耳あるものは聞け
ノーラは、汗だくで息をしていた。
もう何日も、へとへとだった。
聖炎軍は、クレグ城塞を攻めている。
何日も。
シグとノーラは、その最前線にいた。
当然のことだが、高く分厚い石の壁は、槍や弓矢では壊せない。
聖炎軍は、梯子をかけたり、櫓を組んだりすることで、壁を乗り越えようとする。
当然、敵もそれを放置しない。梯子を押し戻して倒したり、櫓を建設する兵士たちに石や煮え湯を浴びせたりしてくる。
聖炎軍は、盾を使い、次々と梯子を運んで、絶えず押し寄せ続ける。
その攻勢を続けるためには、とんでもない量の材料が要るのだ。
木材、石材、鉄に、縄。
いくらあっても足りないほどだ。
それを運ぶために、傭兵たちは駆り出された。
シグは、とても優れた剣士だが、さすがにクレグの城塞を、槍や煮え湯をかわしながら突破することはできない。
命がけで資材を運んだり、盾を押したりしていた。
同じ現場で戦っている傭兵たちが、こう言っていた。
「ガーズィム将軍が作らせている専用の兵器が、もうじき完成するらしいぜ」
「ああ、聞いた。あと二、三日の辛抱だな」
「早くしてくれ。この門前地獄から、さっさとおさらばしたいもんだ」
会話に参加する気はないが、ノーラもまったく同感だった。
「おい、そこの! 暇なら手伝え!
盾が壊れた、一つ持ってこい!」
どん、と肩をどつかれて、ノーラは思わずよろめいた。
相手に悪意があってのことではない。ただ、誰にも余裕がないのだ。
現に、通訳のノーラにまで、仕事を頼むくらいだ。
ノーラは、後方へ走って、言われた盾を取りに行った。
城壁の上から降ってくる投石や煮え湯を防ぐ盾は、最前線の兵たちにとって、命綱だ。表面に革が張ってあり、とても重たい。
踏ん張ってみたが、とても持ち上がらない。
「ノラ。貸して。おれが運ぶ」
シグだった。
横からさっと手を出すと、ノーラが苦戦していた盾を、軽々と持ち上げた。
「あ、ありがとう、ごめんね、シグ。
あなた、本当に力持ちね」
「うん。これ、前?」
「ええ、お願い……」
言いさして、ふと、ノーラは気づいた。
真横で並ぶと、よくわかる。
シグの背丈が、伸びている。
出会ったばかりの頃は、ノーラよりわずかに低かった。今では、もう追い越されそうだ。
(……この子、大きくなったわ。
本当に、大きくなったのね)
視線に気づいて、シグが振り向いた。
ノーラは、自然にほほえんだ。
「ありがとう、シグ。頼りになるわ」
シグは立ち止まり、ちょっと目を開いた。
そして、何か言いたげに、口を動かした。
そんな中、突然、大音声が響いた。
「……聞くがよいッ!
心悪しき異国の兵士たちよッ!
我が旗を見よ! そして、我が言葉を聞け!」
城壁の上に、真っ白な旗がひらめいた。
その旗を持っているのは、白銀の鎧を着た騎士だ。
長い金髪が風に揺れている。
女性の騎士だ。
聖炎軍の兵たちは、「何だ、あれは」と、それを見上げた。傭兵たちも、つかの間、手を止めた。
盾を運んで戻ってきたシグが、ノーラのそばにすばやく寄ってきた。
「ノラ。あの人、何て言ってる。
おれに教えて」
「わかったわ」
ノーラは、女騎士が用いる難解なインバル語を、シグにわかるように訳しながら、自分もその演説に耳を傾けた。
女性は、光輪騎士団の聖騎士エルザと名乗った。
「偽りの教えに惑う者たちよ!
そなたらが崇める炎の男神の灯火など、水の一滴、吐息ひとつでかき消える、頼りない火種にすぎぬ!」
聖炎軍の陣に、ざわりと怒気が走った。
「母なる光の女神の御前にあっては、そなたらの戴く炎など、存在せぬも同然!
それでもなお吠え立てるのは、女神の威光を妬む、駄々っ子の叫びに等しい!」
ノーラは、淡々と訳す。
シグは、じっと聞いている。
「正々堂々と努力すれば、女神は誰にでも栄光を授ける!
だがそなたらは、怠惰と嫉妬に溺れ、汚い手段で他者から奪おうとする卑怯者!
恥を知れ、狂える炎の徒どもよ!」
聖炎軍の兵たちが、マンスドゥス語で一斉に怒鳴り返し始めた。
「そして……聞け、南部の裏切り者たちよ!
そなたらの罪は重い。だが、女神は慈悲深い。
悔い改める者には、必ず赦しを与えられるだろう!」
南部諸国の兵たちは、揃って顔を見合わせ、声をひそめてささやき始めた。
エルザは旗を高く掲げた。
「いまこそ目を覚ませ!
偽りの炎による狂気から逃れ、真なる光の理性のもとへ立ち返るのだ!
女神は、そなたらを待っておられる!」
旗が、これみよがしに大きく振られた。
白地に金。
女神を表す光耀十字に、黄金の真円。
信仰を守護する騎士団の旗だ。
シグは、静かにつぶやいた。
「ユラは、光の女神さまが悪者で、炎の男神さまが正しいって言ってた。
あの女の人は、光の女神さまが正しくて、炎の男神さまが悪者だって言った。
二人は反対のことを言ってる。
どうして、ノラ?」
ノーラは、悩みながら、こう答えた。
「人には、それぞれ、違った立場があるわ。
立場が違うと、物事の見え方が変わるの。
相手にとっての『善いこと』が、自分にとっての『悪いこと』になってしまうことがある。
……だから、自分で決めないといけないのよ。
二人のどちらが正しいのか、私には教えられない。
シグ。あなたの信じる正しさは、あなたが決めて」
「……わからない、けど、わかった。
おれ、考える。おれが決めるために」
同じ頃、エルザの演説を聞いていたユランサスは、激怒していた。
彼の母親は、光耀教の司祭に搾取された。
『正々堂々とした努力』とやらは、ユランサスたちを救わなかった。
あの女。聖騎士エルザ。
いかにも恵まれた育ちの、美しいインバル人。
(知ったような口を聞くな、雌豚がッ!)
忌まわしい過去が、あぶくのように脳裏に蘇る。
狂気があふれ、理性の仮面を激しく揺らす。
ユランサスは、ぶるぶる震える腕を、がしっと掴んで押さえた。
(……落ち着け、落ち着け、落ち着け!
私は、もう無力な子どもではない!
聖炎教の導師だぞ!
卑しい豚のわめき声などに、惑わされるな!)
そうとも、今やるべきことは、うろたえることではない。
自軍の兵の反応を見ろ。
心弱き者がいれば、諌め、なだめろ。
真なる神を思い出させて、奮い立たせるのだ。
ユランサスは、すばやく視線を巡らせた。
最も近いのは、ガーズィムの周囲に控える側近たちだ。
彼らは、怒号を上げる兵たちとは対照的に、冷静そのものだ。
「挑発に乗るな! 陣形を崩すな!」
「指示無く前進してはならぬ!」
軍人らしい短い指示が飛び交い、混乱を最小限に抑えようとしている。
問題はない。当然だ。
次に、マンスドゥスの正規兵たち。
通訳たちが叫ぶたび、彼らは顔を真っ赤にして、城壁に罵声を浴びせた。
「炎の神を侮辱したぞ!」
「撃ち落とせ! あの女を黙らせろ!」
怒りは強いが、信仰心ゆえの反応だ。
暴走しそうではあるが、まだ制御できる範囲だ。
問題は、南部の兵士たちだ。
彼らは互いに顔を寄せ、ひそひそとささやき合っている。
「……赦される、だと?」
「いや、罠だ。光耀教の口車だ」
「でも……女神は慈悲深い、と……」
胸の奥がざわりと騒いだ。
しかし、ユランサスの視線に気づくと、彼らはすぐにうつむいて、それ以上城壁を見上げようとはしなかった。
問題ない。
あとは、門前の傭兵たちは……
ユランサスは、固まった。
シグがいた。
シグは、ノーラに通訳させながら、エルザの演説を聞いていた。
真剣な顔で。
何度もノーラに確かめながら。
ユランサスの息が震えた。
「……聞くな、シグ」
シグが奪われる。
ユランサスのための天使が。
偽りの神を仰ぐ、インバル人の女に。
怒りと恐れが、ユランサスを支配した。
彼の中で、何かが音を立てて切れた。
「……『重火炎壺』を用意しろ」
「はい……?」
そのどす黒い声を聞いて、隣にいた部下は、それが誰の声なのかを、とっさに判別できなかった。
ユランサスは、その部下をにらみつけ、がなった。両目は赤く血走っていた。
「聞こえないのか!
重火炎壺だ! 早くしろ!」
「あっ、は、はい、ただちに……!」
部下は、逃げるように駆けていった。
一人になった空間で、ユランサスは、地を這うような低い声で、静かにつぶやいた。
城壁の上に今もひるがえる、純白の旗をにらみつけて。
「売女が。後悔させてやる。
『炎は、簡単に消える』だと?
いいだろう。
まことの神威を示してくれる。
水でも消えぬ神の炎で、女神の欺瞞を焼き尽くす……!」
■次話:『帰還命令』




