聖炎軍の来襲
ラヌスは、音を立てまいと唾を飲み下した。手綱を握る左手も、槍を持つ右手も、冷たい汗でぬめっている。
眼下の平原を、黒と赤の軍勢が埋め尽くしていた。
南の海を越えてきた『聖炎軍』。
異教徒どもだ。
褐色の肌に黒い軍装、真紅の旗。眠る獣のように静まり返っているが、合図ひとつで噛みついてくる。
肩をぽんと叩かれ、ラヌスははっとした。
「ご心配めされるな、ラヌス陛下。我らは五万。奴らは三万。数では勝っております」
「……はい、閣下。失礼しました」
「なんの! ペルン軍もイスオドス軍も、陛下の味方ですぞ。どっしり構えておられよ」
ラヌスは苦笑した。若造の王を気遣う老将軍の厚意が、ありがたくも情けない。
だが、彼が震えているのは、臆病だからではない。
「……城で、妻が待っているのです。子を授かったばかりで……。父になるとわかった途端、怖くてたまらなくなりまして」
「なるほど、それは心配ですな。しかし、奥方への土産話は、『大勝利』で決まりですぞ!」
うなずきつつ、ラヌスはひっそり思った。
戦場の話をしても、きっと妻は喜ぶまい。彼の愛するネロエーシャは、穏やかで優しい女性だ。早く城へ戻り、七つ年下の可愛い妻を、「何も心配いらない」と元気づけてやりたかった。
つかの間の甘い想いを消し飛ばすように、不気味な太鼓の音色がドロドロと響いた。
黒い波が、じわりと前へ動いた。
老将軍は、大声で兵に檄を飛ばした。ラヌスも、自国の兵を励まし、前進するよう命令した。
互いの軍の前列がぶつかった。岩に砕ける波のように、金属音と罵声が飛び交う。ラヌスは、兵たちを鼓舞するため、慣れぬ大声を張り上げ続けた。
ふと、視界の端を、黒がよぎった。
ラヌスは振り向き、ヒュッと息を呑んだ。
敵の騎兵が、もう横まで来ている!
正面の敵に向かって一心不乱に進むラヌスたちの戦列。その横腹に、敵の騎兵たちが、恐ろしい勢いで突っ込んできた。
彼らは、前列の戦いなど無視して、全速力で回り込んできたのだ。
真横は、まさに軍の急所だ。
気づいたときには、もう遅い。黒い獣の牙は食い込み、出血が始まった。
列が乱れ始めた。
味方の兵たちの悲鳴が、命を刈る敵の槍先が、だんだん迫ってくるのがわかる。
「ラヌス陛下! 一度、後方へお下がりください!」
将の一人に急かされて、ラヌスはあわててうなずいた。ところが、馬がおびえて立ちすくみ、言うことを聞かない。
「なぜだ!?」
おびえているのは、ラヌスの馬だけではない。
敵の騎兵がまたがっている、あの異様な「何か」。
それが馬たちを怯えさせているのだ。
逃げられない。敵軍が迫る。ラヌスは全身をこわばらせながら、なんとか槍を取り落とさず握った。黒と赤とが押し寄せる。いつの間にか血の匂いが満ちている。敵と味方の怒号がうるさい。絶叫して槍を振り上げながら、ラヌスは、心の中で必死に妻の名を呼んだ。
かくして、サルム平野にて、レバーリャ国王ラヌス・サンリコ・デ・レバーリャは討死。
インバレラ帝国連合軍は壊滅した。総大将はわずかな生き残りとともにペルン王国へ逃げ帰り、イスオドス国王は恐怖のあまり聖炎軍に膝を屈した。
後世の史家は、このサルム平野の戦いを、『赤泥の戦い』と渾名する。捕虜も取られず惨殺された帝国連合軍の犠牲者たちの赤い血潮が、大地を泥に変えたことに由来する。
恐るべき強さと無慈悲さを併せ持つ異教徒の軍『聖炎軍』は、敵を打ち破ったそのままの足で、レバーリャ王国の王都を目指す。そして、「聖なる神に最期まで抗った不信心者、国王ラヌスの汚れた血族を根絶やしにする」と告げ、王城に対して、ラヌス王の妻子の引き渡しを要求したのである。
王妃ネロエーシャは、寝間着のままで青ざめて、ひざまずく大臣たちを見つめていた。
時刻は深夜。
常ならば臣下の立ち入ること能わぬ、王族の私宮殿である。
「事態は一刻を争います。ただちに国を出て、御身をお隠しください」
「嘘よ……ラヌスが……」
「王妃殿下! 今はまだ、悲しむべき時ではございません!」
茫然自失のネロエーシャは、されるがままに旅装に着替え、城の裏手へと急かされた。たった二人きりの近衛士と、たった一人きりの侍女が、馬を用意して待っていた。
大臣は、ネロエーシャにひざまずいた。
「やつらには『王妃はとうに亡命し、その行方は我らも知らぬ』と伝え、わずかでも時間を稼ぎます。
どうかご無事で、王妃殿下。
御身と、御身にやどる御子こそ、我らの最後の希望です。ラヌス陛下の遺された血を、どうかお守りくださいませ……!」
ネロエーシャは馬に乗せられ、夜の王都から逃げ出した。
冷たい夜風が頬を切る中、激しく揺れる馬の背で、ネロエーシャは「嘘よ」と「ラヌス」を、震える声で繰り返した。
近衛の一人が、固い声音で言った。
「ひとまずは国境を越え、王妃殿下の生国である、ルブハクを目指すことにしましょう」
一行は急いでいたが、その移動速度は遅かった。
ネロエーシャは、妊婦なのだ。強行軍に耐えられない。そして、彼女の腹の子こそが、レバーリャの最後の希望なのだ。
馬が駆けるたび、体が揺れて、息が詰まる。
苦痛に息を荒らげるネロエーシャのために、一行は何度も休憩を挟んだ。
日が昇る頃、ようやく国境付近の川辺についた。
先導して川を渡ろうとした近衛が、馬上で「うっ」とうめき、水しぶきを上げて派手に倒れた。首に、矢が突き立っていた。
もう一人の近衛兵が、押し殺した声で叫んだ。
「イスオドスだ! 先回りされていた!」
その言葉の正しさを示すように、兵がわらわらと飛び出してきて、倒れた近衛に群がった。身分を確かめ、確実なとどめを刺すその兵たちは、確かに隣国イスオドスの鎧を着ていた。
川べりの林の中に隠れていたネロエーシャは、口を手で覆った。
「なぜ……! イスオドスは味方だったはずなのに!」
「我らを裏切ったのでしょう。……王妃殿下、侍女と共に、隠れてここからお逃げください。私がやつらを足止めいたします」
近衛兵はすらりと剣を抜き、囮となって出ていった。
ネロエーシャは侍女に手を引かれて、泣いてその場から駆け去った。
駆けて、駆けて、駆け続けて……ネロエーシャと侍女の二人は、無人の山小屋に駆け込んだ。
中に入って戸を閉めたとき、ついに耐えきれず、ネロエーシャは床にうずくまった。
激しい痛みが、腹部に走った。
足を伝って、血が垂れていた。
「まさか……嫌よ、そんなことって……。ううっ!」
痛みは、何度も襲い掛かってきた。
侍女は青ざめ、ネロエーシャの体を支えた。
……その夜、山小屋の中で、二人は声を殺して泣いた。
ネロエーシャは、大きな血の塊を抱いていた。
レバーリャの希望は、失われた。
夜明け前の冷たい空気の中、二人は小さな棺を抱えて、小屋の外へ出た。
東の空がわずかに白み始めていた。
リンデンの木の根元に、穴を掘って、棺を埋めた。
誰にも知られぬこの子のために、季節が花を手向けるだろう。
土をかぶせる前、ネロエーシャは棺を見つめた。
そして、懐から護身用の短剣を取り出した。
「王妃様……!」
侍女が青ざめた。
ネロエーシャは、おのれの長く美しい髪を掴むと、短剣でばっさりと切り落とした。
そして、その髪を我が子と共に、墓穴の中にそっと落とした。
「……私は、王妃であることをやめます」
ネロエーシャは、涙を拭い、すっくと立ち上がった。
「レバーリャの民を守ることもできず、国を出ることも許されず、ラヌスが遺してくれたこの子を産んであげることもできなかった。
ここにいるのは、もはや王妃ネロエーシャ・ファドラ・デ・ルブハクではありません。
国を追われ、家族を奪われた、一人の女です」
ネロエーシャは、瞳に冷たい光を浮かべた。
「奪われたままで、終わるものですか……!」
昇り始めた太陽が、彼女の横顔を白く照らした。
胸の奥で、何かが燃え始めた。
彼女はきりりと唇を噛み、おろおろとする侍女に告げた。
「私は、生き延びます。
そして、再び立ち上がります。
あの悪魔、憎き『聖炎軍』に、必ずや報いを……!」




