その男凶暴につき 世界フェザー級王者 サンディ・サドラー(1926-2001)
ボクシングの技術は日々進歩を続け、50年前と今日では比べ物にならないとよく言われるが、60年前のモハメド・アリに勝てそうなヘビー級がいまだに現れないのと同様に、近代的なトレーニングでも身につかない究極の職人芸も存在する。サドラーと終生の好敵手ペップは、ともに現代に通じる技巧を持つと言われるが、映像が残っているのでそれを見る限り、現代のフェザー級ではとても敵いそうにない。
世界ヘビー級チャンピオン、ジョー・ルイスの進駐軍慰問以来、数え切れないほどの現役世界チャンピオンが来日したが、サンディ・サドラーほどわれわれ日本人に世界の壁の厚さを見せつけたボクサーはいない。それもそのはず、サドラーと言えば、今もなお歴代フェザー級十傑を選ぶ時、必ずといっていいほど上位に名を連ねる同級屈指のナックアウト・アーティストだったのだ。
サドラーがプロデビューしたのは太平洋戦争末期の一九四四年、十七歳の時だった。プロ二戦目に後の世界ランカー、ジョック・レスリーにダウンを奪われた直後に試合をストップされるという不運なTKO負け(生涯唯一のKO敗)でいきなりつまずいたが、同年七月からわずか一年半の間に三十七連勝(二十六KO)、しかもそのうち十試合が初回KOという軽量級としては常識外れの強打で一気に頭角を現した。
前NBA公認世界フェザー級チャンピオン、フィル・テラノバには終盤に体力負けしたが(一九四六年七月二十三日)、戦後は中南米を中心とした海外遠征で腕を磨き、ついに一九四八年十月二十九日、統一世界フェザー級チャンピオン、ウィリー・ペップとの対戦にこぎつけた。
サドラー終生のライバルとなるペップは、同時代の全階級のボクサーの中で最高のテクニシャンと謳われたスーパースターで、デビューから五十七連勝してニューヨーク州公認世界フェザー級チャンピオンとなったのが二十歳の時(一九四二年十一月)。連勝は六十二で一旦途切れたものの、再び七十三連勝と全く相手を寄せ付けず、この間にNBA公認のサル・バートロを破り王座統一を果たしている。サドラーを迎えての七度目の防衛戦までの戦績は一三五勝一敗(四十四KO)一引分けと非の打ち所がなく、この中にはかつてサドラーをストップした「金髪の爆撃機」ことジョック・レスリーをワンサイドでマットに沈めた試合も含まれる。
対するサドラーは二十二歳の若さにして八十五勝六敗(五十五KO)二引分けと十年選手も顔負けのリングキャリアを積んではいるが、賭け率は五対二でペップが圧倒的に有利と出ていた。これは、いかにサドラーが傑出した強打者とはいえ、変幻自在のペップの技巧を打ち破ることは不可能であろうという見方に加えて、人気抜群の白人王者に対する身贔屓があったからで、サドラーが過去に引き分けたジミー・カーター、三ラウンドでKOしたジョー・ブラウンがともにライト級の名王者になったことを考えると、この時点でのサドラーの攻撃力は過小評価されていたのだろう。
ペップ戦の三ヶ月後にも後のライト級王者パディ・デマルコをKOしているように、サドラーのパンチは一階級どころか二階級上でも十分に通用するほどフェザー級では傑出していた。
サドラーのファイティングポーズは両腕をカマキリのように前に上げて構える独特のもので、相手のパンチは叩き落とし、攻撃に転ずる時はノーモーションからいきなりビッグパンチを繰り出してくる。
ボクシングは進化の過程の中で、ライト級史上屈指の名王者ベニー・レナードが確立したコンビネーションブローが時代の主流となっていたが、サドラーは「いきなり強いやつをぶちこむのがKOのコツさ」と語っているように、常に一発KOを狙いながら歴代四位となる一〇三KOという驚異的なKO記録を築き上げたのだ。
試合は予想外の展開となった。
一七四センチとこのクラスでは長身のサドラーのリーチは、ペップのそれを十センチ上回る。スピードで勝るペップは多彩なステップワークを駆使して槍のようなジャブをかいくぐりながらスピーディーなパンチを繰り出すが、アップライトに構えたサドラーの長い腕が邪魔になってなかなかクリーンヒットが入らない。
懐に潜り込もうにも、アッパーの達人でもあるサドラーは、ロングもショートも自由自在で、スウェーでパンチをかわしながらでも、カウンターで突き上げてくるのだからたまったものではない。中でも要注意なのは、至近距離から放つダミーの右ロングフックと左ショートアッパーのコンビネーションである。
通常、接近戦では回転の速いショートブローの応酬になる。大振りのパンチを出すとしてもせいぜい離れ際くらいなもので、仮に至近距離で打たれても、左腕でブロックするか相手の胸に頭をつけるようにすれば難なくかわすことが出来る。したがってセオリーからすれば接近戦での打ち合いでロングフックを使うのは非効率的である。
ところがサドラーの右はダミー・トラップなのだ。この右は、かわした瞬間に蛇のように後頭部に絡み付いて相手の頭を押さえ込み、同時に膝のバネを利かせた左アッパーが顎を突き上げてくるというえげつないシロモノだった。
もちろん、アッパーに気付いても、頭を抑えられているため避けようがないというわけだ。率直に言えば、巧妙な反則パンチだが、激しい打ち合いという一連の流れの中では、誰もそれを意図的にやっていることには気づかない。(フライ級チャンピオン時代のポーン・キングピッチも多用した)上下から波状攻撃を浴びたペップは三ラウンドにアッパーでダウンを取られ、四ラウンドに打ち下ろしの右でフィニッシュされた。これがペップにとって生涯初のKO負けだった。
ペップはサドラーを舐めていたのかもしれない。四ヶ月後の再戦(一九四九年二月十一日)では無理に接近しようとせず、距離をとりながらフットワークでかき回し、八ラウンドまでは完全にサドラーを翻弄していた。しかし足を使って逃げる相手を追い詰めるのが上手いサドラーは、十ラウンドから猛反撃を開始する。
最終十五ラウンド、動きを見切られたペップはサドラーにつかまりグロッギーに陥るが、かろうじてゴングに救われ、判定でタイトル奪還に成功した。ペップの面目躍如たるこの試合は『リング』誌による年度最高試合に選ばれた。
これで一勝一敗となった両者は雌雄を決するべく第三戦に臨んだ(一九五〇年九月八日)。
試合は三ラウンドに不覚のダウンを奪われたものの、それ以外のラウンドを抑えたペップが優位に立っていたが、クリンチのたびにサドラーのアームロックで痛めつけられた右肩の脱臼によって八ラウンドで棄権したため、再びタイトルはサドラーの手に渡った。
不本意な敗北に納得のいかないペップは再戦を希望し、サドラーもこれを承諾。ついに世界戦史上稀に見る四度目の同一カードが実現した(一九五一年九月二十六日)。
過去の対戦でお互いの手の内を知り尽くしている両者は、一進一退の攻防を繰り返していたが、なかなか攻撃の糸口がつかめずじれてきたサドラーがレフェリーの目を盗んでダーティー・タクティクスを織り交ぜ始めると、ペップも負けじとこれに応じているうちに次第にエスカレート。何しろサドラーもペップも同時代では傑出した反則の達人である。
サドラーのサミングやキドニーブローに対し、ペップはつま先を踏みつけてのパンチやバックハンドで応酬。ブレイクの指示さえ無視して喧嘩ファイトを続ける両者のあおりを食って、レフェリーまでがペップの外掛けで投げ飛ばされたサドラーと一緒にマットに横転する始末だった。結局試合はサドラーの度重なるサミングとカットした瞼からの出血で視界を奪われたペップが九ラウンドで棄権に追い込まれている。ここまでのジャッジではペップが二対一で優勢だっただけに後味の悪い試合となった。
第四戦こそボクシング史に汚点を残す反則技のオンパレードだったとはいえ、いずれの試合も軽量級ナンバーワンのハードパンチャーとテクニシャンとによる見応え十分の熱戦だったことは間違いない。両者の対戦成績はサドラーの三勝一敗(三KO)となっているにもかかわらず、サドラーよりペップの方が評価が高いのは、サドラーが格下相手に取りこぼしが多いことと、サドラーと対戦した時のペップは全盛期を過ぎていたという理由によるものだ。
とはいえ、ペップは一九四八年から一九五一年にかけてサドラー以外には負け知らずで、四度目の対決前の戦績も一六〇勝三敗と凋落の兆候など微塵も伺えない。ましてや四十四歳まで現役を続けたペップがテンカウントを聞いたのがたった一度きりということを考えると、やはりサドラーは過小評価されているのではないだろうか。
最後はルール無用のダーティファイトを演じた両者だったが、その後は親交を結んでいる。サドラーの引退後は、二人で組んで各地でエキジビション興行を行い、結構いい稼ぎになったというから、二人とも隅に置けない。
サドラーというとフェザー級の名王者というイメージが強いが、実はJ・ライト級タイトルも手にしている。最初のフェザー級タイトルをペップとの再戦で失った十ヶ月後に行われたJ・ライト級王者決定戦で、オーランド・スルエタを十ラウンド判定に下したものだ。このタイトルは一度防衛した後、フェザー級タイトル奪還を機に返上している。
一九五五年七月のサドラーの来日はセンセーショナルだった。三年前に現役フライ級チャンピオンのダド・マリノが来日した時も大きな話題となったが、同じチャンピオンでもサドラーは格が違う。ノンタイトル戦ながら銀座通りに三千人のファンを集め、オープンカーのパレードが行われるなど、世界戦並みのフィーバーぶりだった。
対する金子繁治は東洋圏では無敵を誇る東洋フェザー級チャンピオン。目下、九連勝(七KO)と好調で外国人相手には十一勝無敗(六KO)である。一方、世界戦こそ六勝一敗だがノンタイトル戦では気合が入らないのか取りこぼしの多いサドラーは、二度目のフェザー級王座に就いてからも五度の敗北を喫しており、金子陣営としても一泡吹かせてやるチャンスは十分あると見ていた。
七月八日、小雨交じりの後楽園球場特設スタジアムで東洋と世界を代表する強打者同士の対決が火蓋を切った。まず攻撃をしかけたのは金子の方である。低い体勢から左右のフックを振るいながらぐいぐいと前に出る金子に対し、サドラーは力強いジャブで応戦。
タフネスには定評のある金子は少々の被弾は意に介さずまるで特攻機のように懐に飛び込み、三ラウンド序盤には左フックがついにサドラーの顎をとらえた。一瞬棒立ちになったサドラーに左右フックがクリーンヒット。あのピストン堀口を凌ぐと言われた猛ラッシュに観客席は金子コールに包まれたが、すでに鼻血を滴らせ視界もおぼつかないほど顔面を腫らした金子にサドラーを追う足はなかった。ラウンド後半には足が止まってしまいサドラーの左フックをまともに浴び始めた。
五ラウンドまでの採点は伊藤とサリバンが金子、林がサドラーと出ていたが、もはや勝敗は誰の目にも明らかだった。
六ラウンド、血まみれの金子にサドラーの左フックがカウンターで命中すると、さすがのタフガイも吹っ飛ばされるようにダウン。ここでコーナーからタオルが投入され試合は終わった。
東洋無敵の金子を完膚なきまでに叩きのめしたサドラーのパンチは、我々日本人に世界の壁の厚さを痛感させたが、序盤の金子の健闘ぶりも評価され、日本人のフェザー級ボクサーとして初めて世界ランキング入り(世界六位)を果たしている。
また、この時サドラーのスパーリングパートナーを務めたライト級ボクサーが当時十七歳の沢田二郎と十九歳の安部直也である。五日間のスパーリングで才能が認められた沢田は、翌月にはピンチヒッターで出場した東洋ライト級タイトルマッチで秋山政司をKOし、史上最年少で東洋王座に就き、時代の寵児となった。
一方の安部は日航パーサーや渡世人稼業など紆余曲折の人生を送った後、安部譲二のペンネームでベストセラー作家になった。十六人の早大生相手にたった三人で立ち向かい、全員を叩きのめしたほど喧嘩慣れした安部も、サドラーには自分のパンチは全く当たらなかったと述懐している。
金子戦の二週間後、マニラに飛んだサドラーは東洋バンタム級チャンピオン、フラッシュ・エロルデとノンタイトルで対戦し、いいところなく敗れ去っている。この辺がサドラーの気まぐれというか、集中力の無さというか、激戦の後にはこういう気の抜けたような試合が多い。ペップとの第四戦の直後に三連敗しているのもその表れと言えよう。
サドラー本人によると「酒と女のせい」ということだが、リングでは残酷なまでに相手を叩きのめしたサドラーも所詮は人の子。試合前は極度の緊張感から家族に対しても暴力的になり、家庭を失うはめになったことを考えれば、時には現実逃避でもしなければ精神力が持たないほどデリケートな性格だったのかもしれない。それでも肝心な試合は必ず結果を残しているところは、さすがに名王者だけのことはある。
サドラーも潔く負けを認め、苦し紛れの反則にもクリーンファイトで立ち向かったエロルデの気迫とスピード感溢れるボクシングスタイルに賛辞を惜しまなかった。
「彼はグレートボーイだ。俺のタイトルに挑戦させてやるよ」
この一言でエロルデの世界フェザー級タイトル挑戦が決定した。
過去にエロルデに二戦二勝している金子は、サドラーから大金星を挙げた後のエロルデにも勝ち、最終的な対戦成績を四勝〇敗と圧倒しながらも世界挑戦のチャンスは訪れなかった。
一九五六年一月八日に行われたサドラー対エロルデの世界タイトルマッチはエロルデの善戦が光ったが、最後はサドラーのパンチで切り裂かれた目じりからの出血が止まらず、十三ラウンドTKO負けに退いた。
後に階級を上げ世界J・ライト級王者として十度もの防衛を果たす「東洋の閃光」を返り討ちにしたサドラーには、一階級上にさえ目ぼしい敵が見当たらず、当分王座を脅かす者はいないと思われていたが、リングを降りる日は唐突にやってきた。タクシーに乗車中の事故が原因で網膜剥離を患ってしまったのだ。
三十一歳という年齢は軽量級ボクサーとしてはトウが立っているとはいえ、フェザー級では抜きん出た実力者だっただけに王者のままの引退はさぞかし無念だっただろう。
引退後はトレーナーとして後進の指導に当たっていたサドラーが再びスポットライトを浴びるのが、一九七〇年代に入って間もない頃のことである。
時の世界ヘビー級チャンピオン、ジョー・フレージャーは宿敵ムハマド・アリとの全勝対決を制した後は、歴代最強のライトヘビー級という声の高かったボブ・フォスターを子ども扱いにするなど、無人の野を行く快進撃を続けていた。その無敵王者に立ちはだかったのが、サドラーがトレーナーを務めるメキシコオリンピック金メダリストのジョージ・フォアマンだった。
フォアマンはアマチュア時代から、名参謀として名高いディック・サドラーと元世界ライトヘビー級チャンピオンのアーチ・ムーアから指導を受けていたが、プロ入りしてから何度か臨時コーチに付いた(サンディ)サドラーを敬慕し、専属契約を結ぶことになった。
力道山に招聘され、創設当初のリキジムで溝口宗男(東洋J・ミドル級王者)をはじめとする重量級の育成に尽力し、ソニー・リストン(世界ヘビー級王者)やフレディ・リトル(世界J・ミドル級王者)のトレーナーも務めたこともあるディック・サドラーは、ボクサーとしては二流以下の選手だったが、マネージメントと技術指導にかけては業界トップクラスの実績を誇る人物である。
事実、アマチュア時代伸び悩んでいたフォアマンがエリート街道を歩み始めたのはサドラーに師事してからのことだ。
そのディック・サドラーを支えるコーチが、プロボクシング史上最多となる一四五KO勝ちの記録保持者にしてクロスアームブロックの名手として鳴らしたムーアと、フェザー級史上最高の倒し屋サンディ・サドラーとくれば、フォアマンが強くならないはずがない。
単独で優秀なトレーナーは数あれども、これほどの大物三人がタッグを組んだ例はなく、超一流からの英才教育を受けたフォアマンは、大方の予想に反してフレージャーを完膚なきまでに叩きのめし、遂に世界ヘビー級の頂点に立った(一九七三年一月二十二日)。
俗に「ジャマイカの惨劇」と呼ばれるこの試合は、開始のゴングから五分足らずでフレージャーが六度もダウンを喫する一方的な展開だったが、九十八kgのフレージャーの体がフォアマンのパンチで一旦宙に浮きながらキャンバスに落下するシーンはまるでデビッド・カッパ―フィールドのイリュージョンマジックを見ているようだった。「象をも殺すパンチ」と形容されたモンスターは、まさしく四人の男の集合体と言ってよかった。
しかし、四人の蜜月も長くは続かなかった。過去のヘビー級タイトルマッチとは比較にならないほどの巨額の金が転がり込み、二度の防衛戦はいずれも楽勝だったフォアマン陣営は、慢心と報酬の取り分をめぐる争いから結束が崩れ、一年九ヶ月の短命政権に終わっている。
サドラーはそんな欲望の渦巻く世界に嫌気が差し、後年はアマチュア指導に情熱を燃やしていたが、やがてアルツハイマーを発症し、介護施設で最期の時を迎えた。
まだ病に倒れる前、作家の安部譲二の取材を受けた時には、三十二年前にスパーリングした彼のことを鮮明に覚えているほど抜群の記憶力を誇っていただけに、こういう形で人生の幕を引いたのは意外だった。
フォアマンは突然の引退後、中年になってアーチ・ムーアのコーチで甦り、史上最年長のヘビー級チャンピオンとして返り咲いたが、最も敬意を表していたのが、他ならぬサンディ・サドラーだった。
生涯戦績144勝16敗(103KO)2分
サドラーと対戦した金子繁治、スパーリングをした安部譲二と沢田二郎はもちろんのこと、金子vsサドラー戦を観戦した方は史上最強のフェザー級を見たボクシングの歴史的証人である。KO数はアーチ・ムーアとヤング・ストリブリングの方がサドラーより上だが、ムーアもストリブリングも一階級上の世界王者にKOで敗れているのに対し、サドラーは二階級を制覇しているうえ、二階級上の世界王者クラスもKOしているように、倒す技術は全階級通じて最高かもしれない。そんなグレートボクサーの全盛期のファイトが見れたのは末代までの誇りであろう。




