歩み寄る二人
「ノラ、見て。蝶が飛んでる」
シグが指すので、ノーラはそちらに目を向けた。確かに、ひらひらと蝶が舞っている。
ノーラはほほえんで答えた。
「本当ね。羽が灰色だわ。シグにそっくり」
「おれ、蝶なの?」
「似てるわよ。シグが剣のお稽古するとき、くるくる回るでしょう。そっくりよ」
シグは、じっと蝶を観察した。それから、ぼそりとつぶやいた。
「そうでもない……」
口調がやけに重々しくて、ノーラはつい吹き出した。
街は、朝日に温もって、活気にざわめきつつあった。
ノーラは、引き続きシグの世話係を務めていた。
夫と子を失わせた聖炎軍への憎しみは残っている。
だが、復讐心は消えていた。
自分に復讐を果たすだけの力が無いことを思い知ったし、何より、シグを利用してしまったことへの罪悪感が強かった。
ノーラは、シグが哀れでならない。
二人が和解したあの日から、ノーラはシグの生い立ちについて、何日もかけて聞き出した。
彼は奴隷ではなかった。
ヒノワ国の騎士階級の末裔だった。
そして、虐待を受けていた。
だから見た目よりも幼く、物事を考える力が未発達なのだ。
シグは、善悪の判断がつかない。
人を殺すことを、悪いことだと教えられていない。
それをユランサスに利用されている。
野蛮ではなく、無知なのだ。
このままでは、シグはろくな目に遭わない。
ノーラは、シグが人の心を理解できるようにしてあげたかった。きちんと自分の足で立って、歩けるようにしてあげたかった。
最近、シグは他人に逆らう。
「他人の言いなりにならないで」という、ノーラの教えに取り組んでいる。
傍から見れば、反抗期の子どものようだ。
この日も、シグは「自分で決める」を試した。
道端を、イスオドス人の老婆がよろよろと歩いていた。重そうな荷物を抱えている。
ノーラは、「重そうね」とつぶやいた。
シグは、その声に反応し、老婆を見た。
「……重いのは、悪いこと?」
「どうかしら。おばあさんに聞いてご覧」
「うん。おばあさんに聞いてみる」
シグは、老婆に駆け寄って、たどたどしいインバル語で話しかけた。
老婆は、目を丸くしていた。
ノーラは、それを黙って見ていた。
(……ずいぶん話せるようになったわ。
『りんご』ばかりだったのが、嘘みたい)
シグは、最終的に「おばあさんは重い。おれは重くない。おれが運ぶ?」と申し出た。
老婆は、気兼ねして縮こまった。
「いいえ、そんな、兵士さんに運んでいただくなんて」
こうした遠慮の表現は、まだ難しかったらしい。シグは、振り返ってノーラを見た。
ノーラは、シグに教えてあげた。
「おばあさんは、自分で運ぶと言っているわ」
シグは、じっと考えた。
「……でも、『鵜呑み』は良くない。
おばあさんの言うこと、違うかもしれない。
おれは自分で決める。……から、おれが運ぶ」
シグは、老婆の重い荷物を軽々と持ち上げた。
老婆は、「あわわ」と目を丸くした。
「これ、どこに運ぶの?」
「あのう、そのう、なら、私の家まで……」
シグは、老婆に案内されて、彼女の家まで運んであげた。
老婆は、ぺこぺこ頭を下げて、シグに感謝した。
二人になってから、シグはかすかに笑った。
「おばあさんの言う通りにしなくて、合ってた。
おれが自分で決めてよかった」
ノーラも、「そうね」とほほえんだ。
最近の彼は、笑顔が出てきた。
そこへ、大通りの真ん中を、一台の馬車が駆け抜けた。
やけに速度を出している。人々は、あわてて道の端に寄った。
御者は、黒い鎧を着ていた。
褐色肌。マンスドゥス兵だ。
ノーラは、ついシグの袖を握った。
(……近頃、聖炎軍の兵たちは、ぴりぴりしている。
そう遠くないうちに、また戦が始まる)
愛想が良かった兵たちの笑顔が抜けてきた。
市内の巡回の人数が増えた。
気のせいなら、いい。
でも、きっと気のせいではない。
彼らは、決してインバル人たちと仲良くしに来たのではない。ラヌスを殺した聖炎軍は、ここで次の支度をしていただけだ。
「……シグ。しばらく、気をつけて過ごしましょうね」
シグは「うん」と軽くうなずいた。そして、ノーラの手を袖からほどき、代わりに手を繋いでくれた。
ノーラの胸に、温かいものと、冷たい不安が広がった。
(彼はこれまで、いつでも誰かの言いなりだった。だから迷わなかった。
でも、今は自立しようとしている。たくさん迷っている。
……これから、再び戦場に出たとき、その迷いがシグを脅かすかも知れない。
私のしていることは、本当に正しいの……?
戦士としてのシグの強さを、私は奪っているのかもしれない……)
ノーラの足取りは、徐々に重くなった。
シグは、遅いノーラを引っぱって急かしたりはせず、黙って自分も歩みを緩めた。
その優しさが、ぐるぐる巡るノーラの思いを、ますます強めた。
そんなノーラとシグに、召喚命令が届いた。
相手は、聖炎教の導師、ユランサス。
あの、憎らしい、狡猾な男だ。
「いらっしゃい。どうぞ楽にしてください」
ユランサスの笑みは、いかにも優しげだ。声音も、甘く穏やかに響く。
しかし、ノーラは奥歯をぎゅっと噛み、警戒しながら席についた。
この男の本性を見抜けず、油断してきたことが悔やまれる。
「ノーラ。体調はもうよろしいのですか?」
「……はい。おかげさまで」
「それは良かった。『聖炎の儀』が成功したのは、あなたの尽力あってこそ。寝込んでいたと聞き、私も心配していたのですよ」
(……どの口で……!)
ノーラは、苦労して怒りを鎮め、「ありがとうございます」と声を絞り出した。
この男は、敵だ。
だけど、勝てない。
今は、こうして耐え忍ぶしかない。
ノーラをなぶって満足したのか、ユランサスはシグにほほえみかけた。
「シグも、よく来てくれました。あなたにお土産を持ってきましたよ」
渡された小箱のふたを開けて、シグはつぶやく。
「お菓子だ」
「そうです。好きでしたよね?」
「うん、好き。ありがとう、ユラ。
ノラにもあげる。一緒に食べよう」
「まあ、ありがとう、シグ。後でいただくわ」
「じゃあ、おれも『後でいただく』」
シグは、いそいそと箱をしまいこんだ。
ノーラは、さり気なくユランサスの様子を窺った。
背筋が、ぞくりと震えた。
ユランサスの表情は、抜け落ちていた。
まばたきひとつせず、ノーラを見ていた。
(……この男、やっぱりシグに執着している。
シグを完全に支配して、道具にしようとしている)
シグの視線が向くと、ユランサスに笑顔が戻った。不気味なほどの変わり身だった。
ユランサスは、本題に入った。
「……さて、こうしてお呼びしたのは、大事な連絡をするためです。二人とも、よく聞いてください」
ノーラは、心を落ち着け、姿勢を正した。
しかし、続くユランサスの発言には、思わず顔をこわばらせた。
「二日後、我々聖炎軍の本隊は、このイスオドスを出立し、次の場所へと向かいます。
目標は、城塞都市国家クレグ。
北へと続く関所の国です。
素直に門を開けてくれれば楽なのですが……まあ、そうもいかないでしょう。戦いになることを覚悟してください」
「……覚悟、というのは」
「もちろん、シグにも参加してもらうからですよ。
ノーラ、通訳のあなたもね」
ノーラは、目を見開き、息を呑んだ。
(やっぱり、戦は迫っていた。
でも、こんなに急だなんて……!)
ユランサスは、シグににこりと笑いかけた。
「シグ。あなたの活躍、また期待していますよ。
私たちを襲ってくる敵を、たくさん倒してくださいね」
「うん? うん、わかった。
戦って、勝って、ユラのご飯をもらう」
「そうです。頼りにしていますよ」
では、と言って部屋から出ていくユランサスの背をにらみつけて、ノーラは、拳をぎゅっと握った。
そして、心の中で決意した。
(シグは……あなたの操り人形じゃない。
れっきとした、ひとりの人間よ。
……守らなきゃ。芽生え始めた、シグの心を。
敵からも、導師からも……私の手で!)
■次話:『女聖騎士エルザ』




