時雨野真見征春
時雨野真見征春は、人狼族の武人である。
姓は時雨野、字は真見、諱は征春。
歳は数えで十六だ。
時雨野孤影流の皆伝を受け、現在は『聖炎軍』の食客となっている。
人狼族は、遠き東国『日輪国』の民だ。
時雨野家は、武勇を誇る名門だった。
しかし、不名誉な事情で国を追われ、遥かインバレラ帝国が一角、ススロ王国へと落ち延びた。
以来、御家再興の時に備え、時雨野は技と血だけは絶やさぬように努めてきた。
と、真見の祖父が言っていた。
真見はよくわかっていない。
彼が生まれた場所は、日輪国ではなく、ススロ王国だ。日輪国のことは、祖父の話の中でしか知らない。
ぼうっとしながら、朝食の汁物を啜っていたら、それを見た野良がため息をついた。
「シグ、前にも言ったでしょう。スープを飲むときは、音を立てない。器を持ち上げない。ほら、スプーンを使って」
また叱られてしまった。
真見は、「わかった」とうなずいて、野良の言うとおりにした。このやり方は、とても食べにくい。
「おいしい?」と野良が言うので、「おいしい」と答えたら、野良の眉尻がへなっと下がった。
真見は、莫迦だとよく言われる。
実際、真見は、他の人とは色々と違うようだった。
真見の鋼色の両目は、他人とは違うらしい。
常に焦点が合っていない。
視界全体をぼんやりと眺め、変化をいち早く察知する。それでいて、目に映る人間や動物のすべてを精緻に捉えている。
もしも彼らが自分を殺そうとしたとき、どのような動きで襲ってくるのか、あらゆる経路と力の加減を網羅的に予測している。
今、この瞬間も、道端にいる肌の黒い兵士の筋肉の動きを、真見の瞳は映している。
彼が槍を持ち上げてこちらへ投げてくる場合の、槍の穂先が通り得る軌跡をすべて予測している。
けれども、人の表情を読み取って見分けるのは、とても苦手だ。
食堂で、真見をじっと見ている女給がいた。
怒っているのかと思って「ごめんなさい」と伝えたら、不思議そうに首を傾げていた。
「シグ。謝ってるけど、何かしたの?」
「ううん。……あの人、いつも怒ってる?」
「え? いいえ。いつも笑いかけてくれているわよ。彼女、あなたのことを『素直でかわいい子ですね』って褒めてたわ」
「野良、『素直でかわいい』って何」
「……あなたみたいな子のことよ」
野良の説明は、いまいちよくわからない。
真見の狼の両耳は、他人とは違うらしい。
周囲の音を立体的に感じ取る。
矢羽根の立てるかすかな風切り音を決して聞き逃さず、その矢が何秒後に届くのか、距離と速度を聞き分ける。
ついさっき、ビィン、と鳴った弓弦の音が、この街の北の空き地の隅の木陰で鳴らされたことがわかる。
けれども、人の声を聞いて感情を察するのは、とても苦手だ。
今も、隣の傭兵たちが、わあわあ話し合っているけれど、よくわからない。
よくわからないので黙っていた。
「聞いてんのか!」と怒鳴られた。
「聞いてる」
きちんと返事をしたのに、もっと大きな声が降ってきた。
何を言っているかわからなくて、野良に意味を聞いてみた。
「『調子こいてんじゃねえぞ、ガキ』って、何」
「お、お願い、黙って!」
なぜなのだろう。わからない。
とにかく、野良の言うとおりにする。
それからすぐにお風呂に行った。
一刻後に真見が戻ると、野良は「あのね」と真見に言った。
「人の話を聞くときは、ちゃんとその人の方を見なさい。
体を向けて、目を合わせるの」
「なんで」
「そうでないと、きちんと話を聞けないでしょ」
聞こえるのに。
真見は、首を傾げ、耳を伏せた。
真見の静まり返った思考は、他人とは違うらしい。
周囲のあらゆる形と音が、無限に記録され続ける。
身の回りで動くものたちが、自分をどのように攻撃するか、無数の類型を演算している。
自分がそれらをどう殺せるか、常に検討し更新している。
けれども、言葉の指す意味を理解し、言葉で答えるのは、とても苦手だ。
市場の店先で、野良は真見に言った。
「いい、シグ? これは『りんご』。言ってご覧」
「コレハリンゴ」
「そう。これはりんごよ。次に、これは『くるみ』」
「コレハクルミ……」
「そうよ。いい調子ね! シグ、あなたのインバル語の発音、とても上手よ」
真見は黙った。
『コレハ』……ではない。
混乱する真見に、野良は尋ねた。
「さあ、シグ。言ってご覧。これは何?」
「コレハナニ……?」
「し、シグ、あなた、わかってないのね……」
野良の眉が、ふにゃふにゃと曲がった。
その野良の後ろで、果物屋の男が、大きな箱をどすんと積んだ。
真見は、その音と形から、箱の重さを理解した。
箱は、高く積まれている。
この重さ。この位置。硬さ。
野良は、遅くて、柔らかい。脆い。
真見は、無言で野良の腕をとった。
そして、ぐいぐい引っ張って、果物屋から距離を取った。
「ちょ、ちょっと、シグったら、お勉強は!?」
「……コレハリンゴ」
「ど、どれのこと!?」
真見は、そのまま裏路地に入った。
野良は、「もう、シグ……!」と、着いてきた。
遠くから、野良がさっきまで立っていた位置に、重い箱が崩れる音を聞いた。
真見は、いつも独りだった。
彼は、他者がわからなかった。
人々も、彼を理解しなかった。
他人とふれ合うための力を、彼は持ち合わせていなかった。
彼の感覚と能力は、戦闘のためだけに偏っていた。
殺人のための兵器だった。
■次話:『小波』




