に行って、イスオドスまで退け。
歩兵と負傷兵は、俺が率いる」
「はっ!」
側近たちは、ただちに各現場へ散った。
退却の太鼓が叩かれ始める。
ユランサスは、ガーズィムに詰め寄った。
「逃げるのですか……!
インバル人どもに背を向けて!」
「それしかあるまい。状況を見ろ。
開戦時は、三万、対、三万だった。
今は、一万、対、五万だ。
しかも挟撃され、動揺している。これでは勝てん」
「ぐっ……!
日和見主義の南部の豚ども……!」
「退くぞ、ユランサス。お前は俺と来い」
ユランサスは、怒りに震えた。しかし、こうなってしまえばどうしようもない。
彼は、苦労して、屈辱を呑んだ。
そして馬を返し、ガーズィムの背を追った。
聖炎軍は、カスラージュ平原から撤退した。
それは、インバレラ帝国軍による、追討戦の幕開けであった。
『憎き異教徒の軍に、ついに勝利した』。
その喜びは、インバル人たちを興奮させ、血に飢えた猟犬へと変えた。
途中で裏切った南部諸国の兵たちも、これまでの失点を取り戻そうと、躍起になってマンスドゥス人たちを追い立てた。
強者と弱者は、入れ替わった。
ガーズィム将軍は、駱駝騎兵たちを分散させて、先に逃がした。
そして、足の遅い歩兵たちは、自ら率いた。
彼は、交戦と撤退を波のように繰り返しながら、遅滞戦術を繰り広げた。
この戦い方は一定の戦果を挙げた。
だが、死傷者数や疲労は、かさむばかりだ。
部隊の足は、徐々に遅くなっていった。
かつてガーズィムがユランサスに指摘していたとおり、道中にまともな拠点を構築できなかったことも、彼らの撤退を難しくした。
聖炎軍は、クレグの焼け跡まで引き返した。
満身創痍だった。
ガーズィムは、一晩限りの休息を兵たちに与えた。
そして、ユランサスを呼び出した。
場所は、城塞の司令室だ。
椅子に座り、飲み物を勧める。
塩と干し肉を溶いただけの汁物だ。
それだけでも、今は贅沢だった。
互いに疲れきっていた。
渇いた唇を湿らせ、ガーズィムは静かに切り出した。
「……これからのことだ」
ユランサスは、黙って視線で促した。
「大敗だ。
今となっては、どの拠点も安全ではない。
南部の港は閉じられる。
我々は、退路を失った」
インバレラ帝国内の、全拠点の放棄。
マンスドゥス王国への、即時帰還。
それらを意味する言葉を、ユランサスは、目を伏せて聞いていた。
ガーズィムは、続けた。
「追討軍は速い。
対して、我が軍は疲弊している。
イスオドスで、非戦闘員も回収しなければならん」
「……つまり、ここで足止めが必要だと」
ガーズィムは、うなずく代わりに、黙って見つめた。
決死殿軍。
もはや、それしかなかった。
ユランサスも、彼に視線を返した。
落ち着き払って、静かだった。
その瞳に、狂気は無かった。
ガーズィムの知るユランサスだった。
無言のうちに、分担が決まった。
撤退する本隊を指揮する能力があるのは、ガーズィムだ。
そして、死にゆく兵たちの魂を慰める能力があるのは、ユランサスのほうだった。
ユランサスは、ほほえんだ。
「……何日、必要ですか?」
ガーズィムは、声を絞り出した。
「三日は保たせてほしい。
四日保てば、なお良い。
五日保てば、奇跡だ。
それだけで本隊は救われる」
くすり、と、笑い声がした。
「お任せを。奇跡は、私の専門ですよ」
ガーズィムは、声なき声で「任せる」と言った。
その後、二人は何も話さなかった。
ただ、熱い湯を飲み干した。
そして、空の器を打ち合わせた。
かん、と、鈍い音が鳴った。
翌朝。
ガーズィム将軍は、すべての兵を呼び集めて、今後の方針を説明した。
本隊は、このままイスオドスへ南下。
先行した騎兵たちと合流したのち、物資を整え、人員をまとめて、セドルナ王国の港を目指す。
そして、船に乗り、マンスドゥス王国へ帰還する。
ノーラも、その説明を聞いていた。
シグにわかるよう、通訳しながら。
シグは、声をひそめて、ノーラに尋ねた。
「おれも、船に乗るの?
乗ったことない」
「……たぶん、乗らないわ。
あなたは、マンスドゥス人じゃないもの。
イスオドスに着いたら、そこで解散だと思うわ」
こそこそ話している間にも、将軍の説明は続く。
「……この転進を成功させるために、特別部隊を編成する。
任務は、ここクレグ城塞において、防衛線を構築し、我らをおびやかす追討軍を足止めすること。
志願する者は、前へ!」
「……ノラ、何て言ってる?」
ノーラは、訳しながら、将軍の言葉の意味に気づき、顔をこわばらせた。
「……ここに残って、戦う人を募集しているわ。
たぶん……逃げずに死ぬまで戦う人を……」
ノーラは、シグの袖をぎゅっと掴んだ。
彼が、間違って志願しないように。
『特別部隊』の意味に、兵たちも気づいた。
ざわめきが広がっている。
そんな中、ガーズィム将軍の隣に、ユランサスが進み出るのが見えた。
彼は、優しくほほえんだ。
そして、静かに口を開いた。
「かつて、我らが戴く天には、二つの太陽がありました。
一つは、男神が司る、炎の太陽。
一つは、女神が司る、光の太陽です」
兵たちのざわめきが、少し静まった。
代わりに、戸惑いが広がった。
ユランサスが語り始めたのは、聖炎教の創世神話だった。
「あるとき、双子の太陽神のうち、光の妹神が、炎の兄神を天空から追い落とし、地底に封じてしまいました。
それ以来、炎の男神は、大地の底で眠っています。
死者の魂を温めながら。
いつか、天へ帰るときのため、力を蓄えて」
落ち着いた語り口に、みな、つい聞き入った。
ユランサスは、とん、と杖をついた。
そして、慈悲深い笑みを見せた。
「我らが戴く炎の神は、死者の霊魂の護り手です。
そして、理不尽に対して怒り、立ち向かう者には、力を与えてくださいます。
恐れることはありません。
炎の神が、ご覧くださいます。
力と、死後の安寧を、約束してくださいます。
ともに戦いましょう。
……特別部隊には、私も参加します」
息を呑む音が、幾重にも響いた。
兵たちは一斉にざわめいた。
ノーラは、両手で口を押さえた。
(あの導師が……決死隊に……?
利己的な男だと思っていた……)
「……ノラ。ユラは何て言ってる?」
シグに服の端を引かれ、ノーラは何とか答えた。
「……あの人も……ここに、残るって」
シグは、目を丸くした。
将軍とユランサスの前に、黒い鎧の志願者たちが、一人、二人と、徐々に集まりつつあった。
説明と募集は終わった。
志願者の数は、二百名にのぼった。
死ぬために残る数と思うと、あまりにも重い。
しかし、五万の追討軍に立ち向かうには、あまりにも少ない。
ガーズィム将軍は、その選ばれし二百名をユランサスに預け、本隊をここから退却させるための指示を飛ばし始めた。
城塞内は、にわかに騒がしくなった。
ノーラは、ほっと胸を押さえていた。
決死隊の志願者たちは、正規兵に限られていた。
傭兵たちは、誰も志願しなかった。
そして、指揮官たちはそれを認めた。
(傭兵は、命を惜しみ、金で動く……。
初めから、対象外だったのね。
良かった……)
傭兵はこれまで、何かと最前線に送られていた。
ノーラは、シグが役目を強いられず、安心していた。
しかし。
「ノラ。一緒に来て」
シグに腕を引かれて、ついていった。
そこは、ひと気のない、小さな部屋だった。
ユランサスが待っていた。
ノーラの心臓が、どくりと音を立てた。
「……彼女も連れてきたのですか?
シグ、私はあなたを呼んだのですが」
「ユラは、大事な話って言った。
大事な話は、ノラと聞く。
難しいかもしれないから」
「……そうですか。まあ、いいでしょう
シグ。あなたに、お願いがあります」
聞きたくない。
ノーラは、耳を塞ぎたくなった。
指先が冷たくなるのを感じた。
果たして、ユランサスは、シグに告げた。
「あなたも、クレグに残ってください。
最後まで、私を手伝ってくれますね?」
ノーラの目の前が、真っ暗になった。
■次話:『わからない』




