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人狼シグはわからない  作者: たっこ
第五章:灰は灰に
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地獄の撤退戦

「何だ……これは……!」


 ユランサスは、愕然と戦場を見下ろした。

 眼下には、忌まわしい白旗が、無数に掲げられていた。


 南部諸国の兵どもだ。

 恥知らずどもが、裏切り始めたのだ。


 敬虔なマンスドゥス人の正規兵たちは、背後からの奇襲を受けて、ばたばたと倒れた。

 動揺した彼らを、正面からは北部連合軍も襲う。

 黒い鎧の屍が、次々と積み上がった。


 こぼれんばかりに目を見開くユランサスの隣で、総司令官のガーズィム将軍は、周囲の側近たちにすばやく命じた。


「撤退だ。軍を南に向けろ。

 部隊を分割し、別々の道を用いろ。

 騎兵たちは先に行って、イスオドスまで退け。

 歩兵と負傷兵は、俺が率いる」


「はっ!」


 側近たちは、ただちに各現場へ散った。

 退却の太鼓が叩かれ始める。


 ユランサスは、ガーズィムに詰め寄った。


「逃げるのですか……!

 インバル人どもに背を向けて!」


「それしかあるまい。状況を見ろ。

 開戦時は、三万、対、三万だった。

 今は、一万、対、五万だ。

 しかも挟撃され、動揺している。これでは勝てん」


「ぐっ……!

 日和見主義の南部の豚ども……!」


「退くぞ、ユランサス。お前は俺と来い」


 ユランサスは、怒りに震えた。しかし、こうなってしまえばどうしようもない。

 彼は、苦労して、屈辱を呑んだ。

 そして馬を返し、ガーズィムの背を追った。





 聖炎軍は、カスラージュ平原から撤退した。

 それは、インバレラ帝国軍による、追討戦の幕開けであった。


 『憎き異教徒の軍に、ついに勝利した』。

 その喜びは、インバル人たちを興奮させ、血に飢えた猟犬へと変えた。

 途中で裏切った南部諸国の兵たちも、これまでの失点を取り戻そうと、躍起になってマンスドゥス人たちを追い立てた。

 強者と弱者は、入れ替わった。


 ガーズィム将軍は、(らく)()騎兵たちを分散させて、先に逃がした。

 そして、足の遅い歩兵たちは、自ら率いた。


 彼は、交戦と撤退を波のように繰り返しながら、遅滞戦術を繰り広げた。

 この戦い方は一定の戦果を挙げた。

 だが、死傷者数や疲労は、かさむばかりだ。

 部隊の足は、徐々に遅くなっていった。


 かつてガーズィムがユランサスに指摘していたとおり、道中にまともな拠点を構築できなかったことも、彼らの撤退を難しくした。





 聖炎軍は、クレグの焼け跡まで引き返した。

 満身創痍だった。


 ガーズィムは、一晩限りの休息を兵たちに与えた。

 そして、ユランサスを呼び出した。


 場所は、城塞の司令室だ。

 椅子に座り、飲み物を勧める。

 塩と干し肉を溶いただけの汁物だ。

 それだけでも、今は贅沢だった。


 互いに疲れきっていた。

 渇いた唇を湿らせ、ガーズィムは静かに切り出した。


「……これからのことだ」


 ユランサスは、黙って視線で促した。


「大敗だ。

 今となっては、どの拠点も安全ではない。

 南部の港は閉じられる。

 我々は、退路を失った」


 インバレラ帝国内の、全拠点の放棄。

 マンスドゥス王国への、即時帰還。

 それらを意味する言葉を、ユランサスは、目を伏せて聞いていた。


 ガーズィムは、続けた。


「追討軍は速い。

 対して、我が軍は疲弊している。

 イスオドスで、非戦闘員も回収しなければならん」


「……つまり、ここで足止めが必要だと」


 ガーズィムは、うなずく代わりに、黙って見つめた。


 決死殿軍。

 もはや、それしかなかった。


 ユランサスも、彼に視線を返した。

 落ち着き払って、静かだった。

 その瞳に、狂気は無かった。

 ガーズィムの知るユランサスだった。


 無言のうちに、分担が決まった。


 撤退する本隊を指揮する能力があるのは、ガーズィムだ。

 そして、死にゆく兵たちの魂を慰める能力があるのは、ユランサスのほうだった。


 ユランサスは、ほほえんだ。


「……何日、必要ですか?」


 ガーズィムは、声を絞り出した。


「三日は保たせてほしい。

 四日保てば、なお良い。

 五日保てば、奇跡だ。

 それだけで本隊は救われる」


 くすり、と、笑い声がした。


「お任せを。奇跡は、私の専門ですよ」


 ガーズィムは、声なき声で「任せる」と言った。


 その後、二人は何も話さなかった。

 ただ、熱い湯を飲み干した。

 そして、空の器を打ち合わせた。


 かん、と、鈍い音が鳴った。





 翌朝。

 ガーズィム将軍は、すべての兵を呼び集めて、今後の方針を説明した。


 本隊は、このままイスオドスへ南下。

 先行した騎兵たちと合流したのち、物資を整え、人員をまとめて、セドルナ王国の港を目指す。

 そして、船に乗り、マンスドゥス王国へ帰還する。


 ノーラも、その説明を聞いていた。

 シグにわかるよう、通訳しながら。


 シグは、声をひそめて、ノーラに尋ねた。


「おれも、船に乗るの?

 乗ったことない」


「……たぶん、乗らないわ。

 あなたは、マンスドゥス人じゃないもの。

 イスオドスに着いたら、そこで解散だと思うわ」


 こそこそ話している間にも、将軍の説明は続く。


「……この転進を成功させるために、特別部隊を編成する。

 任務は、ここクレグ城塞において、防衛線を構築し、我らをおびやかす追討軍を足止めすること。

 志願する者は、前へ!」


「……ノラ、何て言ってる?」


 ノーラは、訳しながら、将軍の言葉の意味に気づき、顔をこわばらせた。


「……ここに残って、戦う人を募集しているわ。

 たぶん……逃げずに死ぬまで戦う人を……」


 ノーラは、シグの袖をぎゅっと掴んだ。

 彼が、間違って志願しないように。


 『特別部隊』の意味に、兵たちも気づいた。

 ざわめきが広がっている。

 そんな中、ガーズィム将軍の隣に、ユランサスが進み出るのが見えた。


 彼は、優しくほほえんだ。

 そして、静かに口を開いた。


「かつて、我らが戴く天には、二つの太陽がありました。

 一つは、男神が司る、炎の太陽。

 一つは、女神が司る、光の太陽です」


 兵たちのざわめきが、少し静まった。

 代わりに、戸惑いが広がった。

 ユランサスが語り始めたのは、聖炎教の創世神話だった。


「あるとき、双子の太陽神のうち、光の妹神が、炎の兄神を天空から追い落とし、地底に封じてしまいました。

 それ以来、炎の男神は、大地の底で眠っています。

 死者の魂を温めながら。

 いつか、天へ帰るときのため、力を蓄えて」


 落ち着いた語り口に、みな、つい聞き入った。

 ユランサスは、とん、と杖をついた。

 そして、慈悲深い笑みを見せた。


「我らが戴く炎の神は、死者の霊魂の護り手です。

 そして、理不尽に対して怒り、立ち向かう者には、力を与えてくださいます。

 恐れることはありません。

 炎の神が、ご覧くださいます。

 力と、死後の安寧を、約束してくださいます。

 ともに戦いましょう。

 ……特別部隊には、私も参加します」


 息を呑む音が、幾重にも響いた。

 兵たちは一斉にざわめいた。


 ノーラは、両手で口を押さえた。


(あの導師が……決死隊に……?

 利己的な男だと思っていた……)


「……ノラ。ユラは何て言ってる?」


 シグに服の端を引かれ、ノーラは何とか答えた。


「……あの人も……ここに、残るって」


 シグは、目を丸くした。


 将軍とユランサスの前に、黒い鎧の志願者たちが、一人、二人と、徐々に集まりつつあった。





 説明と募集は終わった。

 志願者の数は、二百名にのぼった。


 死ぬために残る数と思うと、あまりにも重い。

 しかし、五万の追討軍に立ち向かうには、あまりにも少ない。


 ガーズィム将軍は、その選ばれし二百名をユランサスに預け、本隊をここから退却させるための指示を飛ばし始めた。

 城塞内は、にわかに騒がしくなった。


 ノーラは、ほっと胸を押さえていた。


 決死隊の志願者たちは、正規兵に限られていた。

 傭兵たちは、誰も志願しなかった。

 そして、指揮官たちはそれを認めた。


(傭兵は、命を惜しみ、金で動く……。

 初めから、対象外だったのね。

 良かった……)


 傭兵はこれまで、何かと最前線に送られていた。

 ノーラは、シグが役目を強いられず、安心していた。


 しかし。


「ノラ。一緒に来て」


 シグに腕を引かれて、ついていった。

 そこは、ひと気のない、小さな部屋だった。

 ユランサスが待っていた。


 ノーラの心臓が、どくりと音を立てた。


「……彼女も連れてきたのですか?

 シグ、私はあなたを呼んだのですが」


「ユラは、大事な話って言った。

 大事な話は、ノラと聞く。

 難しいかもしれないから」


「……そうですか。まあ、いいでしょう

 シグ。あなたに、お願いがあります」


 聞きたくない。

 ノーラは、耳を塞ぎたくなった。

 指先が冷たくなるのを感じた。


 果たして、ユランサスは、シグに告げた。


「あなたも、クレグに残ってください。

 最後まで、私を手伝ってくれますね?」


 ノーラの目の前が、真っ暗になった。


■次話:『わからない』

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