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第三話 師匠の思い出

 先に屋外へ出ていたダンは、厩から愛馬を引っ張って来ていた。しかし、オリヴィアが道中に寄った村で譲り受けたという駿馬を愛馬そっちのけでしげしげと眺めていた。オリヴィアが出てくるとだしぬけに話し始めた。

「これは汗血馬だな。そりゃあ速いはずだ」

「かんけつば?」

「ああ。オリンシアの辺境州でよく見られる速い馬だ。見てみろ」

 馬の頚から肩にかけて指でなぞる。オリヴィアはダンが示した部位に顔を近づけた。そこには、液体が流れたと思しき線状の跡がいくつか残っていた。跡は既に乾いており、なにが流れたのかオリヴィアには皆目見当もつかなかった。

「これは、なにが流れた跡なんなんでしょうか?」

「血だよ。走っている時にな」

「え、血……?」

「ああ。ほらそこにもあるだろ」

 ダンが帯径を指さす。そこにも同じような乾いた跡が残っていた。

「ほんとだ。こんなに跡が……。ああオキュポロス、私の馬は大丈夫なんでしょうか」

 オリヴィアの声は、飼い馬の異変に気付かなかった忸怩たる思いをはらんでいた。

 振り返ったダンの目に、自責の念で歪んだオリヴィアの美しい顔が映っていた。ヘブンズフィールで見た、恥じらいや、吉報に喜ぶ顔、性癖を満たせと言われた時の怒りと怪訝な思いがないまぜになった顔にも負けず劣らずの美しさだった。目の前に立つ美女の、日常に隠された官能的な顔を見られないことをダンは悔やんでも悔やみ切れなかった。

 今ここで、血が流れていたことを大げさに騒ぎ立てたら、どういう反応を示すだろう、と邪な思い付きがダンの好奇心をくすぶり心を掴んで離さない。そう考えている間にも、オリヴィアはどうしていいか分からず、頬を染め目尻に涙を浮かて、べオキュポロスとダンを交互に見ている。

 空の下で見る彼女の新緑に輝く瞳は、彼女が純血のエルフ族であることのまぎれもない証左であり、形の良い目の中に自然が内包されているかのようだった。

 瞳の美しさに邪心が浄化されたのか、ダンは頭を振ってオリヴィアを諭すような口調で話し始めた。

「心配するな。こいつはそういう馬なんだ。これが正常。走っている時、血が汗みたいに流れるから汗血馬と呼ばれる。どうしてそうなるかは分からないけどな」

 ダンの言葉にオリヴィアは安堵したようだった。ほっと胸を撫でおろす。

「白馬ならすぐに分かるんだが、なんせ赤毛だからな。慣れてない奴は気が付かないだろう。これからは、走った後、定期的に見てやるんだな。血が流れてたら元気な証拠だ。流れなくなった時は……まあ、よくしてやりな」

 オリヴィアにはダンが言わんとしていることが分かった。流れなくなったら死を迎える時なのだ。

「ありがとうございます。それにしてもダンさん、よくご存知ですね」

 オリヴィアは素直に感心する。ダンのことを少しばかり見直した。

「まあ、仕事柄な。さてと、そろそろ行くか。目的地は?」

 二人は馬に跨り、足を進めさせる。愛馬たちは徐々に速度を増していき、風が頬を撫でるようになった頃、オリヴィアはダンの質問に答えた。

「エンチャントリア、私たちの、エルフの郷です」

「エンチャントリア……聞いたことがあるな」

 ダンはオリンシアの地理に疎く、依頼で赴いた場所などもまったく覚えていなかった。だがエルフの郷であるエンチャントリアだけは記憶の奥底に根付いていた。

 エンチャントリアは、王都アレキサンドリアから馬を走らせて東へ七日余りの場所にある。エルフ族の故郷であり、彼らが生活を営んでいる住処だった。

 他の森と異なり、木々は太く、枝葉は空を覆うようにして生えている。その特徴故に陽光はほとんど入らない。だが、森には光を吸収し発光する、吸光虫と呼ばれる虫が球形に固まり空中で群棲している。この虫は一度光を取り込むと、半永久的に発光することができ、外界からの刺激を受けた際、身の危険を感じ発光をやめて散り散りとなる性質を持つ。

 エルフたちはこの性質を利用していた。樹上で太陽光に虫たちを晒して光を吸収させ、森の中へ放つ。すると、空中に浮かびながら、取り込んだ太陽光で発光する。発光の明度自体はそこまで強くないため、いくつもの群れを放つ。そうすることで、森は、まるで太陽に照らされているように明るくなる。夜になるといくつかの群れを残して、散開させる。こうして森の中で昼と夜とを区別し、他の種族と同じような生活リズムを整えることができる。

 人間族やドワーフ族が生み出した松明、ランタンなどの文明の利器を使うこともできるが、エルフたちは自然の中で、自然のものだけで生活様式を整えることを至高としている。そのためエンチャントリアには、人間にとって馴染み深い人工物はない。だがそれが、エンチャントリアへひそかに訪れた他種族からの人気を集めた。皆判を押したように、光を発する球体――吸光虫――が森を照らし出す様子を、幻想的で別世界に迷い込んだようだと評した。

「とてもいいところです。…………いえ、でした。あの魔物が出てくるまでは」

 オリヴィアを先頭に二人は馬に乗って駆け出していた。ダンの背後には、ヘブンズフィールが今もその姿を保っていたが、畑を過ぎ、川を渡る頃になると地平線に埋もれ見えなくなっていた。

 ダンの愛馬は、はじめこそ久しぶりの遠出に息巻き、己の健脚ぶりを主人とエルフに見せていた。だが時間が経つにつれて、その姿は成りを潜め疲労に喘いでいた。先を行くもう一頭の馬は、疲れなど知らぬ、とその走駆を誇示していた。

「オリヴィア! ちょっと待ってくれ!」

 ダンは、あらん限りの声で叫ぶ。

 途中でダンが呼び止めなければ、オリヴィアはそのまま彼らの前から姿を消していた。オリヴィアがダンの呼びかけに応じ、背後を振り返った時には、ダンと彼の健気な馬の姿は小さくなっていた。

「ごめんなさい! 私ったら」

 やっとの思いで追いついたダンの愛馬は、見るからに限界を迎えていた。

「少し休憩しよう。急いでいるところをすまないが」

 ダンの提案を受け入れた二人は、近くを流れていた小川で休憩を取った。オキュポロスは依然として姿勢を正し、地平線を見据えている。その姿は、自分がこれから駆ける大地に、思いを馳せているようだった。体から血が流れている。オキュポロスの血は、自分の存在を遺すかのように地面に染みを作っていた。一方ダンの愛馬は、息を荒くして、川の水を飲んでいた。血の変わりに、汗が滝のように流れ落ちている。

「すまんなオリヴィア。こいつが駿馬じゃないばかりに」

 ダンは一刻でも早くエンチャントリアへ帰りたいと願うオリヴィアの心情をおもんばかって謝罪した。

「いいえ。私の方こそすみません」

「見ての通り、こいつはあんたのオキュポロスほど速くは走れない。体力も限界がきている。それにそろそろ日が暮れる。今日は適当な場所で野宿することになるが」

「かまいません。慣れていますから」

「そうか」

 二人の会話はそこで途切れた。辺りには、川の流れの穏やかなせせらぎだけが反響していた。

 休憩を終えた二人は、再びエンチャントリアへ向かって馬を飛ばした。

 そして太陽が没し、大地を照らす役目を、夜空にまたたく星々が引き継いだ。

「休もう」

 ダンは野宿するのに最適な場所を見つけて、そこに簡易的な厩を作った。オリヴィアは魔術を使って水桶を作り、そこへいっぱいの水を空気中から注いだ。薪を拾いにいって戻ってきたダンは、その光景を目の当たりにし口笛を吹いて感心したように言った。

「便利なもんだな魔術って」

「おかげで楽ができます。ダンさんは魔術を使わないのですが?」

 石で囲んだ炉に薪を投げ入れ、火打ち石を使ってダンは火を起こそうとしていた。オリヴィアはそれを見守っていた。

「俺は使えないんだよ。途中で訓練をやめちまったからな」

 何回も打ち付けようやく火が上がる。ダンはそっと息を吹きかけ大切に火を育てていった。その努力が報われ、火は途中で消えることなく、二人を照らし出した。

「不便に見えるだろうが、俺は今の自分に満足しているからな」

 二人は夕食を摂ることにした。ダンはなにも持っていなかったので、オリヴィアにすべて任せていた。

 オリヴィアが静かに口を動かすと、目の前の土が盛り上がり、鍋を模った。ダンはできたての鍋が急速に冷え固まり乾燥していく様子をまんじりともせず眺めていた。オリヴィアが鍋を小突くと、コンッと耳触りのよい音が鳴った。

「かなり雑ですができました。後はお椀とフォークですね」

 オリヴィアが楽しげに言う。また口を動かすと鍋には水が溜まっていった。水で満たされた鍋を炉にかける。その姿を微笑ましくダンは見ていた。昔のクローデルを見ているようだ。

「俺は椀だけでいい」

「分かりました」

 オリヴィアは鼻歌を歌いながら、鍋を作ったのと同じ手順で土から椀を形成していく。その間、水が己の存在を知らしめようとぐつぐつと音をたて沸騰していた。

「今日のご飯はこれを食べます!」

 無邪気な笑みを浮かべ袋から橙色をした玉を取り出す。昨日百姓から買ったブンブンだった。

 まるで子供みたいだ、とダンは思う。同時にオリヴィアは何歳なのだろうとも。オリヴィアが人間だとすると、外見から判断すれば二十代前半から中ごろになる。だがエルフは人間より長命なのだ。その分成長も緩慢になる。この、男を魅了する美貌でまだ五歳ということも大いにあり得るのだった。

「できました!」

 オリヴィアが喜びに溢れた声をあげる。鍋ではブンブンが煮込まれていた。食欲をそそる香りが二人の鼻腔を満たす。出汁が水に溶け、うっすらとした肌色になっていた。ブンブンはなおも形を保っているが、少しつついただけで崩れそうなほど柔らかくなっている。

 オリヴィアが、即席で作ったお玉を使ってダンにスープをよそった。

「ありがとう」

 椀を受け取ったダンは香りを楽しんだ。これに肉でもあれば満足なんだが。ダンはそう思いながらも口には出さず、ゆっくりとスープを飲んでいった。食道を通って、あたたかな流れが全身に広がる。

「うまい……」

「おいしいですよね」

 オリヴィアがダンに同調する。二人の間にゆるりとした雰囲気が立ち込めた。

 暗い無人の森の中、火が薪を砕く音が一段と大きく聞こえる。ダンは空を見上げたか、木に覆われてよく見えなかった。

「あ、思い出した!」

 突然の声にオリヴィアはビクッと体を反応させる。

「な、なにを……?」

「エンチャントリアだよ」

「いつか、お聞きになったことがあるのですか?」

「まあな。マルキスから」

「マルキス!?」

 驚愕の声が夜の森に溶け込んでいく。水を飲みながら寛いでいた二頭の馬は、オリヴィアの声に驚き体を震わせていた。

「マルキスって、あの賢者マルキスのことですか!?」

「…………まあ、そんなことを言ってたような気もするが」

「どんな外見だったか、教えていただけますか?」

 オリヴィアの願いを聞き入れ、ダンはかつての師の姿を脳裏に浮かべながら口を開いた。

「エルフのじいさんだったよ。俺にはそうは見えなかったが。必要もないのに眼鏡をかけてな。髪を束ねて、変な紋章が刺繍された真っ白な衣装をずっと着ていた」

「ま、間違いないです! あの、英雄ラナリア様を教えた賢者マルキスだわ……すごい。でもダンさん、なんで賢者マルキスと?」

「あいつそんなにすごい奴だったのか」

 英雄の師を「あいつ」呼ばわりされたことに、オリヴィアは表情に抗議の色を示したが、ダンはそのことに気が付いていなかった。

「……昔話もいいかもしれんな」

 焚き火から立ち込める煙が、夜空の星々を掴もうと懸命に天高く昇ろうとする。ダンはうっすらと浮かび上がる靄の中に、幼い頃の記憶が映像の断片となって現れては消えていくさまを見た。

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