むずかしい
野良が元気になった。
シグは、再び野良に勉強を教わり始めた。
野良は、叱ることが減った。
パンを箸で食べても、叱らない。
食器を持ち上げても、叱らない。
汁物を啜る音だけは、ちょっと気になるみたいだから、もう叱られないけど、シグはやらない。
汁物だけは、スプーンで食べる。
叱られることが減った代わりに、野良は別のことをたくさん話した。
「やって良いことと悪いことを、自分で決められるようになりなさい。
やらなければいけないことと、やってはいけないことを、自分で決められるようになりなさい。
色々な人の話を聞いて、自分の頭で考えて。誰かに言われたことだけを、何でも鵜呑みにしては駄目よ」
『鵜呑み』は『丸呑み』という意味だそうだ。
シグは、言葉を聞くのが苦手だ。
言葉で考えることも、苦手だ。
野良にそう言うと、野良は「そうね。難しいわね」と言って、シグの頭をなでた。
「難しくても、がんばりましょう。
間違えてもいいの。
自分で決めて間違えたことは、自分のせいにできるけど、他人の言いなりで間違えたことは、他人のせいにしてしまうから。
他人のせいにしてしまうと、その人のことが嫌いになって、損をさせたり、傷つけたり、殺してやりたくなってしまうわ。でも、そんなことを考えながら暮らしていくのは、つらいことよ」
野良は、シグの両手を握って、じっと目を見た。
そして、眉をへなっと下げた。
「一緒にがんばりましょう、シグ。
それで、もしもまた間違えたら……。
それでも、私たち、一緒にいましょう」
野良の言うことは難しかった。
だけど、シグはがんばって考えた。
そして、試してみることにした。
夜。シグと野良は、小屋にいた。
これから、もう寝る時間なのだ。
「それじゃあ、シグ。おやすみなさい」
「おやすみ、野良」
シグと野良は、それぞれ自分の寝台に潜った。
シグはいつもどおりに目を閉じて……いつもと違って、ぱっと身を起こした。
灯りを消した部屋の中で、隣の野良が驚いた。
「ど、どうしたの。なにかあったの?」
「……『おやすみ』しないと、どうなるのかな」
「……どういうこと?」
シグは、野良に説明した。
「母さんは、夜、寝なさいって言った。
夜に寝る子は、良い子だって」
「ああ……そうね。夜泣きしないですぐに寝る子は、母親は助かるものね」
「でも、本当は違うのかも。
寝ないほうがいいのかも……」
「……うん?」
「母さんの言いなりだと、違うかも」
野良は、闇の中で、首を傾げた。
シグは、力強くうなずいた。
「自分で決める。おれは、寝ない」
「……眠くなるわよ……?」
「おれは、自分で考えて、決めてみる」
「……そ、そう。ええと、無理しないでね」
野良は、布団をかぶって寝た。
シグは、そのまま寝台の上で、ひと晩じゅう座って過ごした。
稽古の時間、シグはふらふらで野良を起こした。
「型稽古……」
「し、シグ。今日はやめておいたら?
寝不足で刃物なんて、危ないわ」
「『如何なる状況においても、剣筋鈍らすべからず。心は常に戦場に在れ』」
「……どういう意味?」
「眠くてもやる……」
なんとかいつもの稽古を終えた。
それから、ご飯のために街に出た。
「シグ、大丈夫? あなた、ふらふらよ……」
「……眠い……」
「シグ、前見えてる? 荷車が来たわよ?」
「見てる。避ける……」
「早めにね?」
シグは、普段よりとても距離を取って、正面から来る荷車を避けた。
荷車は、安心して去っていった。
街の人たちは、「大丈夫か、あの子」と、シグを指差して噂していた。
シグは学んだ。
夜は、寝たほうが良い。
正午。いつものお風呂の時間。
公衆浴場に入る直前、シグはぴたりと立ち止まった。
野良は、その背中にこう言った。
「シグ? どうしたの、行かないの?
あなた、お風呂好きでしょう?」
「うん。好き。
師父様も、『体は毎日洗え』って言ってた」
「そうなのね。……なのに、行かないの?」
シグは、じっと考えた。
そして、体の向きをくるりと変えた。
「……お風呂、入らない」
「えっ?」
「師父様は、お風呂入れって言ってた。
おれは、お風呂が好き。
でも、もしかしたら、お風呂入らないほうが良いのかも……」
野良は、目をぱちぱちさせた。
シグは、野良に力強くうなずいた。
「自分で決める。おれは、お風呂に入らない」
「……な、なるほどね。そうなのね。
それじゃあ、今日は何をしましょうか?」
「……お昼寝?」
シグは、その日、お風呂に入らなかった。
その次の日も、入らなかった。
さらに次の日も、入らなかった。
体が痒くて、嫌な気分だった。
「野良。おれ、決めた。お風呂入る……」
「……そうね。それがいいかもね……」
シグは学んだ。
お風呂は、入ったほうが良い。
夜の見回りの時間になった。
シグは、研ぎたての刀を佩いて、すっかり身支度をととのえた。
野良も、詰所でシグが食べるくるみと干し肉を用意してくれた。
だけど、小屋を出発する前に、シグはぴたりと立ち止まった。
野良は、その背中にこう言った。
「……どうしたの、シグ? 行かないの?」
「行かない」
「えっ!?」
「お仕事、行かないでみる」
野良は、シグの周りで、ばたばたした。
「ええとね、シグ……。
いつもの、あれよね。
自分で決める、ってやつよね」
「うん。おれは、お仕事に行かない」
「そ、そうなのね。うん、決めたのね。
でもね、シグ。
お仕事は、行ったほうがいいわ……」
「おれは……自分で決めてみる」
「……どうしましょう……」
それから、ほんの四半刻後。
兵士の人が、ものすごい勢いで小屋に来た。
「おい! 君、今夜の当番だぞ!
忘れていたのか!?
早く来るんだっ!」
「おれは……仕事しない」
「何を言っている! さあ、早く来い!」
「……」
「し、シグ、戦っちゃだめよ。
今回は、シグが悪いのよ……」
「ノーラ殿、彼のこの態度は何です!?
あなたがついていながらにして!」
「あの……最近の彼は、自立心が……」
「何!? 反抗期か何かですか?
……とにかく行きますよ! 支度はしているようですからね!」
「ほ、本当にすみません……」
結局、二人は仕事に行った。
詰所で、野良はたくさん謝った。
シグも一緒に謝った。
シグは学んだ。
仕事は、行ったほうが良い。
シグは、たくさん失敗した。
それで、ある時、野良に言った。
「みんなの言うこと、聞いたほうが良いのかも……」
ここ最近のシグの失敗を全部見ていた野良は、くすくす笑って、こう言った。
「そうね、そんなこともあるわね。
だけど、たまには、そうじゃないこともあるの。
言いなりではいけないことが、世の中には、ほんの少しだけあるの。
今は、それだけを覚えていてね」
シグは、「わかった」と答えた。
ここ最近、街の兵士の様子が変わった。
シグの感じる彼らの動きは、今までよりも少しだけ鋭い。
武器や鎧も、磨かれている。
何かが、始まるかもしれない。
野良も、街を歩くときに「しばらく、気をつけて過ごしましょうね」と、シグの袖を握って歩く。
シグは、袖をつかむ野良の手を、軽い力で振りほどき、代わりに野良の手を握った。
野良は、眉を下げて、目を細めた。
最近はわかる。これは「笑顔」だ。
シグも、同じように目を細めてみる。
野良の目が、ますます細まった。
(自分で決める。自分で考える。
むずかしい。
でも、がんばる。野良と一緒に)
大通りに、向かい風が吹いた。
前髪をぶわっと舞い上げられつつ、二人はまっすぐ歩いていった。
(第三章:シグ 完)
■次話:『歩み寄る二人』




