小波
真見は、生まれつきの殺人兵器ではなかった。
幼い頃の真見は、普通の子どもだった。
ススロの港町の片隅で、彼は母親と暮らしていた。
彼の幼名は『小波』と言った。
『サナミ』は、最初に覚えた言葉だ。
母の言うとおりに繰り返すだけで、母は小波を何度も褒めた。
それがいつしか母を困らせ、やがては叱られるようになったが、何故なのか小波にはわからない。
「小波」と言われたら、「サナミ」と言った。
「母さん」と言われたら、「カアサン」と言った。
それは褒められることだった。
しかし、ある時、母が言った。
『小波。どうして他の子を打ったの』
小波は、褒められたくて、答えた。
『ドウシテ・ホカノコヲ・ブッタノ』
母は、きっと目つきをとがらせた。
『ふざけないで! 母さん、怒っているのよ』
『フザケナイデ・カアサン・オコッテイルノヨ』
『……っ!』
頬を打たれた。痛かった。
わけがわからなかった。
同じように、母の頬を打った。
褒めてほしかったから。
『小波ッ! いい加減にしなさい!』
母は、小波を何度も強く打った。
小波は、床に丸くなった。
痛かった。
『サナミ・イイカゲンニ・シナサイ』を、繰り返すことはできなかった。
小波は、暗い部屋に閉じ込められた。
じっと座って過ごした。
しばらくして、母が戸を開けてくれた。
『ごめんね、小波。ごめんなさい……』
母は、目から涙を流しながら、何度も『ごめんなさい』を言った。
小波も、おそるおそる言った。
『……ゴメンナサイ……』
『……小波っ!』
母は、小波をぎゅっと抱きしめた。
腕は、かすかに震えていた。
小波には、まったくわけがわからなかった。
だけど、母の胸は、暖かかった。
暖かいのは、好きだった。
母を真似して、ぎゅっと背に腕を回したら、母は小波の小さな背を何度も優しくさすってくれた。
言葉の世界は、小波にはあまりにも難しかった。
それに比べて、物や音は、まだわかりやすかった。
石をぶつければ、石は割れる。
枝を曲げれば、枝は折れる。
物がぶつかれば、音が聞こえる。
会話がろくにできないために、友達が一人もいない小波は、来る日も来る日も、家の玄関の前の地面で、小石を割り続けて遊んだ。
ある朝、知らない男が現れた。
家の前で小石を割る小波に、男は言った。
『ハハオヤハ・ドコダ』
知らない言葉だった。
『ハハオヤハ・ドコダ』と繰り返したら、小波は男に顎を蹴られた。
気を失った小波が次に目を覚ましたとき、そこはもうススロの街ではなく、見知らぬ小さな小屋だった。
母は、がたがた震えながら、知らない言葉を話していた。
『チチウエ・モウ・オヤメクダサイ。コンナコト・マチガッテイマス』
『ダマレ・コレハ・ワシガソダテル。
コレニ・シグレノノ・ワザヲ・ツガセル。
オマエハ・モット・コヲウンデ・シグレノノ・チヲツナゲ』
小波は、わけもわからず、それを聞いていた。
言葉を繰り返しはしなかった。
また蹴られたくなかったから。
次の日、母は自殺していた。
男は穴を掘り、母を焼いた。
小波と男の暮らしが始まった。
男は、自分を「師父様」と呼ばせ、小波に刀の使い方を叩き込んだ。
幸か不幸か、小波には才能があった。
師父様が刀を振る動きをひと目見たら、そっくりそのまま真似できた。
師父様は、あらゆる姿勢や角度で、刀の振り方を小波に見せた。百通りも、千通りもあるそれを、小波はすべて覚えた。
『小波。お前は、言葉で語るな。
お前は、ただ刀で語れ』
『はい、師父様』
『お前は天才だ。
お前こそが、最後の時雨野にふさわしい。
只管に斬れ。斬り合いの果てに、お前のゆくべき道がある』
『はい、師父様』
師父様の言葉は、難しかった。
とにかく『はい、師父様』と答えた。
師父様は、言葉の代わりに、痛みで教えた。
間違えたら、殴られる。
間違えなければ、殴られない。
とてもわかりやすかった。
小波が数え年で十五歳になったとき、師父様は、向かい合って座って、言った。
『お前に元服を許す。これより、時雨野真見征春と名乗れ』
『はい、師父様』
『そして、これより死合をおこなう。
儂を殺すことができたら、時雨野孤影流の皆伝を授ける』
『はい、師父様』
『表に出ろ。始めるぞ』
『はい、師父様』
そうして、『小波』は『真見』に名を変えた。
死闘の末、師父様を殺した。
真見は穴を掘り、師父様の屍を焼いた。
一人きりの暮らしが始まった。
家の食べ物はすぐに尽きた。
師父様が残した行李の中に、丸い小さな金属がたくさん入った袋があったが、かじってみても、食べられなかった。
真見は食べ物を探して、山を下り、人里に降りた。
軒先に食べ物を並べている人がいた。
おいしそうだった。
取って食べた。
『おい、てめえ! 何しやがる!
この泥棒め!』
その人が木の棒で殴りかかってきた。
かわした。右脇に隙ができた。
刀で斬りつけた。師父様に教わったとおりに。
簡単に斬れた。
その人は、もう起き上がらなかった。
食べ物がまだ置いてあった。
もう一つだけ拾って食べた。おいしかった。
お腹がいっぱいになったので、山に戻って、小屋で寝た。
そんな日々を、まる一年繰り返した。
村人たちは、真見が食べ物を取っても、怒鳴ったり殴ったりしなくなった。
■次話:『由良と野良』




