大失策
「……どうしてくれる!」
ガーズィム将軍は、珍しく、感情のまま怒鳴った。
相手は導師ユランサス。
兵たちの耳目を避けた、薄暗い密室だ。
怒りの理由は、無論、クレグの火計だ。
勝ちはした。
しかし、大局的には、大失策だ。
ガーズィムは、ユランサスに詰め寄った。
そして、声を荒らげた。
「なぜ、民間人まで皆殺しにした。
この残虐なやり方が、何を引き起こすか。
北部は、覚悟を決め、団結する。
南部は、我らから離れていく。
……民心を得るのは、お前の役割のはずだろう!」
ユランサスは、椅子に腰掛け、静かに目を伏せている。その反応の薄さに、ガーズィムの苛立ちは弥増した。
「……それだけではないぞ。
クレグには、もう物も人も無い。
拠点にできない。
北へ向かう補給線が死んだ。
これ以上の北上は、自殺行為だ……!」
「……では、どうするというのです?」
「イスオドスまで退く。
一度、立て直すべき局面だ」
ガーズィムの脳裏には、すでに退却後の段取りが描けていた。
イスオドスまでなら、守りきれる。
あの国の支配は、もう盤石だ。
南部諸国には急ぎ使者を送り、金や利権で繋ぎ止める。
それでもいくらかは減るだろう。補充のための人員を、本国から呼び寄せる必要がある。
そうして初めて、再び北へ進む力が整うのだ。
ユランサスは、静かに笑った。不気味なほど穏やかな笑顔だった。
「将軍のお考えは、よくわかりました。
あなたのおっしゃることは正しい。
お怒りになるのも、もっともです」
「……ならば、すぐに退却の用意を……」
「立て直せますか?」
ユランサスの目が、ガーズィムを射抜いた。
ガーズィムは、思わずひるんだ。
「な……」
「時間さえ掛ければ、立て直せるのですか?
本当に?
クレグの噂が北部全体に広まるまで、待ちますか?
南部諸国をなだめるために、どれだけの譲歩を支払うおつもりですか?」
ユランサスは、立ち上がった。
そして、ゆっくり、部屋の中を歩き始めた。
「北部は団結する。
そうですね。
『降伏しても殺される』のですから。
もう、見てみぬふりはしないでしょう。
同盟を結び、迎撃の用意を丁寧に整えるでしょう。
彼らに、時間を与えてしまえば」
かつり、かつり、靴の音が響く。
「南部は離反する。
そうですね。
『何をしでかすかわからない』のですから。
我々を恐ろしく思うでしょう。
ですが、ここで退き、彼らをなだめれば?
『交渉の余地あり』と侮られ、付け入られます」
ユランサスは、くるりと振り向いた。
「……それにね、将軍。
あなたは、このインバレラ帝国のことだけを、敵と考えておいでですか?」
「……何だと?」
「我らがマンスドゥス王国。
本国で待つ、強欲な家臣団。
彼らは、あなたの功績を奪う機会を狙っていますよ」
ガーズィムは、ごくりと唾を飲んだ。
「当ててみましょうか。
今、あなたが退けば、本国でどのような意見が出るかを。
『手際が悪い』。『時間と資源を浪費している』。『我らのほうが、あの地を治めるにふさわしい』。
……あなたと、あなたの大切な兵が、血と汗によって勝ち得た土地を、本国のハイエナどもは、舌先だけで掠め取るでしょうね」
ガーズィムはうつむき、歯を食いしばった。
確かに、そうだ。
油断ならない連中だ。
本国が干渉してくる可能性は高い。
床をにらんで思い悩む彼は、ユランサスがすぐ目の前まで近づいていることに、気がつかなかった。
声が、ささやいた。
「ですが……今なら?」
とん、と。
ガーズィムの胸の中心を、ユランサスの指が突いた。
ガーズィムは、思わず後ずさりした。
ごく弱い力だったのに。
ユランサスは、ガーズィムの顔を覗き込んだ。
琥珀色の瞳が、やけに赤く見えた。
「北部に同盟の機会を与えず。
南部に我らを恐れさせたまま。
本国が事態を知る前に。
……勝利を、得ることができたなら?」
「……無茶だ。
補給も、休養もなく、今すぐには……」
「将軍。
あなたは、私を叱責するために、わざわざ人目を避けましたね。
何のために?」
彼の口の端が吊り上がる。
ガーズィムは、答えられない。
「わかっていたからでしょう?
兵たちの心が、今や私にあると。
だから、私を公に糾弾できずにいるのでしょう?」
拳を握った。図星だった。
兵たちは、勝利に熱狂している。
そんな状況で、部下たちの前でユランサスを詰問すれば、孤立するのはガーズィムだ。
ユランサスは、笑顔で言った。
「炎の神の力を示し、苦戦した敵をついに滅ぼした。
正規兵たちの士気は、最高潮です。
将軍。ただちに北へ征きましょう」
彼は、身を引き、一歩下がった。
つられて、ガーズィムも顔を上げた。
ユランサスは、その両腕を大きく広げて、慈悲深く見えるほど穏やかに笑んだ。
「恐れることなどありません。
神は、あなたと共にあります」
こいつは毒蛇だ、と、ガーズィムは思った。
だが、もう抗うことができない。
ガーズィムが選べる道は、一つしか残されていなかった。




